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「震災後10年」が過ぎ去った今、いわきの劇場から

「いわきアリオス」での歩みを振り返る【上】

萩原宏紀 演劇制作者、いわき芸術文化交流館アリオス企画制作課

 福島県いわき市は、東日本大震災で強い揺れと津波に襲われた。そして、原発事故から避難してきた人が、いまも大勢暮らす町でもある。ここにある市の劇場「いわきアリオス」が見つめてきた「この10年」を、劇場で演劇・ダンスを担当する萩原宏紀さんがつづる。

「3月11日」が過ぎた今、だからこそ

 東日本大震災から10年が経った。3月11日の前には様々なメディアで「福島」や「震災」「原発事故」という言葉を目にした。そして12日以降、パタッと見なくなった。その後、聖火ランナーの話題で少し復活したが、またすぐに見かけなくなった。そのことに違和感を抱いている人は少なくないだろう。私自身もそうだ。

いわき芸術文化交流館アリオス=福島県いわき市
 2月下旬、「この10年、そして今」をテーマに原稿の依頼を受けた。正直、私には荷が重いと感じた。私は2012年4月から福島県いわき市の公共劇場に務める演劇制作者であり、物書きを生業としているわけではない。なにより、10年前の3月11日、私はこの土地にいなかった。そのことに負い目を感じながら歩んできた10年だった。そんな私が東日本大震災から10年の今、なにを語るべきなのか随分と迷った。

 迷っているうちに3月11日はすっかり過ぎてしまった。しかし、だからこそ語ろうと思う。世間的には10年という節目を過ぎたかもしれないが、日常は続いている。そこに節目など存在しない。

 私は2012年からの9年間、いわきで暮らし、いわきの公共劇場で演劇制作者として働いてきた。その視点から言葉を紡ぎたいと思う。

 私が勤務する「いわき芸術文化交流館アリオス」(以下、いわきアリオス)は福島県いわき市が直営で運営する公共劇場である。

 いわき市は、1966年に周辺の14市町村が合併して誕生した。市の面積は東京23区の約2倍で、2003年に平成の大合併で静岡市が誕生するまでは、日本一広大な市として知られていた。東北の最南端、関東の最北端といった位置にあり、気候も温暖で過ごしやすい。

避難所になった劇場の「3.11」

 いわきアリオスは、そのいわき市で2008年4月に第一次オープンを果たした。大ホール(1705席)、中劇場(687席)、小劇場(233席)、音楽小ホール(200席)の4つのホール・劇場と、リハーサル室・稽古場・練習室・スタジオ等の練習系施設を有する大きな劇場だ。

 2011年3月11日、大ホールではピアノ、中劇場では照明機材の定期保守点検が行われ、小劇場では当館の自主事業である「いわきでつくるシェイクスピア『から騒ぎ』」の稽古が予定されていた。スタジオや練習室、カフェも含め、100名ほどの利用者がいたと推測される。

避難所になっていた時の「いわきアリオス」
 14時46分に地震が発生し、いわきアリオス前の平中央公園に利用者全員が避難。幸いにして怪我人はおらず、施設外構に地割れ、ひび割れがあったものの、建物の躯体に損傷はなかった。施設の1・2階とロビー部分は一時避難場所に、いわきアリオスの運営事務室は臨時災害対策本部となった。

 その後、夜になっても帰宅を怖がる人、ロビーに残る人がいたため、当館は指定避難所ではないが、臨時避難所として運営していくことを決定した。舞台備品や舞台用具等からカーペット、クッション、ゴザ、畳などをロビーに運び出し、そこから5月5日までの56日間、当館は“避難所アリオス”となった。

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