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「リアルな貧困」を立体的に活写する2冊の本

自己責任論のしわ寄せを子どもに及ぼさないために

佐藤美奈子 編集者・批評家

 昨年(2019)後半、ブレイディみかこ著『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)が、毎日出版文化賞特別賞、Yahoo!ニュース 本屋大賞2019ノンフィクション本大賞、ブクログ大賞(エッセイ・ノンフィクション部門)をはじめ、立て続けに複数の賞を受賞した。著者のブレイディ氏は時の人としてすっかりお馴染みになり、各所で多く書評も紹介もされているので、いまさらこの欄で触れる必要がないほどかもしれない。

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 それでも、昨年10月に刊行された秋山千佳著『実像――広島の「ばっちゃん」中本忠子の真実』(KADOKAWAWA)を読んだことで、あえて『ぼくはイエローで~』に光を当てたい思いが抑えられない。両者はともに、「リアルな貧しさ」と、子ども―大人の関係をめぐる現状に、当事者の立場からさらなる立体感を与えてくれる作品だ。なおかつ、見えにくいが確かにここにある問題をしっかり照らしている。だから本欄で、2著が描き出す光景をもとに、格差社会に特有な「リアルな貧しさ」と大人の関わりについて改めて考えてみたいのだ。

 『ぼくはイエローで~』は、音楽ライター、保育士といった経歴を十分に生かした独自で説得力ある視点が最大限発揮された、著者の他作品と比較してもとても読みやすい一冊だ。忙しくて本など読む暇がない、という人たちにも確かに届くと感じさせる一語一語が、本書と著者へのファンを増加させ続けている理由だろう。売れるのもうべなるかな、である。

ブレイディみかこブレイディみかこ氏

 本書の特質と魅力は、たとえば新潮社特設サイト内で読める書評の一部を拾い上げるだけでもよくわかる。高橋源一郎氏評にあるように、「目の前にある、貧困。差別。格差。分断。憎しみ。『息子』と『わたし』は目を背けず、ユーモアを失わず、その中に入りこ」んでいく。その結果読者は、「最後に、自分たちの子どもや社会について考えざるをえなくなる」。

 それはつまり、三浦しをん氏評にあるように、「わたし」が「息子さんと楽しく真摯に会話したり、次々に起きる騒動にさりげなく一緒に向きあったりすることで、英国のみならず、日本も含めた世界中が直面している複雑さについて、誠実に考察を深めていく」からだ。また、そういう性質により、「これが『異国に暮らすひとたちの話』ではなく、『私たち一人一人の話』だと」感じる、というわけだ。

 だからもちろん、池上彰氏の次の評言にも深く頷いてしまう。「格差社会に生きる子どもたちと、彼らをとりまく大人たちの生活ぶりを同じ視線の高さで描いているところが、ほか(の英国社会を取り上げたノンフィクション作品)とは圧倒的に異なります」(カッコ内は引用者注)。

まずご飯を食べさせないと

 このような『ぼくはイエローで~』において、格差社会ならではの貧困が痛切に伝わる挿話がある。

 著者一家が住む地域にある「元底辺中学校」に入学した息子が、登校初日の帰宅後、こんなことを言うのだ。

 「休憩時間に教室で何人かの子と喋ってたんだ。『どんな夏休みだった?』って聞いたら、『ずっとお腹が空いていた』と言った子がいた」

 この言葉は、ゼロ年代のイギリスで誕生したある語を、「腫(は)れ物に触るようなポリティカル・コレクトネス(PC)で回避しておけば解決できる問題ではない」、「問題の根元にあるのは、リアルな貧しさだから」と著者が釘を刺した直後に、例として置かれる。ある語とは、「チャヴ」である。オックスフォード英英辞典で「無礼で粗野な振る舞いに象徴される下層階級の若者」と定義され、著者宅のすぐ近くにある高層団地に住むような「白人労働者階級の総称として使用されてきた」という。

 著者一家が暮らすのは、いわゆる「荒れている地域」で、「住人の国籍も階級もまだら状態になった住宅地」。その近くの高層団地に、「ずっとお腹が空いていた」と語った少年ティムは暮らしている。ティムは4人兄弟の3番目で、ガリガリに痩せており、母親はシングルマザー。すぐ上の兄は学食で万引きばかりしていて、一番上の兄はドラッグのし過ぎで死にかけたことがある。さらに母親は「うつ気味でたくさん薬を飲んでいる」。

 著者の息子やティムが通う中学校は、かつて、地域の学校ランキングでいつも底辺にあった。全国一斉学力検査の平均点や卒業生の進学率が非常に低かった、ということだ。それが、積極的に音楽やダンスをさせたり、生徒の意欲を尊重する教育方針に切り替えたことで学業成績まで上がり、今ではランキング中位にまで浮上した。校長をはじめ学校サイドも生徒たちを誇りにしていて、さらに盛り立てていこうとする雰囲気が醸成されている。「元底辺中学校」の「元」とはこういう事情を指して使われている。

「朝食クラブ」で籠に盛られた果物やミニパンケーキなどを食べる児童ら=英国・ブラックプールどんな家庭の子どもでも自由に朝食が食べられる「朝食クラブ」=英国・イングランド北西部の町、ブラックプールの小学校で

