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【1】パンデミック下の書店

多用な価値観、異なる意見、矛盾する見解をぶつけながら共生するアリーナ

小笠原博毅 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

 福嶋聡さま

 新型コロナ・ウイルスによる肺炎の流行で、大学の教室を閉めてオンライン授業が推奨され、書店は休店や時短営業を余儀なくされています。書店のあり方をずっと模索されてきたジュンク堂難波店の福嶋聡店長は、いまどんなことを考えていらっしゃるんだろう。教室を使えない大学教師の問いかけから、この往復書簡を始めたいと思います。

 まだ福嶋さんがジュンク堂池袋店の副店長をされていたころでしたね、初めてお目にかかったのは。僕が日本に帰国して最初に作った『サッカーの詩学と政治学』(共編著、人文書院、2005年)を出版した後に、共編著者の有元健さんと刊行記念の書店トークをさせていただいたのが最初でした。

本屋という場所に期待される意味と機能は

Chrispictures / Shutterstock.com

 その後福嶋さんが堂島の大阪本店を経て難波店に移られてから、何度も書店でのトークを開催させていただいています。もう7、8回を数えるのではないでしょうか。単著や共編著も含めた自分の著作に限らず、ついこの間(3月6日)は、惜しくも急逝した科学史家アーロン・ムーアの遺作『大東亜を建設する−帝国日本の技術とイデオロギー』邦訳刊行記念トークにも呼んでいただきました。

 書店で、それも小規模の本のセレクトショップ的な書店ではなく全国展開する書店チェーンの大店舗の売り場の一角で、本を眺めるお客さんのすぐ脇で、レジで商品のバーコードを検知する「ピッ」という音が聞こえる距離で、その日初めて出会う方々の前で、1冊の本や1つのテーマについて語り対話するという経験は何ものにも代えがたいことであるとともに、僕が予備校と大学に通っていた30年少し前はそれほど一般的な催しではなかったような気がします。

 スコットランドのグラスゴーやロンドンで暮らしていた頃、書店でのトークにはよく行きました。本屋ってこんなにしょっちゅう著者のトークをやるもんなんだなぁと思ったものです。もしかしたら日本でもやっていたのかもしれませんが、時々目にしていた「刊行記念トーク」は、すでに有名な作家、ジャーナリスト、おそらくゴースト・ライティングされた芸能人やスポーツ選手による、サインや握手がもれなくついてくる類のものだったと思います。学者や研究者でも、もう有名になった業績たっぷりの人ばかりだったはずです。ではマイナーな書き手はどうしていたかというと、高田馬場や吉祥寺の小さな喫茶店や飲み屋を時間で貸し切って話をさせてもらっていたのですね。

 イギリスでは著者が有名無名にかかわらず、本を出したらプロモーションも含めて本屋で話す、というのが流れとしてできあがっていたように思います。街の小さな本屋、ラディカルな社会運動が母体となっている本屋、ウォーターストーンズやもうなくなってしまったディロンズなどの大型書店。その規模や立地にかかわらず、そして話し手が有名か無名かにかかわらず、先週セイディ・スミスが喋ったそのフロアで今週はローカルなパブの常連ばかりを写した写真集を発売したばかりの美大生が、ピーター・アクロイドの翌日には博士論文を本にしたばかりで仕事も決まっていない元大学院生が、J.M.クッツェーが喋っている向かいの本屋ではつい最近亡くなった母親の伝記を自費出版したタクシーの運転手が、それぞれの本について語っているのでした。

 書き手に平等に与えられる書店トークという機会を、僕はとてもいいものだと思っていました。日本に帰国してみると、若手の駆け出し研究者や、僕のような留学帰りの無名の大学教師にまで書店トークのチャンスが与えられようになっていました。

 その間、1990年代後半から2000年代前半にかけてですが、本屋という場所に期待される意味と機能が変わったのでしょうか。それとも、本屋自体が意味と機能を積極的に変えていこうとしていたのでしょうか。

 福嶋さんは書店の現場での販売の陣頭指揮を執るだけでなく、『書店人のしごと』(三一書房、1991年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年)、『希望の書店論』(人文書院、2007年)、直近では『書店と民主主義−言論のアリーナのために』(人文書院、2016年)やその他の書籍と数々の雑誌への寄稿を通じて、紙でできた本という「もの」を媒介として成り立つ場所としての本屋、場所としての書店、そこでの書店員という役回りや言論の自由(あえて「自由」とつけさせていただきますが)の育まれ方や、その逆に、書店という場所がいかに言論の自由を制限しかねないのかという危ういところまで、とても旺盛に発言されてきました。

 一連のこうした著作は、書店は単に「書物を展示して売る場所」にとどまらず、知識、知性、姿勢、態度、思考が、ときには共存し、ときには行き違い、ときには齟齬をきたしながらも、相互に接触する場所であるということを強く訴えるものだと思うのです。

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 しかし、この新型コロナ・ウイルスによる肺炎の流行によって、書店という場所のユニークさがなかなか発揮されない状況になってしまっています。

 電子書籍やネット媒体の発達による「本離れ」とは根本的に異なる事態に、書店は直面しています。お客さんが本を手に取れないのですから。手に取れないどころか、

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