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演劇の実験室、俳優のゆりかご、文学座アトリエの70年

和洋が混在する空間の精神を考える

鵜山 仁 演出家

 日本で最も長い歴史を持つ劇団「文学座」(1937年創立)。数々の名舞台を生み出し、大勢の俳優や演出家らを育て、日本演劇界を支え続けているこの劇団のシンボルともいえる「文学座アトリエ」が、完成から70周年を迎えた。演出家、鵜山仁さんが、この「特別な空間」についてつづる。

若い役者育てる不思議な洋館

 JRの信濃町駅から徒歩で10分足らず、「新宿区信濃町10」という住所に、ちょっと不思議な洋館が建っている。

 竣工が1950年(伊藤義次設計)というから丁度今年で創立70年。ここがわれわれの拠点、稽古場であり劇場でもある文学座アトリエだ。

完成したばかりの文学座アトリエと当時の劇団員ら=1950年

 かつて文学座の創立にかかわった三幹事の一人、岩田豊雄(※)が1958年に起草した「アトリエ憲章」という文章がある。長くなるが、ところどころ私見をはさみながら、その一部を紹介してみたい。

 「アトリエは文学座及び文学座々員のためのものである。世間や時流と無関係の立場に置かれる。」

 世間や時流と無関係な演劇があるのかと、思わず突っ込みたくなるが、まずはそういう不偏不党の真空状態を仮想するところから、この憲章は始まっている。

 アトリエは文学座の明日のために研究し、練習する機関である。従って研究生や準座員の基礎的な技能向上の道場として、教則本的な台本をとりあげるであろう。その場合の配役方針は、原則的な適役主義を以て臨むべきであるが、時として、その逆を試むことも望ましい。まだ固定していない若い役者の隠れた才能を、ひき出し得る場合があるからである。

 何よりもアトリエが、若い役者の研鑽の場であるという姿勢がはっきり表れている。教則本的な台本を取り上げつつ、必ずしも適役主義で臨むとは限らないと、つまりは若い、新しい可能性にかけると言う姿勢、これは今日でもアトリエの一番の優先命題だと言える。

岩田豊雄=1969年撮影
※ 岩田豊雄(1893~1969) 慶応義塾を経てフランスに遊学の後、新劇に携わり、翻訳、演出、劇作などを手掛ける。岸田国士、久保田万太郎とともに文学座創立の「三幹事」の一人。「獅子文六」のペンネームで書いた小説でも人気を集めた。69年文化勲章受章。

芸術的良心、アリバイ的隠れ家

文学座アトリエ(左)、壁(右)にはラテン語で「この世は舞台」という意味の言葉と女神像の浮き彫りがある

 アトリエは以上の方針を以て運営されるが、時として、文学座の本公演ではリスクを高く予想される実験的台本を採用する場合もある。(中略)本公演では見られぬような、難解或いは急進的な芸術性を持つ台本をも、手がける場合を生ずるだろう。それをアトリエ本来の仕事と考えてもいいし、文学座の実験的公演と考えてもいい。そこに質的区別はない。そこに文学座とアトリエの不可分の関係がある。ただその試演の規模の大小があるのみである。

 つまりアトリエは、文学座の芸術的良心というか、商業主義に流れない、武士は食わねど高楊枝といった新劇的系譜の、ややアリバイ的な隠れ家だったのかもしれない。

 アトリエが冒険的な試演をなす場合に、前衛劇がとりあげられる場合が多いだろう。しかしいかに度々前衛劇が上演されても、アトリエは前衛劇団とはならない。アトリエはいかなる演劇思想とも関係がない。保守的にも進歩的にもなり得ない。

 前衛劇をやっていても前衛劇団にならないというのは、ちょっと気になる表現だ。実はこのあたりに文学座という劇団の本質がかいま見えるような気がする。引用の最後のくだりは、「アトリエはあらゆる演劇思想と関りがある。保守的にも進歩的にもなり得る。」と読み替えることもできるだろう。

 アトリエの上演目録は、従って、あらゆる時代と種類の劇を含むだろう。ただその選択はその時々の研究状態が決定すべきである。

 というわけでどうやら、冒頭の「世間と時流に無関係な」というくだりとはやや矛盾した結論に至っているような気もするが……。

文学座アトリエの会で上演された『NASZA KLASA(ナシャ・クラサ)私たちは共に学んだ』(髙瀬久男、2012年)。第2次大戦下のポーランドを舞台に、同じ教室で学んだ10人の男女の運命を描く=飯田研紀撮影

多様な作品呼び寄せる「土着モダン」空間

 ここで簡単にアトリエの歴史に触れておく。

1950年 アトリエ完成。以降、アトリエ公演の会場となる

1960年 ベケット『ゴドーを待ちながら』、イヨネスコ『犀(さい)』を上演

 その後もウェスカー、アヌイ、ジロドゥ、オールビー、ジュネらの前衛的な作品を採り上げ、共感を呼ぶ

1960年代にアトリエで上演された前衛的な作品。㊧㊤ベケット『ゴドーを待ちながら』(安堂信也演出、60年)、㊨㊤イヨネスコ『犀』(荒川哲生演出、60年)、㊧㊦オールビー『動物園物語』(荒川哲生演出、62年)、㊨㊦アラバール『戦場のピクニック』(長岡輝子演出、65年)

