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原爆の惨禍を世界に伝えたジョン・ハーシーの『ヒロシマ』

原爆投下をめぐる論争は終わらない。その原点となった衝撃のルポルタージュ

三浦俊章 ジャーナリスト

 世界で初めて原爆を投下し、一般市民を虐殺したのはアメリカだったが、その惨禍を世界に広く伝え、原爆の非人道性を告発したのは、そのアメリカのジャーナリズムだった。原爆投下から75年、大国の核軍拡が止まらない今こそ、その最初の本格的ルポであるジョン・ハーシーの『ヒロシマ』(1946年8月発表)を再読してみよう。

 アメリカの専門誌「原子力科学者会報」は1947年以来、人類の絶滅を午前0時として、どこまでそこに近づいているかを時計の針で示す「終末時計」を発表してきた。

人類の絶滅まであと100秒

 米ソ冷戦の激しい時代は、針が2分前とか3分前を示すこともあった。冷戦が終わってソ連が崩壊した1991年には、針は17分前まで戻った。その時計が2020年現在、100秒前という史上最悪の状況を示している。

 米ロの中距離核戦力全廃条約が失効するなど、核の拡散防止や軍縮の枠組みが揺らいでいる。中国が急速に核戦力を近代化し、米中の「新冷戦」がささやかれている。イランや北朝鮮などの核開発への歯止めも見えないからだ。

 しかし、1980年代に米ソの核軍拡が加速し、世界終末時計が4分前や3分前を示したときは、西ヨーロッパを中心の広範囲の反核運動が盛り上がっていたのに、いま、核戦争への危機意識はかつてのような広がりはない。冷戦が核を使うことなく終結したことで、「核戦争が起こらないだろう」と油断しているのではないか。新型コロナへの警戒感ばかりが語られるが、その影で進む「終末への秒読み」に人々はあまりにも鈍感すぎる。

 戦争の記憶がまだ生々しかった時代、人々は核兵器への畏怖、正しい恐れを持っていた。

 それを最も的確に伝えるジョン・ハーシーの『ヒロシマ』をひも解いてみよう。

被爆直後のヒロシマ。手前は広島県産業奨励館(原爆ドーム)=1945年8月9日、松本栄一撮影

その日、不気味な沈黙が支配した

 1945年8月6日の朝、日本時間にしてかっきり8時15分、東洋製缶工場の人事課員佐々木とし子さんが、ちょうど、事務室の自席に腰をおろし、隣の机の女性事務員に話しかけようとふりむいたその瞬間、原子爆弾が広島上空で閃光を発したのである。

ジョン・ハーシー『ヒロシマ 増補版』(法政大学出版会)
 ハーシーのルポ『ヒロシマ』は、まさにその瞬間から語りはじめる。

 登場するのは原爆投下のときに広島に住んでいた6人の人物。冒頭の女性事務員に加えて、ふたりの医者、夫を戦争で失った仕立屋のおかみさん、イエズス会のドイツ人神父、日本人のメソジスト教会の牧師である。

 あの日キノコ雲の下で何があったのか。「ヒロシマ」は、この6人の目を通して語られる。

 全身にやけどを負いながら、水を求めて叫ぶ人がいる。倒壊した家々の下に閉じ込められ、はい出せなくなった人々がいる。火の手が迫り、死を覚悟した人々が「天皇陛下万歳」と叫んだ。だが一方では、不気味な沈黙があたり一帯を支配していた。

 あたりはひどい人混みで、生きているのか死んでいるのか、見分けもつかなかった。何百人もの、ぞっとするようなけが人が、ひとつところで苦しんでいるのだ。負傷者はしんとしていた。泣く者もいない。死んでゆく誰もが、物音ひとつ立てるわけでもない。子供さえ泣かず、話をする者もほとんどいない。原爆の閃光に焼かれて顔一面つぶれてしまった人が、水をのませてもらうと、少し身を起こして、感謝のしるしにおじぎをした。

 淡々とした描写が続く。声低く語るルポは、読む人の心臓をつかんでいく。

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