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水島新司引退宣言へ贈ることば

中野晴行 フリーライター、編集者、京都精華大学マンガ学部客員教員

 マンガ家・水島新司が2020年12月1日付で引退すると発表した。

 1939年生まれの81歳。目やペンを持つ手を酷使するマンガ家という仕事を続けるにはたしかに高齢だが、3歳年上のさいとう・たかをが現役として「ゴルゴ13」、「鬼平犯科帳」という2本の連載を続けていることを考えるとまだ早いような気がしないでもない。

引退を発表したマンガ家・水島新司さん=2011年引退を発表したマンガ家・水島新司さん=2011年

 新潟市の小さな鮮魚店の次男坊だった水島が、大阪の貸本専門出版社・日の丸文庫の短編集『影』の第1回新人漫画コンクールに投稿した「深夜の客」で新人賞二席に選ばれデビューしたのは1958年。その頃の水島は中学校を出て水産物問屋で早朝から昼まで働き、夕方からは深夜まで家業を手伝い、その合間を見つけてマンガを描いていた。

 筆者はかつて、日の丸文庫社長だった故・山田秀三に取材をしている。新人賞一席に選ばれなかった理由は「新人にしてはあまりにうますぎたから」だったという。授賞式は心斎橋の不二家レストラン。新潟からやってきた水島に山田は「大阪に出て編集部に寝泊まりして、編集を手伝いながら先輩たちの作品を見て勉強したらどうか」と提案した。新潟に戻った水島は1年やってダメだったら新潟に帰る、と家族や勤め先を説得して単身大阪にやってきた。

=筆者提供水島新司『くれない探偵』(秋田書店)=筆者提供
 山田によれば、来阪後の水島は日の丸文庫の倉庫の一角を改造した小部屋で寝起きしながら、早朝から編集部の雑用をこなし、マンガも執筆。『影』のほかに、日の丸文庫の時代劇短編集『魔像』にも作品を発表した。59年には秋田書店の月刊誌『冒険王』に「くれない探偵」を連載するなど仕事の幅を広げ、約束通りにマンガ家としてひとり立ちすることができた。

 さらに、60年には日の丸文庫の倉庫を出て、大阪市阿倍野区のアパート「日之出荘」に移る。日之出荘時代からの仲間が劇画家の影丸譲也だ。

「地味でタンタンとした生活記録」からドラマを生んだ

 1961年1月、水島はその後の水島マンガの原点とも言うべき作品を描いている。『影』別冊・水島新司特集の描き下ろし中編「わが家のホープさん」である。

「わが家のホープさん」を掲載した『影』別冊・水島新司特集(日の丸文庫)=筆者提供「わが家のホープさん」を掲載した『影』別冊・水島新司特集(日の丸文庫)=筆者提供
 舞台は新潟。主人公は貧しい鮮魚店の長男・吉田健一。地元の白新中学を卒業した健一は進学をせず家業を助けている。父親の新蔵は大きな料亭の次男だったが、博打好きのために勘当された身。今もパチンコ好きでほとんど働かず、仕入れのお金までパチンコにつぎ込んでいるありさまだ。当てにならない父に代わって店を切り盛りする母親は、難産のために鼓膜を傷つけ、片方の耳が聴こえないハンディを抱えていた。家族はほかに弟の新介と妹の加津子がいた。

 健一は父をなんとか立ち直らせようとするが、パチンコ好きはおさまらず、ようやく立ち直ろうとした矢先に、車にひかれかけた子どもを助けようとして亡くなってしまう。魚屋としての腕を磨くために健一は東京の料亭で住み込み修業をする決心をした。

 作品はあくまでもフィクションだが、設定は水島の生家がモデルになっていることがわかる。水島の父親もギャンブル好きで、一家はそのために貧乏だった。次男の新介は水島自身だろう。健一や新介が通う白新中学は水島が通った学校と同じ名前。ちなみにお隣にあったのが明訓高校だった。20年後に健一が自分の料亭を新潟に開店するという結末は若い水島の希望でもあったろう。

 『影』の派手なアクション劇画や、『魔像』の残酷時代劇が売りものだった日の丸文庫としては異色作と言っていいだろう。「あとがき」にもこうある。

 「日常生活において、どこにでもあるような出来事を笑いと涙でまとめ上げて見たつもりですが、物語自体地味でタンタンとした生活記録なので、その構成・動き・表情などに全力を尽くしましたが満足していただけたか心配です」

 だが、この短い言葉は、

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