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【4】閉じられながら開かれた場所

民主主義国家において覚悟を求められるのは、為政者ではなく主権者である国民だ

福嶋聡 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店

 小笠原様

 第3信、ありがとうございます。

 3月初めの段階で、「その程度の国家が強権性を発揮できる余地が垣間見えていた」というのは、言い得て妙だと思いました。安倍首相こそ、「ピンチをチャンスに」を目論んだ人かもしれません。悲願のオリンピック開催が危ぶまれたピンチを、「国民総動員」のチャンスに変えることによって。

教育の役割の「すべて」とは

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 ただし、安倍首相は悲願の憲法改「正」にもなかなか手を付けられず、職務の本質上、また彼のポピュリスト的性格からも、国民の支持を誰よりも必要としていることは間違いないと思います。だからこそ、うまくいかぬ時に露骨に嫌な顔をし、強権的な言葉を発してしまうのでしょう。「その程度の国家」の宰相でも、権力の源泉は、やはり国民なのです。

 そのことを言い換えれば、「私が首相だ」という、法治国家では根拠にならない根拠を振りかざす首相が率いる「国家」が「その程度の国家」であることを知り、「程度」を少しでも向上させるためには、国民が賢くなるしかない、ということです。徳島大学の山口裕之先生が言う通り、〝民主主義とは、すべての市民が賢くなければならないという、無茶苦茶を要求する制度〟(『人をつなぐ対話の技術』日本実業出版社)なのです。

 「民主主義は最悪な政治」と言ったチャーチルは、それが「無茶苦茶を要求する制度」であることを分かっていたのでしょうか。それでも、彼は「これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」と付け加えないわけにはいかなかったのですが。

 民主主義を当然の制度(当然そうであるべき、と当然そうなっている、の両面で)と標榜し、信じている現代世界の住人は、「みんなが賢くなる」という困難な課題を、おそらく無意識にではあれ、前提しているのであり、選び取っていることになるのです。そのことの自覚がない限り、民主主義は、容易に「お任せ民主主義」になってしまいます。

 選挙で与党に投票しただけで、あるいは投票しなくとも自分が参加した選挙で与党が勝利しただけで、与党総裁が最良の選択をし、国民を導いてくれる、国民はそれに従うべきだ、という「自発的隷従」(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』ちくま学芸文庫)に変節していってしまうのです。

 この傾向の理由は、端的に、その方がラクだからです。「指導者」の判断にすべてを委ね、その判断の責任をすべて「指導者」に帰す「お任せ民主主義」という「反民主主義」の方が、自らの行動規範と具体的な行動を、「不確実性の時代」(ガルブレイス)のさまざまな状況に対峙し、必要な情報を入手し、自ら考え決定する「民主主義」よりも、ずっとラクだからです。だとすれば、民主主義国家において覚悟を求められるのは、為政者ではなく主権者である国民だと言えます。一人ひとりにその覚悟を促し、覚悟の実践を担保する知識と思考能力を与えることこそ、教育の大きな役割、あるいは役割のすべてと言って良いかもしれません。

 だから、ぼくたちの議論の舞台が、書店から教室へと移っていくのは(とはいえ、また書店に戻っていくつもりですが)、自然な成り行きです。為政者が、「コロナ・ショック」という未曾有のピンチを、より実効的な支配のチャンスに変えようとしているとすれば、それに対峙するために必要なのは、まさに教育だからです。その意味で、安倍首相が何の法的根拠も提示しないまま、アタフタと「学校閉鎖」の「要請」を発したのは、意識的か無意識的かは措いて、非常に整合的であったと思います。教育の中断は、思考の停止→「お任せ」へとつながる道だからです。

「無駄」や「余計」に、大切なものが潜んでいる

 『世界』5月号が「コロナショック・ドクトリン」と「デジタル教育の虚実」の二つを特集したのは、実際には偶然だったのかもしれませんが、結果的に時宜にかなった取り合わせでした。そういえば、『現代思想』も5月号「緊急特集 感染/パンデミック」に先立つ4月号の特集は、「迷走する教育」でした。

 民主党政権時以来のデジタル教育=教育のICT化は、ぼくたち書店の人間にとって、

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