1964年 前年のアトリエにおける真摯純粋な演劇活動とその業績により、第14回芸術選奨文部大臣賞

1971年 アトリエ改装、額縁舞台(プロセニアム・アーチ)を取り壊したことで新たな劇場空間が誕生

1972年 「シェイクスピア・フェスティバル」開催

1973年 つかこうへい、金杉忠男らの作品を「現代作家シリーズ」として上演

1974年 別役実『数字で書かれた物語』上演、以降、別役作品を連続上演

1977年 前年の活発な活動により「文学座」が第11回紀伊國屋演劇賞団体賞

1991年 前年の『グリークス』の企画・製作に対して「文学座アトリエの会」が第25回紀伊國屋演劇賞団体賞

2001年 アトリエ50周年記念公演『マイ シスター イン ディス ハウス』が第8回読売演劇大賞優秀作品賞。「50周年記念公演」の成果でアトリエの会が第1回倉林誠一郎記念賞の団体賞

2003年 前年の活発な活動により「文学座」が第37回紀伊國屋演劇団体賞

2013年 第20回読売演劇大賞で『NASZA KLASA』が最優秀作品賞、「文学座アトリエの会」が芸術栄誉賞 

2019年 アトリエが新宿区の地域文化財に登録される
        (「文学座ホームページ」より抜粋)

大きな反響を呼んだ「シェイクスピア・フェスティバル」の『ハムレット』(出口典雄演出、1972年)。江守徹(中央)が主演した

 空間としてのアトリエの魅力は、何といってもその木の質感。床下に土の気配を感じさせる「英国チューダー様式」の洋館という、いわば土着モダン、和洋混在の両義性にある。このあたりが演目として多様な作品を呼び寄せる根拠のひとつなのかもしれない。

難解、急進もあり、異論の中に進歩

 2020年から3本を2本に減らすことになったのだが、年2本のレパートリーの選定には、文学座の意思決定機関である幹事会の指名によるアトリエ委員という10人内外の劇団員が当たる。実際の演目の決定プロセスは年ごとに微妙に違うけれど、おおむね、その年ごとのテーマの検討、そのテーマにのっとった企画の公募、応募作のプレゼンテーション、上演演目の選定というような過程をたど り、アトリエ委員が合議の上で最終的な結論を出す。アトリエ委員会で選ばれた企画は幹事会で承認というステップを踏み、年度末の劇団総会で決定という運びになる。

 実はこの、幹事会で承認という段階がスムースには運ばない場合があって、時には反対意見が出てアトリエ委員会に差し戻し、なんてことも起こるのだが、このあたりは、さっきの「アトリエ憲章」にも「本公演では見られぬような、難解或いは急進的な芸術性を持つ台本をも、手がける場合を生ずる」というくだりがあるくらいだから、実はもともと織り込み済みのドラマだと考えていいだろう。

 異論の出ないところにはオリジナリティーもなければ進歩もない。むしろこれこそが、アトリエの精神なのだと思う。

 ところで70年代の初め、僕がまだ文学座にかかわる前、当時つかこうへいさんの拠点でもあった「暫(しばらく)」という劇団の関係者から、まあ冗談半分に、文学座のアトリエは、つか作品を広く知らしめてくれたのはいいけれど、俺たちの生みの苦しみをかすめ取っていい思いをしていると、そんな話を聞かされた覚えがある。

 当時は、アトリエとか文学座とかというのは全くけしからんところだと反感を覚えたものだ。

つかこうへいの代表作『熱海殺人事件』は文学座アトリエで初演された(藤原新平演出、1973年)。角野卓造、金内喜久夫らが出演

確信犯的「二番煎じ」の持つ意味

別役実が文学座に初めて書き下ろした『カンガルー』(藤原新平演出、1967年)
別役実作『にもかかわらずドン・キホーテ』(藤原新平演出、2011年)=飯田研紀撮影

 アトリエは勿論、多くの書き下ろし作品を上演してきた。

 初期のアトリエを牽引してきた福田恆存、三島由紀夫、矢代静一。その後も別役実、つかこうへいをはじめとして作品を提供してくれた作家は実に多様だ。

 しかし今あらためて振り返ってみて、創設以来変わらない翻訳劇の意 欲的な紹介も含め、結局のところアトリエでの上演は「前衛劇団」のそれでは なかったのではないか。むしろ文学座が持つ多様雑多な体質ゆえに、提供の仕方に独特の手心が加わった「第二前衛」、一党一派にくみしないという、確信犯的「二番煎じ」だったと言えなくもない。

 まあ、あらゆる表現はつまるところ二番煎じ、三番煎じ的な側面を持つのであって、だからこそ「前衛劇」にとっても、そういう表現の継承と発展、検証、蓄積の場を持つことに意味があるのだと思う。過去四十年、この空間のおかげで多大な恩恵をこうむってきた僕自身は、そんな結論に至っている。

ふだんは黒いアトリエの内部を白く塗って上演されたシェイクスピア悲劇『リア王』(鵜山仁演出、2015年)。リアの江守徹(右)と道化の金内喜久夫=宮川舞子撮影
 以前やはりアトリエに新作を提供してくれた劇作家の清水邦夫さんが、演劇の醸成には、薄暗くヒンヤリとした冷暗所、発酵倉庫のような場所が不可欠だ。よき素材が共にそこで充分時間をかけて切磋琢磨することで、初めていい芝居ができる。文学座にとってはその場所がアトリエだとおっしゃっていた。

 今あらためてアトリエにこもり、一定期間寝かされ、この時空をじっくりと共有する。そのことによって得られるふところの深い、息の長い「声」と「表情」の発見に、更にはそれを共に楽しめる観客との出会いに、僕らはまだまだ期待をかけている。

2010年にアトリエで開催された附属演劇研究所の50周年記念の「大同窓会」。ここで学んだ約620人が集った=飯田研紀撮影