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必見! 黒沢清『スパイの妻<劇場版>』――映画内映画、箱、廃墟など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 前回ではおもに『スパイの妻<劇場版>』の物語構成や人物設定について論じた。今回は作中で反復、変奏されるいくつかのモチーフや仕掛け、たとえば<映画内映画>や<箱状>の小道具が、どのように物語を活気づけているのかを見ていこう。

黒沢清『スパイの妻<劇場版>』 ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I/10月16日(金)より全国公開黒沢清『スパイの妻<劇場版>』の聡子(蒼井優) ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I/10月16日(金)より全国公開/配給:ビターズ・エンド/配給協力:『スパイの妻』プロモーションパートナーズ

 前回も触れたように、主人公の聡子(蒼井優)の夫である福原物産の社長・福原優作(高橋一生)は、熱心なアマチュア映画作家でもあり、彼の撮影した映画が作中で<映画内映画>として映写される。そしてこれも前回触れた、満州の或る研究施設での光景を撮影した「記録フィルム」のほかに、優作は聡子が女スパイに扮するモノクロの劇映画を撮影している。

 そのスパイ映画の撮影と映写の光景が、冒頭まもなくの福原物産の倉庫のシーンで描かれるが、仮面をつけた女スパイ/蒼井優が金庫を開けた瞬間、背後から竹下文雄(坂東龍汰)演じる男に摑みかかられ仮面を剥がされる。そこで優作はカットの声をかけ、二人の演者に撮り直しを告げる――。

 いわば起承転結の「起」の時点で、唐突に描かれるこの奇妙な場面は、観客の心をざわつかせる。なぜか? まず言えるのは、始まったばかりの『スパイの妻』という映画で、スパイ(の嫌疑をかけられる男)の妻・聡子を演じるはずの蒼井優のほうが、映画内映画で仮面をつけたスパイ役として登場するから、観客はいくぶん幻惑されながらスクリーンに見入るのだ。

 しかし、それだけではない。というか、それと関わって、そこでは、<映画を観ること>についての、より本質的な機微に触れる何かが、観客の心に働きかけるのではないか――。

 そもそも<映画内映画>とは、映画の中に入れ子状に挿入されたもう1本の映画だ。その点で<映画内映画>は、虚構内の虚構(あるいは虚構以上の虚構)であり、いわば映画を二重化する仕掛けである。

 そして、『スパイの妻』の中の劇映画は、主演を務めるのが聡子/蒼井優自身であるゆえ、聡子の像/イメージそれ自体が二重化され、分裂し、観客の知覚をいくぶんか攪乱するのだ(<映画内映画>ないしイメージの二重化は、「なんでもあり」の前衛的な「アート・フィルム」ではなく、オーソドックスなジャンル映画内で描かれたほうが、ジャンルという制約がプラスに働くぶん、より蠱惑(こわく)的なものとなる。それは鈴木清順監督のシュールな映像(物語を断ち切るように不意に出現する赤、青、黄の原色画面など)が、後期の奇想天外な「アート・フィルム」においてより、日活の雇われ監督時代に撮ったヤクザ映画やアクション映画の中で唐突に出現するほうが、より強いインパクトを持つことと似ている)。

<箱状の小道具>の重要な役割

 『スパイの妻』で優作の撮った女スパイの映画は、少しあとの――アメリカの対日輸出制限が始まり、日米開戦が間近に迫った時期の――福原物産の忘年会の場面でも映写されるが、この<映画内映画>でいまひとつ重要なのは、金庫という<箱状の小道具>が重要な物語的役割を果たすことだ。

 というのも、その<映画内映画>の中で聡子が扮した女スパイは、前述のごとく、何らかの秘密が隠されているらしき金庫を鍵で開けるが、金庫の開閉は、『スパイの妻』のいわば<地の部分=本体>でも、聡子によって2回、優作によって2回、つまり計4回反復される。

 物語の順序にそって言えば、まず優作が、くだんの国家機密を詳細に解説したノート(原本と英訳版)を、福原物産の金庫に仕舞い、鍵をかける(優作が真相を聡子に語る直前)。その後、聡子は優作の留守中に福原物産を訪れ、金庫を開け、ノートとフィルム――くだんの「記録フィルム」――を自宅に持ち帰り、そのフィルムを観る(観客にとっては、その「記録フィルム」も<映画内映画>だ)。

 そして聡子は或る思惑から、憲兵隊本部に行き、分隊長の津森泰治(東出昌大)にノートを渡す、という大胆な行動に出るが、そのために文雄は憲兵に逮捕され拷問にかけられる。2回目に金庫を開けた優作は、ノートとフィルムが盗まれていることに気づくが、直後、憲兵に連行されてしまう。

福原優作(高橋一生)と津森泰治(東出昌大) ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I福原優作(高橋一生、左)と津森泰治(東出昌大、右) ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

 後半の、聡子が2回目に金庫を開ける場面で、彼女は、英訳版ノートとフィルムを手元に残していたことを優作に告げ、やがて二人はアメリカへの亡命の準備を始める。そして終盤の、「記録フィルム」の所在を突きとめた憲兵隊の前で聡子がそれを映写するシーンでは、聡子ともども観客は快哉を叫ぶだろう(観てのお楽しみ)。さらに

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