2020年07月13日
女たちは密やかに旅を始め、覚醒した――倉橋由美子『暗い旅』をめぐって
1970年代、日本の若者たちは突如海外旅行へ出かけるようになった。1972年の海外出国者は初めて年間100万人を突破し、そのうち3.5人に一人が20代の若者だった。女性に限れば、渡航者の半数近い約45%が20代で占められていた。
その原因はどういうものだったのか? なぜ彼や彼女は海を渡ろうと思ったのか?
実はこちらにはその実感がない。当時私も10代の後半から20代へ差し掛かる「若者」だったのに、ついにそのような衝動に突き動かされなかったからだ。実感がない以上、まずは書かれたものを手がかりに考えてみるしかない。
背景には第一に、ボーイング747型機、いわゆるジャンボジェットの就航がある。急増した座席数によって需要が増え、価格が下がった。これで若年層が航空機による海外旅行に手が届くようになった。第二は、1971年のニクソン・ショックによる変動相場制への移行。1ドル360円の固定相場制が崩れ、円高ドル安の進行でツアー料金のさらなる低下が進んだ。第三は、1978年の成田国際空港の開港による国際線就航路線の大幅な拡大である。
日本で新しいスタイルの若者の旅が生まれたのもこの頃だった。
ヨーロッパから来るチャーターフライト(貸し切り便)のフェリー便(客のいない往路・復路便)に最初に着目したのは、海外旅行研究会、JISU(日本国際学生連合)などの学生団体、大学生協連合会などである。彼らは、こうした空便から生まれる団体割引チケットでパッケージツアーを仕立てた。大阪万博に飛来したジャンボジェットのフェリー便が最初の標的になった。
またこうした動きの中で、1973年の秋、ダイヤモンド・ビッグ社が企画し、翌年の春催行した「自由旅行」は、アメリカとヨーロッパの二つのコースで学生を現地に送り出し、1カ月程度の期間、自由な旅をさせるという旅行商品だった。そのコンセプトは「長期・低予算・周遊の旅」。拠るべき情報がほとんどない中で、参加した学生たちは文字通り手探りで食事を求め、宿を探し、目的地を巡った。
それぞれ腕に抱えきれないほどの情報と感慨を抱いて帰国した彼らは、それを“次の旅人”に伝えるべく体験記を寄せた。これが最初の『地球の歩き方』(1976、非売品)として
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください