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【6】「書店の日常」と弁証法

安心して入っていくことのできない場所は、「言える場所」にはなり得ない

福嶋聡 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店

 小笠原様

 第五信、ありがとうございます。

 たしかに、「弁証法」は大げさだったかもしれません。でも、その大げささが、小笠原さんを予想以上に刺激できたことは、思わぬ収穫でした。ぼくは、とても日常的な場面を念頭において、その言葉を使ったからです。ぼくが書店の店頭に立って仕事をしているとき、教えられる事の方が圧倒的に多いという意味でです。

対話のキモは「正」-「反」の緊張感の中にこそある

ジュンク堂書店福岡店

 まず、店のスタッフから教えられます。彼ら彼女らは、毎日大量に入ってくる本を捌き、書棚に並べています。新刊が出たら、棚や平台の商品と入れ替えなければならない、そのためには、今積まれている商品の売れ行きを把握しておかなければなりません。また、新刊を事前発注する時には、その本の著者の既刊や関連する商品がそれ迄どれだけ売れたかを知っていなくてはなりません。お客様から求められた様々な本の在り処についても、明らかに頭を悩ましてその本を書棚に並べたスタッフの方が詳しいので、ぼくはいつも彼ら彼女らに頼ります。

 多くのことをお客様から教わることも、ぼくたちの日常です。レジにお客様がお持ちくださった本を見て、「あっ、こんな本があるんだ」「この本、もう出たんだ」と思って、あとで買い求めて読み始めることが、実はよくあります。そして、そうして読んだ本は「当たり」であるケースが多いのです。

 もっと貴重なのは、お客様からの問い合わせです。それも、販売に繋がらなかった問い合わせ。必要とされる本を仕入れていなかったことの気づきになり、更には、確かにそういう本は出版されていないな、ということを知らされることもあります。出版社への提言にもつながる、何よりの情報です。販売に失敗することは、POSデータからは決して得られない、書店という場でお客様と言葉を交わすことでしか得られない、とても重要なマーケティングなのです。

 この最も重要なマーケティングについて、出版=書店業界は未だ有力な方法論を、確立はおろか提示さえできていません。前回申し上げたIT化によって、むしろ後退していると言っていいでしょう。「経費削減」という効率化のもと、出版社の営業担当者の訪店機会は大きく削減され、思わぬところにヒントが隠されているかもしれない「対話」「雑談」の機会がなくなってしまったからです。そのことに無自覚な営業担当者は、自社の本がその書店でどれだけ売れたかという、老眼が進んできた身には見る気も起きない細かい数値のエクセル表を置いていくことだけが仕事だと思っているようです(笑)。

 こんな、本屋の商売の日常風景に「弁証法」という言葉を使うのは、確かに大げさかもしれません。しかし、そもそも「弁証法」と訳されたDialektikは、日常語の「対話」ですから、また、ヘーゲルは、『精神現象学=意識の経験の学』を、最も直接的で誰もが生きていく上で先ず出会う素朴な体験から始めようとした(ヘーゲルが文章化すると、その体験じたいが難解なものに見えてしまうのは認めますが)のですから、決して間違った言葉の使用法ではないと思います。

 小笠原さんがこの言葉の利用について留保された理由は、よくわかります。マルクス主義の(あえて「マルクスの」とは言いません)の史的唯物論的なユートピア思想が、20世紀に大きな悲劇をもたらしたことは、事実です。「弁証法」が孕んでしまう「合」というゴールの危険性は、理解しているつもりです。その危険への警戒は、ぼくの「正義」に対する警戒と通底すると思います。でも、ぼくは、「弁証法」=「対話」が、そうした目的論的思考に収斂してしまうものとは思わないのです。むしろ、「弁証法」=「対話」のキモは、「合」にあるのではなく、「正」-「反」の緊張感の中にこそあると思うのです。

「絶対知」は、呆気ないほど「空疎」なもの

 確かに、『精神現象学』の「意識の経験」の道程を、「正」-「反」-「合」の繰り返しという図式で説明するのは、分かりやすい方法だと思います。しかし、一方、『精神現象学』の中では、苦労して辿り着いた筈の「合」が、次の節、次の章では新たな「反」に出会い、すぐに覆されてしまいます。そして、最後に辿り着いた「絶対知」は、

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