メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

必見! エリック・ロメール特集(下)――豊潤なエロス、<偶然/賭け>…

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 今回は前回につづいて、エリック・ロメール「六つの教訓話」中の2作を中心に取り上げ、その他の公開作品は<付記>としてコメントしたい。

『コレクションする女』(1967、「六つの教訓話」第4話、長編、カラー)

『コレクションする女』『コレクションする女』 ©Eric Rohmer/LES FILMS DU LOSANGE

 タイトルの“コレクションする女”(「誰とでも寝る女」の意味)からも察せられるように、ロメール的エロチシズムが耐え難いほどの強度で画面を席巻し(とはいえ露骨なポルノグラフィックな描写はゼロ)、またキュートで奔放なショートカットの若い女、アイデ(アイデ・ポリトフ)に惹かれる、主人公アドリアン(パトリック・ボーショー)の優柔不断が、例のモノローグによって滑稽かつスリリングに描かれる、ロメールの出世作。

 そして、前回紹介した『モンソーのパン屋の女の子』や『シュザンヌの生き方』同様、アドリアン(「ぼく」)の内的モノローグが軸となる『コレクション』でも、蠱惑(こわく)的なヒロインのアイデは、アドリアン/「ぼく」にとって終始「謎の女」だ。

 アドリアンは、アイデが何を考え、誰と関係しているのか、さっぱりわからない。したがって、本作でもまた、考えすぎる男に対して、ヒロインは考えすぎない女、あるいはひょっとすると「何も考えていない」女、かもしれない。

 ただしロメール映画のヒロインたちは、フィルム・ノワールの<宿命の女/ファム・ファタール>のように、男を破滅の淵に誘う<悪女>ではない(ちなみにファム・ファタール映画の傑作、ダニエル・シュミット監督の『ヘカテ』(1982、デジタル・リマスター版)も、東京・渋谷のBunkamuraル・シネマでリバイバル上映されているが、この映画については、2014・07・17、07・23の本欄参照)。

ファム・ファタール映画”の傑作、『ヘカテ』の魔力
“ファム・ファタール映画”の傑作、『ヘカテ』の魔力(続)

 また『コレクション』は、多くのロメール映画がそうであるように、恋愛映画である以上に<恋愛論映画>であり、ロマンチックな恋愛場面よりも、人物たちが恋愛やセックスについて饒舌に語るシーンのほうがずっと多い(ロメールは恋愛映画において、登場人物にアイロニカルな距離を取ることで、メロドラマを周到に拒否している)。

 たとえば序盤の或るシーンでは、恋と外見の美醜の関係について、人物たちは様々な意見を交わす。──好きになったら醜男(ぶおとこ)も魅力的に見える、と一人の女が言えば、自分は醜い男には魅力を感じない、カフェで5分だけ話すのも嫌、醜男だってことは他人に対する侮辱よ、とかなんとかキワドイ言葉をもう一人の女が返す(ロメール独特の演技設計により、人物たちはあまり抑揚のない自然な口調でしゃべる。よってそれらの会話場面では、エスプリの利いた内容の面白さとともに、聴覚的な快をも堪能できる)。

 もうひとつ、この映画のカメラを担当したネストール・アルメンドロス(1930~1992)は、本作が撮影監督としての長編デビュー作だが、このスペインの名カメラマンがとらえた、南仏のまばゆい陽光を反射する海面、ビキニ姿のアイデ・ポリトフの日に焼けた悩殺的な裸身、緑濃い草木などの映像は、まさしく眼福というほかない美しさだ(アルメンドロスは自然光による撮影を得意とした)。<★★★★★>

『モード家の一夜』(1969、「六つの教訓話」第3話(*)、長編、モノクロ)

*本作は第4話の『コレクションする女』(1967)より早く構想されていた

『モード家の一夜』『モード家の一夜』 ©Eric Rohmer/LES FILMS DU LOSANGE

 男性主人公が二人の女にほぼ同時に惹かれるといった、ロメール恋愛劇の典型的シチュエーションに、<偶然/賭け/運>をめぐる宗教談義や哲学談義をまぶした名品だが、二人の魅力的な女に対する、むっつり顔をした敬虔なカトリック信者である堅物の主人公/語り手(ジャン=ルイ・トランティニアン)の言動が、笑いが喉につかえるような異様なおかしさだ(ロケ地は冬のクレルモン=フェランだが、この中部フランスの都市の雪景色や室内の明暗を撮りおさえるアルメンドロスの撮影が絶品。また本作でも、名前が明らかにされないエンジニアの主人公/語り手のモノローグがじつに効果的)。

 ──ある夜、<偶然>にも主人公は、美しい未亡人モード(フランソワ・ファビアン)の家に泊まる。モードは挑発的な態度で主人公をベッドに誘うが、そこでの彼の煮えきらないグズグズぶりはケッサク(観てのお楽しみ)。主人公はいっぽうで、教会のミサで若い女フランソワーズ(マリ=クリスティーヌ・バロー)を見初め、彼女は私の妻になるだろう、なぜなら、それは神の摂理だからだなどと独白する(!)。

 やがて主人公は、フランソワーズに再会することが神の恩寵であり、機会/幸運(chance:シャンス<仏語>)である、などと自分に言い聞かせ、彼女に出会うべく、『モンソー』の主人公のように街中を歩き回り、あるいは車を走らせる(車を運転する主人公の視点からのカメラの前進移動撮影も見事)。また主人公が街で見かけたフランソワーズを尾行するところは、ヒッチコックの『めまい』(1958)を連想させるシーンだ(ロメールは大のヒッチコック狂=ヒッチコキアンであった)。

 そして、ついに主人公が街でフランソワーズに声をかける場面で

・・・ログインして読む
(残り:約2622文字/本文:約4941文字)