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コロナ禍の2020年にチャペック『白い病』を訳す

疫病を描いた戯曲が問う、現代の世界と私たち

阿部賢一 東京大学准教授

 チェコの作家・劇作家カレル・チャペック(1890~1938)の戯曲『白い病』の新訳が刊行された。正体のわからない伝染病が広がり、人々を不安と恐怖が襲うこの物語を、東京大学准教授、阿部賢一さんは、新型コロナウイルスの感染が広がる中で翻訳した。描かれているのは疫病、戦争、権力、情報……、この作品の今日的意味を読み解く。

視界不良の中、今こそ訳すべき作品

 2020年4月7日(火)、皆さんは何をしていただろうか。

 そう、新型コロナウイルス感染拡大を防止するため、東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県に緊急事態宣言が出された日だ。

岩波文庫『白い病』(カレル・チャペック作、阿部賢一訳)
岩波文庫『白い病』
 その日、多くの人が様々な感情を抱いていたことだろう。先が見えないことへの不安、自由に外出できないという閉塞感、そして未知の疫病に対する恐怖。このような状況下、誰もが情報を追い求めていた。テレビ、新聞、ネット、様々な媒体がこの病気を話題にしたが、少なくともその時点では、病気の全貌を明らかにすることはできていなかった。私たちの誰もが、情報という海に溺れていたのである。

 目の前の視界がはっきりしないとき、人々は過去へと目を向ける。2020年、デフォー『ペストの記憶』、カミュ『ペスト』といった作品は多くの人々を惹きつけた。疫病を題材にして、今日の我々に通じる不安、閉塞感、恐怖を見事に描いていたからである。

 そのような折、私はある戯曲を手にした。

 チェコの作家カレル・チャペックの戯曲『白い病』である。

 作品は、疫病に罹患した患者の言葉から始まる。

 ペストったらペストだ。うちの通りにある家はどこも、ペストにかかってる奴が何人もいる。おい、お前もあごに白い斑点ができてるぞ。ある奴は元気で、何もなかったというのに、次の日には、おれみたいに、体から肉がすっかりそげ落ちてしまったらしい。これはペストだ。(筆者訳)

 以前読んだことはあったものの、これほどまで生々しく疫病を描いていたことはすっかり忘れていた。

 「ペスト」「パンデミック」といった言葉の一つひとつに驚きながらページをめくり、第一幕を読み終える頃にはあることを決めていた。

 今こそ、つまり緊急事態宣言の状況下でこそ、この作品を訳すべきだ、と。

 同時に、なるべく早く、多くの人とこの作品を共有したいという想いも抱いた。

 この作品には既訳があるものの、当時、書店や図書館は閉鎖されており、多くの人が手に取れる状況にはなかった。そこで、4月7日以降の毎日、就寝前の一、二時間を『白い病』の翻訳に当てることにした。週末には推敲をし、数場ずつnoteというウェブサイトで公開を無料で始めた(その後、公開から5ヶ月が経過したこと、さらに岩波文庫の一冊として刊行されることに伴い、9月中旬、ウェブでの公開を終了した)。

戦争の影濃く、埋もれていた作品

カレル・チャペック
 この戯曲は、五十歳前後になると皮膚に大理石のような白い斑点ができ、しまいには死にいたる感染病、通称「白い病」を題材にしている。

 特効薬が見つからない中、治療する町医者のガレーンは薬を見つけたかもしれないと枢密顧問官ジーゲリウスに大学病院での臨床実験をさせて欲しいと依頼する。ジーゲリウスは渋々了承するが、それは、独裁者である元帥が戦争の準備を推し進める時代であった。疫病と戦争が並行して進行する中、医者ガレーンは特効薬を楯にして、大学病院の枢密顧問官ジーゲリウス、軍事財閥を率いるクリューク男爵、そして軍部を統率する元帥らと対峙していく……。

まつもと市民芸術館で上演された『白い病』(公演のタイトルは『白い病気』)の舞台。医師ガレーン役の串田和美(演出も、左)と、ジーゲリウス役の武居卓=2018年、山田穀撮影
 戯曲『白い病』は、チャペックが亡くなる前年の1937年に発表されている。それは、ヒトラーのナチス・ドイツが台頭し、中欧の勢力図が書き換えられつつあった緊迫した時代だった。

 1938年3月、ナチス・ドイツはオーストリアを併合し、同年9月にはミュンヘン会談でズデーテン地方のドイツへの割譲が決定される。1939年3月にはチェコはドイツの保護領となり、チェコスロヴァキアという国家はヨーロッパの地図から消えてしまう。チャペックがこの戯曲を執筆したのは、第二次世界大戦前夜の暗雲が立ち込める時代のことだったのである。

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