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師匠が空に消えた、13年前のあの日

事故で世を去った玉川福太郎を思う(下)

玉川奈々福 浪曲師

 13年前に亡くなった、私の師匠・玉川福太郎の、5月23日は祥月命日です。

 公演がない、いまできることはなにか、と一生懸命前向きなことを考えようと思うのだけれど、ふっと思い出のなかに引きずり込まれて、物思いにふけってしまう時間が増えてしまいました。

 師匠の亡くなったときのことを、ちゃんと書いていなかったので、この際、書いておこうと思った、前回に続いての、後編です。

親族、弟子、友人たちが駆けつけて

玉川福太郎。豪快な節とたんかで浪曲界を牽引、ユーモアもある芸風も愛された。農作業中の事故で2007年に61歳で死去。「浪曲英雄伝」で『平手の駆けつけ』を演じる=2005年、森幸一撮影

 眠り続ける師匠。

 信じられない。そんな。だめですよ、師匠。

 この頭の中にあった、あんなに数多くの演題が、もう、この頭の中では死んでしまっているというの?

 異様にノドがかわく。腰が痛い。たぶん熱が出ている。「血が逆流する思い」という言葉があるが、本当に血は逆流するんじゃないだろうか。

 姉弟子の福助姉さんと、妹弟子のぶん福に電話をした。師匠の状況を話した。

 二人とも絶句していた。

 弟弟子の太福に電話。

 ――落ち着いて聞いてね。

 「はい」

 ――師匠ね。あと数時間か、もって数日って言われたの。

 「……えっ!」

 ――私は病院にいます。来るか来ないかはあなた自身が判断しなさい。

 2カ月半前に入ったばかりの弟弟子。「来い」と呼びつけるべきかどうか、彼と師匠の距離感が私にはわからない。ただ新潟からなら、日本海沿いに電車でそうかからず来られるはずだ。来るだろうな、と思った。

 知らせるべき人を一生懸命考える。

 会いたい人は会ってもらったほうがいい。

 夕方のニュースで重体と流れたらしく、師匠のお友達が駆けつけてきた。みんなに会ってもらう。外傷がなかったことが救い。

 師匠の手。師匠の足。うなっていた師匠の口。

 ウソでしょう。

 おとうさんに頼りすぎた。私のせいだ、いい人だった、やさしい人だった……みね子師匠が、誰に言うともなくつぶやく。農作業なんかさせなきゃよかった。おとうさんにハンディがあるのに、私はそのことを考えてあげなかった。

 師匠は小児結核が原因で、手にちょっと障害があった。右肘(ひじ)に人工関節を入れていた。その2年前に大病をしたが、その肘が膿んで、人工関節をとってしまっていた。

 ……怖かったんだよね、田植え機運転するの。無理をさせちゃったんだよね。

 9時過ぎ。太福が駆けつけた。ほどなく東京から、師匠の息子たち、兄弟、親戚、そして豊子師匠が駆けつけた。それからものの30分。すうっと師匠の命は消えた。

「鹿島の棒祭り」稽古してもらうはずが

口演する玉川福太郎=森幸一撮影
 息子たちは現実が受け入れられない。太福は、ぼうっと、暗い廊下で一人で考え込んでいる。

 各方面へ連絡。協会。新聞。

 最後に会ったのは、5月9日だった。赤坂の某クラブで浪曲。みね子師匠のご都合が悪くて、私が弾かせてもらった。「中村仲蔵」と「天保水滸伝 鹿島の棒祭り」の二席。私はそのとき、「鹿島の棒祭り」を師匠にお許しいただき、覚えている最中だった。

 「玉川の子なんだから、『天保水滸伝』一席くらいはできないとな」

 だから「棒祭り」を弾けるのは嬉しかった。

 曲師というのは特権的な存在だ。師匠の浪曲を特等席で浴びるように聞ける。入門して12年。相変わらず三味線はあんまりうまくなくて、なのに、こんな三味線に、そのとき師匠はいっぱいギャラをくれた。ご贔屓(ひいき)さんの車で、駅まで送ってもらって、下りる間際に師匠は、ひとこと「ありがとうな」と言ってくれた。

 それが、最後の言葉。

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