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『リチャード・ジュエル』と『テッド・バンディ』が批判する犯人の類型化

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 前回前々回では、クリント・イーストウッド監督『リチャード・ジュエル』(以下『ジュエル』と略)とジョー・バリンジャー監督『テッド・バンディ』(以下、『バンディ』と略)をめぐる奇妙な対称性、すなわちジュエルとバンディというタイトルロールの類似点および相違点を中心に、この2本の傑作を論じた。

 今回はそれらの論点を引き継ぎつつ、『バンディ』の面会室の秀逸な画面造形、そして「プロファイリング/犯人の類型分析」という“科学的”捜査法への批判を含むバリンジャー監督の製作意図に触れてみたい。またバリンジャーの「プロファイリング」批判が、リチャード・ジュエルのこうむった“冤罪”被害に対するイーストウッドの批判に通じることを、明らかにしたい。

 『バンディ』の冒頭の、刑務所の面会室でテッド・バンディと恋人のリズが、ガラス板越しに対面し電話でやりとりするシーンは、時制的には映画における現在だ。そこから過去へとフラッシュバックされ、物語は始まる。

 そしてラストは、ふたたびその面会室のシーンとなるが、前述のように、バンディに対して半信半疑になったリズは、そのラストで連続殺人鬼である彼の正体を知って――彼女に感情移入していた観客ともども――、強いショックを受ける。そこでリズは、かつて殺人課のフィッシャー刑事(テリー・キニー)から受け取った「極秘資料」の封筒から、1枚の写真を取り出す。その写真に写っていたのは、なんと、バンディによって頭部を切断されたとおぼしい、首なしの女性の遺体だった。

 するとバンディは、湿気で曇った面会室のガラス板に指で「弓のこ」と書く。それは、彼が被害者の遺体の首を切断した凶器であった。次いで短いフラッシュバックで、バンディがある女性をバール(鋼鉄製の棒状の釘抜き)で殴打する映像が示され、彼が殺人鬼であったという事実が、念を押すように示される。このショットは、首なしの遺体とともに、本作における例外的な残酷映像であるが、いつも優しく穏やかにリズに接し、裁判では非凡な弁舌を披露したバンディの姿を印象づけられていた観客は、かえってそれゆえに、このラストで強烈なインパクトを受ける。卓抜な作劇である。

『テッド・バンディ』 全国ロードショー中  配給:ファントム・フィルム  ©2018 Wicked Nevada,LLC『テッド・バンディ』 全国ロードショー中 配給:ファントム・フィルム  ©2018 Wicked Nevada,LLC

 なお、面会室で受話器を手にして対面するバンディとリズを、カメラがバンディの斜め後ろから撮る画面も印象深い。言葉で書くとややこしいが、リズの顔が焦点化されるその画面は、二人を隔てるガラス板に、その向こうの彼女の顔の横にバンディの顔が亡霊のように映る、という構図になる。ラストのヤマ場にふさわしい不気味なショットだが、このように、ガラスを鏡のような反映装置として巧みに使った映画には、フリッツ・ラング監督の『M』(1931)や『飾窓の女』(1944)、ジョセフ・ロージー監督の『非情の時』(1956)、黒澤明監督の『天国と地獄』(1963)、ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』(1985)、ジョナサン・デミ監督の『羊たちの沈黙』(1991)などなどの傑作、名作、佳作がある(テレビの人気ドラマシリーズ『科捜研の女』(1999~、沢口靖子主演)でも、しばしば刑務所の面会室のガラスが反映装置になる場面があるが、このシリーズの迅速なプロット展開はかなりハイレベル)。

<イメージ>で犯人像を決めつけてはならない

 ドキュメンタリーの分野で活躍してきたジョー・バリンジャー監督の、『バンディ』は稀代の連続殺人鬼を扱いながらも、<反ホラー映画><反殺人ポルノ(猟奇的シーンを省いた映画)>である、という趣旨の発言は興味深いので、ここでそれを要約し、紹介しておこう(パンフレット所収のインタビュー)。

――『バンディ』は、テッド・バンディを追う捜査官を追うわけでもなく、恐ろしい犯罪行為によっておぞましいスリルを味わう彼の体験をたどるわけでもない。その代わり、観客はリズの立場で、事件の真相を追っていく。つまり、次々に展開する事件の真相がゆっくりと明らかになる中で、不当な有罪判決の物語という緊迫感が生じ、連続殺人犯の映画という型を壊すことができる。私(バリンジャー)はドキュメンタリー映画作家として、おもに刑事司法制度の改革や不当判決の窮状という問題を扱ってきたため(『パラダイス・ロスト<原題>』シリーズなど)、私(バリンジャー)がテッド・バンディの映画を撮ったのは奇妙なことに思われたかもしれない。しかし、この映画で描きたかったのは、人が相手を信じ込むことでいかにサイコパス(精神病質者)の餌食になるか、ということだ。バンディは本当にリズを愛していたのか? それこそがこの映画の答えのない問いかけである。専門家の多くは、人格異常者には人を愛する能力がないと思い込んでいる。私(バリンジャー)もその点は定かではないが、連続殺人犯の中に存在する二面性が関心を引いた。そして、実際の犯罪を取り扱ってきた経験からすると、邪悪な者というのは、連続殺人犯から小児性愛者のカトリック司祭に至るまで、あなたの隣人や高校のコーチのように見た目は普通の人なのだ。バンディ自身が(エンド・クレジットに流れる記録映像中で)注意しているように、「……人々は自分たちの中に殺人者が潜んでいることに気づいていない。好きになり、愛し、一緒に暮らし、慕っている人物が次の日には想像し得る限りの最も悪魔のような人間にならないとも限らない」のである。これこそ悪の本質だ。また、テレビ中継されたバンディの裁判と今日の実録犯罪ものの急増は、直接に結びついている(実録犯罪映画は、実在の犯罪事件を「糧(かて)」にして娯楽/エンタメの人気商品になる――藤崎注)。さらに、バンディの死刑執行はテレビでライブ放送され、何百万人もが視聴したが、要するに彼は連続殺人事件をテレビの見世物にしたわけだ。私(バリンジャー)は、実録犯罪ものを専門とするフィルムメーカーとして、自分の仕事が社会正義への意欲と結びついている、と思いたい。私(バリンジャー)は人々の悲劇から娯楽を作ることの矛盾を強く意識している(この言葉には、凶悪犯罪への好奇心と社会正義/倫理をめぐる、バリンジャー自身の相矛盾する思いが表れている。これは殺人鬼映画を娯楽として消費する、私たち観客の相反感情でもある――藤崎注)。

 このバリンジャー発言のポイントのひとつは、

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