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60年安保から60年。〝敗北のレクイエム〟が今に語り継ぐものとは その1

【22】西田佐知子「アカシアの雨がやむとき」

前田和男 翻訳家・ノンフィクション作家

60年安保と70年安保の間の不連続

 今年は60年安保闘争から60年、70年安保闘争から50年の節目にあたる。さる6月10日には憲政記念館で記念集会が開かれ、また6月15日には、当時東大文学部自治会副委員長だった樺美智子が斃れた国会議事堂南通用門前で恒例の追悼集会がもたれた。

60周年を迎えた樺美智子の追悼集会。樺が亡くなった国会南門前に100人以上の人が集まった。マイクを持つのは三上治=2020年6月15日

 60年前の歴史的な運動が切り拓いた成果を未来へ託すべく、後継世代にも招集がかかり、65年大学入学で70年安保世代との中間世代にあたる私も双方の集まりに参加した。いまや80歳を超えたかつての「若き闘士」たちから、「運動承継」が熱っぽく訴えかけられたが、かねてから私の中でわだかまり続けている〝疑念〟が首をもたげた。

 60年安保については、数多くの文章や語りによって往時の言説が残されてきたが、それがいくら充実していても、頭では理解できても情緒的共感が伴わない。それでは後世への伝承などおぼつかないではないか、という〝もどかしさ〟と戸惑いである。

 頭では理解できても情緒的共感が伴わない象徴的事象をあげると、

 ♪アカシアの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい

 ではじまる西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」であり、それが60年安保闘争の敗北と挫折に対する「鎮魂の唄」とされることである。

西田佐知子=1960年8月
 「アカシアの雨――」は安保闘争が盛り上がりをみせる1960年4月にシングル・リリース。ジャズ歌手志望だったがなかなか芽がでず、ポリドールに移籍、名前を本名の「佐智子」から「佐知子」に代えて転機をはかった西田に提供された楽曲だった。翻訳されてフランスでもベストセラーになった芹沢光治良の代表作「巴里に死す」の主人公・伸子の心象風景をモチーフにしたものだが、おそらく〝高踏趣味〟すぎたからなのだろう、ほとんど人々の口の端にものぼらなかった。それが、なぜか1年を過ぎたころからヒットチャートに躍りでて、さらに1年後のNHK紅白歌合戦では、美空ひばりの「ひばりの佐渡情話」や吉永小百合の「寒い朝」をさしおいて、大トリをつとめた島倉千代子の「さよならとさよなら」の一つ前で歌われるのである。相手の白組はフランク永井の「霧子のタンゴ」。そのときの視聴率はなんと80.4%を記録した。

 まさに戦後歌謡史を飾る謎の重大事件といってもいいだろうが、これについて、歌謡業界では次のような「解釈」がなされて、今に語りつがれてきた。いわく――

 この頃から紅灯の巷を中心に有線放送がひろまりはじめた。それに、無名のハスキーボイスの女性歌手によるやたらに暗い曲のリクエストが相次いだ(実際、一晩に10回以上もかかる〝独り勝ち状態〟が続いたという)。あれこれ調べてみると、どうやら、この無名の曲に、前年の安保闘争に参加した若者たちが自らの挫折感を仮託・共振させているらしい。そこから、「アカシアの雨――」は〝60年安保闘争のレクイエム〟と解釈されることになったというものだ。

 マスコミ嫌いで知られる西田だが、珍しいことに、自身をスターダムに押し上げた代表曲について、この業界の〝解釈〟に同調してこう答えている。

 「どんなふうに歌ったらいいのかわからなくて。恋人を思う歌ではあるんだけど、異国情緒っていうか、シャンソンの雰囲気もあったし。心からわいてくるやるせなさを大事にして歌った覚えがあります。それが時代の気分とマッチしたのでしょうか」(毎日新聞2005年5月27日夕刊、特集WORLD:視角アングル「戦後60年 アカシアの雨がやむとき」)

 作詞家の水木かおるのコメントも西田と同様である。

 「何となく肌で感じたことを歌にしたのが、たまたま時代の純粋な人たちの心に受け入れられたのでしょう」(朝日新聞1990年5月22日朝刊、特集「30年前アンポがあった」)

歌:西田佐知子「アカシアの雨がやむとき」
 作詞:水木かおる、作曲:藤原秀行
時:1960(昭和35)年6月
場所:国会議事堂南通用門

〝死に損ないの気分〟で「アカシアの雨――」を歌った全学連幹部

 以上の経緯から、私も「『アカシアの雨――』は60年安保闘争のレクイエム」説をこれまでかたく信じて疑うことはなかった。しかし、はたしてそれは事実に基づくものだったのだろうか。改めて検証してみることにした。

篠原浩一郎=1963年3月
 先日の集会に先立って、全学連中央執行委員として60年安保を指導・牽引した篠原浩一郎に、その疑念をぶつけたところ、生涯の盟友の全学連委員長・唐牛健太郎との思い出話をまじえて、こう答えてくれた。

 「当時、

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