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『世界のひきこもり』『家族と国家は共謀する』が映す家族という無法地帯

ブラックホールだからこそ見えない暴力

佐藤美奈子 編集者・批評家

『世界のひきこもり』は正論にあらがう

 「ひきこもりの世界」ではなく、「世界のひきこもり」。「ひきこもり」の語から連想する勝手なイメージ──同調圧力への一種の抗いとして起こる、いかにも日本的な現象──と、グローバルな存在だと言いたげな「世界の」という形容がそぐわない気がして、思わず手に取った。『世界のひきこもり──地下茎コスモポリタニズムの出現』と題した本(ぼそっと池井多著、寿郎社)である。

=撮影・筆者ぼそっと池井多『世界のひきこもり──地下茎コスモポリタニズムの出現』(寿郎社)=撮影・筆者
 なるほど、実体験として世界各国の「ひきこもり」の人々と関係しつづけてきた著者を通して眺めることで、読了後には、「ひきこもり」として生きる「世界の」一人ひとりの姿が浮かび上がる。

 自身が「ひきこもり歴35年、『世界ひきこもり機構』(GHO)を創設した」(帯)という50代の著者が、得意の語学を生かし、インターネット経由のインタビューを敢行して成ったのが本書である。

 「『ふつうの人』たちが活躍している地上の社会では、常識が幅を利かせ、正論が掲げられ、クールで手短な言葉が好まれる」。これに対し「ひきこもりたちが地下茎を通じて交信している言葉は、重く不器用で冗々(くどくど)しいことが多い」。「ふつうの人」たちが「面倒くさい」と思って避ける領域にあえて入り込み、感情や思考を「忠実に置き換えよう」とし、「苦悶の果てに絞り出」される言葉だからこそ、「常識をくつがえし、正論にあらがう」。

 それらはまた、「オーダーメイドなので、正論のように大量生産でき」ず、「なかなか人々に受け容れてもらえない」。しかし、だからこそ「自分たちが個々に主体である世界を展開している」。

 こうした「ひきこもり」の人々の言葉を、著者は「真論(しんろん)」と名付ける。「真論」が国境を越え、「地下茎」のように張り巡らされているさまが、本書で描かれるというわけだ。それぞれ立場が異なるだけに──「ひきこもり」をやめたいと切望している人もいれば、能動的に受け容れている人もいる──「団結」はできないものの、彼らのネットワークでは「個別性と多様性が保証され」ている。

 ひきこもりの人々を「治療」や「支援」、「救出」の対象としか見なさない専門家に対して、著者は疑問やアンチの姿勢を隠さない。理由は、彼らが主体を持つ存在であることがそもそも見落とされているからだ。

 実際にフランス、中国、アメリカ、アルゼンチン、インド、イタリア、パナマ共和国、スウェーデン、バングラデシュ、フィリピン、カメルーン、北朝鮮に暮らす(暮らした)「ひきこもり」の人々の生々しい言葉に、本書では触れることができる。「ひきこもり」に至るまでの経緯や現時点での苦悩、率直な思いを吐露する言葉に接することは、読む者をも「自己を見つめる作業」にいざなう。優れた一つの告白、手記に立ち会った感慨を覚えたが、その経験自体が本書を読む醍醐味にもなるはずだ。

Nicole RerkshutterstockNicole Rerk/Shutterstock.com

「真論」が気づかせる、家族関係のもたらす傷

 さて、こうして切実かつ豊かな「真論」に触れた後、いかにも日本的な現象だろうと思った、冒頭で述べた私自身の「ひきこもり」へのイメージは確かに崩された。日本社会「だから」、いわゆる「ひきこもり」が起こりやすいわけではない。そのことが本書から感じられる。

 「ひきこもりとは、近代的な個人主義社会に典型的な、社会における自己実現という過度な圧力に反応して活性化される、人間の対応戦略である」。これは本書で紹介されるイタリアの社会心理学者マルコ・クレパルディ氏による「ひきこもり」の定義だが、頷けるものがある。この定義に説得力を感じるのだから、「ひきこもり」が日本に特有の現象でない事実も補強される。

 ただ、この定義だけでは説明できない「何か」が、「ひきこもり」現象の背後に蠢くのを感じる。本書を読み終えたあと、「ひきこもり」の人々の声を通してほぼ例外なく感じられたのは、彼らが抱く深くて大きい絶望(感)だ。深い絶望は、たしかに「社会における自己実現という過度な圧力」に根差すのかもしれない。しかしそれと同等、あるいはより密接に絶望(感)とかかわるのは、まさに著者のぼそっと氏による告白が示すような、本人と家族との関係だ、との思いが強まるのだ。

 著者自身がマルコ氏との対談のなかで、家族が持つ「構造的な病理」と「ひきこもり」との結びつきに水を向ける。ぼそっと氏は「私の主体を剥奪し」たのは母だと語り、出会って来た世界の「ひきこもり」の人々のなかにも、自分と同じ家族関係における病理を発見する(言うまでもないが、「ひきこもり」の人すべてがそうだ、などと著者が主張しているのではない)。