 ただ、こうした上向き、前向きな空気が学校にある一方で、貧困や人種差別の問題が潜在していることに変わりはない。国籍も階級も「まだら」な地域に住む子たちが通う学校であるため、全員が貧しいわけでなく、だからこそ貧困を負い目に感じ隠そうとする子もたくさんいるのだ。そういう生徒のために、教師が自腹を切って食料や衣類・日用品を買い与えたり、周囲の大人に働きかけさまざまなボランティア活動をする必要も生じる。

 教師の一人で、制服が買えない生徒のために制服リサイクルのボランティアを主導するミセス・パープルは言う。「勉強やクラブ活動どころじゃない子たちもいるのよ。まずご飯を食べさせないと、それ以外のことなんてできるわけがない」と。

 こうした事態が生まれた直接的な背景には、「2010年に政権を奪取した保守党政権が大規模な緊縮財政を始め」たことがあるという。

大人のかかわりが子どもをどれだけ変えるか

 ここで一転、日本での似たような現状に目を向けさせてくれる本が、冒頭に挙げた『実像』である。本書がその半生を描くのは、中本忠子さんという女性、通称「ばっちゃん」だ。中本さんは、何をおいてもまず食べさせなくては、という思いから、「広島市基町(もとまち)のアパートを拠点に、非行少年などの更生支援にあたる保護司を七十六歳の定年まで三十年務めた」。保護司を辞めた後も10年以上「非行少年などに無償で手料理を提供してきた」中本さんの近くにも、先に紹介したティムの家族を彷彿とさせる人たちが大勢いる。

中本忠子さんの「家」には、成人した、かつての子どもたちも来る=2018年、広島市中区中本忠子さん(中央)のところには、成人した、かつての子どもたちも訪ねて来る=2018年、広島市中区

 たとえば、美々(みみ)さん一家。美々さんは40歳までの14年間、薬物依存だった。離婚した彼女は二人の息子の母親でもあったが、依存症のため子育てらしい子育てができなかった。幼な子たちはお湯も沸かせないので、インスタントラーメンをそのままかじって食べたり、早くから万引きを覚え、毎日のように繰り返したという。

 その長男と次男が先に「ばっちゃん」の世話になり、美々さんは息子たちを通して中本さんと付き合うようになる。今ではボランティアとして、「ばっちゃん」の基町の家で料理の手伝いをしている。

 著者の秋山氏はこう述べる。「中本さんの特色は、効率化とは逆行するような、美々さん自身が変わろうとするのを待つ関わり、つまり“暇”をかけることにあった。中本さんは基町の家で、無駄なようにも見える時間を一緒に積み重ねることで美々さんの居場所となり、変化を促したように映った。それは瑠愛さん(美々さんの次男、引用者注)にも同様だったし、親まで“丸抱え”することで結果として子どもが落ち着くのを実感できた」。

 『実像』の読ませどころは、「ばっちゃん」としての中本さんの虚像と実像のあいだを探り、彼女が歩んだ半生を明るみに出すことにある。本人の意図を超え「聖人」扱いされるに至った背景や、謎に包まれた彼女の活動の動機に迫ることに、本書の主眼はある。しかしそれらが描かれる過程で、基町という地域の性格や平和都市「ヒロシマ」が抱える闇、大人の関わりが子どもの状態をどれだけ変えるかについても、鮮明に視覚化されるのだ。

 そして次のような著者の指摘は、「大人とはどうあるべきか」を模索する人々すべてにとって、一考に値するものだ。

 「このまちで、社会的に弱い立場にある者が見捨てられてきた。戦争にせよ虐待にせよ、何の責任もない子どもにも、中本さんが浴びせられた『なぜクズみたいな奴らに金を使うて飯を食わせにゃいけんのか』というような自己責任論が容赦なく向けられてきた」

 図らずも、2019年9月に行われたあるインタビューではブレイディみかこ氏も、同じ「自己責任論」という言葉で現状を評している。「平成のほぼ30年、離れていた日本は、いまブレイディさんの目にどう映りますか」という質問に対し、こう答えているのだ。「一言でいうと、窮屈になった。帰国するたび、そう感じますね。様々な現場で若い人たちを取材したことがあるのですが(『THIS IS JAPAN』太田出版)、仕事でも人間関係でも、生きづらさを自分のせいにする。自己責任論というやつですね。どうにかなるという楽天的なところも感じられない。私も若いころ、めちゃくちゃ貧乏だったけど、もう少し楽天的でした。今の、この時代を覆う空気なんでしょうね、きっと」(telling,)。

 親から子どもへの「貧困の連鎖」を断ち切ることを目標とした「子どもの貧困対策推進法」がこの1月で施行6年となった。昨年11月には、今後5年間の支援方針をまとめた新しい「子どもの貧困対策大綱」も閣議決定された。が、日本の貧困率はここ約30年ほぼ変わっておらず、OECD(経済協力開発機構)加盟国中でも突出して高いという(2019年12月31日付「東京新聞」阿部彩氏によるコメント)。さらに新大綱では、「貧困率削減の数値目標も設定されて」おらず、「『現状でいい』というメッセージが強く出されている」とも指摘される(同)。日本に住む大人一人ひとりの子どもや貧困に対する大人の態度が、このようなデータに現われているのではないか。

 自己責任論が蔓延する社会(とくに日本)にあって、それでも、大人のかかわりが物を言うことを、現に変化する子どもたちの姿を通して活写しているのが、上記2著である。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。