ぼそっと池井多ぼそっと池井多

 最も痛切に響いたのは、著者が経歴を述べる際に現われた母親への言及だ。ぼそっと氏の「ひきこもり」は、23歳時に始まった。就職活動では誰もが知る「優良企業」への内定が決まったが、機を一にして部屋から出られなくなった。

 その後、「積極的に自殺しなくても死ねることに期待し」て、大学を卒業せずアフリカへ向かう。30歳手前まで、海外で「そとこもり」(国外の社会で「ひきこもる」こと)を続けるが、帰国後は海外経験をノンフィクション作品として発表することを勧められる。某賞の次点も獲得し「国際ジャーナリスト」の肩書で4年ほど活動するのだが、やがて「ガチこもり」(「ひきこもり」の重い状態)に陥る。「ガチこもり」に至る様子を、著者はこう説明する。

 「母親に虐待されて育ってきた私の中には、幼いころからたくさんの傷が膿んで埋もれている。私にとって言葉とは、それらの膿を深くから掻き出し、外へ放り出す貴重なツールだった。そのツールをよく知らない国の政治や経済へ使ってしまうと、心の膿がたまっていき、どうにも重たくて仕方がない。~(略)~魂に差し迫っているわけでもない遠国の出来事を、国際ジャーナリストとしてさも重大事件であるかのように書く仕事は、私の心に逆らう作業であった」と。

 別の箇所では、こうも述べる。「なぜ私がこのようであるかを説明するもっともらしい理由を、しきりに社会などといった外側に見つけ出そうとしていました。しかし、それなりに歳をとってきて、私の中の『母問題』にメスを入れることが、次第にタブーではなくなってきました。すると、『母問題』こそが、三〇年以上もひきこもりをやっている私がなぜこのようであるかを説明する最大の要因であることが深く自覚されてきたのです」。

 そして、「『ひきこもりになるのは母子関係が悪いから』などと短絡的に言うつもりはありません」と断った上で、「(「ひきこもり」の人々の)『多くの人間関係を持たない』という関係性の持ち方には、母との関係性が何かしら反映されているのではないか、とも私は考えているのです」と語る。

 つまり著者の言葉は、家族関係(彼の場合は主に母との関係)に注目する、あるいはそれを自覚すること無しに「ひきこもり」状態の説明はできない、という事実を示している。著者のケースでは、社会の圧力から受ける傷より深い場所で、母との関係で負った傷が口を開けており、それが体の反応(「ガチこもり」)をもたらした様子が見えてくるのだ。ある意味でショッキングな、著者と父親との関係も本書で述べられるが、その関係も、母親の存在抜きには成立しないことがわかるものである。

関係の臨界点としての「ひきこもり」

 母子・父子関係、ひいては家族の問題が「ひきこもり」現象に及ぼす影響の大きさに改めて感じ入っていた折、まさしく家族に関する「常識をくつがえし、正論にあらがう」別の言葉に出会った。公認心理師・臨床心理士の信田さよ子氏の新刊『家族と国家は共謀する──サバイバルからレジスタンスへ』(角川新書)である。

信田さよ子氏の新刊『家族と国家は共謀する──サバイバルからレジスタンスへ』(角川新書)信田さよ子『家族と国家は共謀する──サバイバルからレジスタンスへ』(角川新書)=撮影・筆者
 最も身近で「無法地帯」だからこそ、家族という場所で起こる暴力は隠蔽され、忘れられる。そういう家族に潜む病理の理解に役立つのが、実は国際政治で用いられる視点・概念であり、それを取り入れることが問題解決につながる、との論が展開される。豊富な事例や対策を明かしながら、「国家の暴力(戦争)の被害と家族における暴力(DVや虐待)の被害は深いところでつながっている」模様が提示される。

 一見無関係に思える家族と国家で振るわれる暴力が互いに通底し、タイトルにあるようにそれらが「共謀する」さまが、スリリングに暴かれるのだ。親は敬うべし、理不尽で厳しい言動も「しつけ」として受け入れ、従うべきといった、親をめぐる常識や通念は吹き飛ばされる。

 家族が孕む多数の問題の一つとして、「ひきこもり」が例に挙がる箇所もある。信田氏が真っ先におこなうのは、「焦点を、引きこもりを変化させることから両親のチームワークの形成へとシフトする」ことだと言う。しかも、そのシフトが「一番の難題」だと。

 さらに、こうも述べられる。「私たちが試みようとしているのは、家族の関係を土台からつくりかえることだ。『息子の引きこもり』が表現しようとしているのは、これまでの家族関係の限界、いわば臨界点である。一つの問題が生じたことによって、その家族は大きな構造改革を迫られているのだ」。子の「ひきこもり」に立ち向かうには、家族関係を「土台からつくりかえる」必要がある、というのである。この途方もなさ!を思う。

 信田氏が長く注力してきた、母子問題が孕む「歴史性」(日本で今、自明とされる家族形態は、明治以来のたかだか約100年の歴史しか持たない)を踏まえた上でなお、土台からつくろうとする行為の凄さに想いが及ぶ。常識や通念が邪魔をすることで問題が隠される家族という空間が、まるでブラックホールのように見えてくるからだ。

 だからこそ、苦しみの所在を言語化、可視化することが、問題の発見や軽減につながると示す本書と、ぼそっと氏の告白が放つ力と勇気がいっそうリンクし、輝いてくる。