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美術家・篠田桃紅が遺した忘れ難い言葉②~よき思い出となった数々の出会い

アートの中心地ニューヨークで出会った印象深い人たち

佐藤美和子 編集者

 「美術家・篠田桃紅が遺した忘れ難い言葉①~最後の本『これでおしまい』を上梓」に続き、3月に107歳で亡くなった世界的な美術家・篠田桃紅(しのだ・とうこう)さんが残した言葉をたどります。

ジョン・ロックフェラー3世夫人が所蔵していた桃紅さんの作品(ノーマン H.トールマン氏のコレクションより)

目に飛び込んできた”Kenzo Okada”という名前

 好評のうちに終わったボストンでの個展を後にした桃紅さんは、この日、ニューヨークに向かう汽車に揺られていました。隣の空席に目を遣ると、置き捨てられたニューヨーク・タイムズ紙。彼女は何気なくそれを手にします。

 ずっしりと持ちごたえのある紙面をめくると、”Kenzo Okada”という名前が彼女の目に飛び込んできました。画家・岡田謙三(1902〜82年)は、桃紅さんが日本から持参した3通の紹介状のなかにある名前。東京国立近代美術館の今泉篤男氏(美術評論家、1902〜84年)がしたためてくれました。

 岡田謙三がイースト57丁目にあるベティ・パーソンズ ギャラリーで個展を開いている。そのことを知った桃紅さんは、予約していたニューヨークのホテルの近所だったこともあり、ホテルに荷物を預けると、その足でギャラリーに赴きます。ビルの5階まで上がってはみたものの、岡田さんはいない。作品を鑑賞していると、メリーさんというギャラリーの若い女性が話しかけてきました。

 「彼女は、私が岡田さん宛の紹介状を持っていることを知ると、すぐその場で岡田さんに電話をかけてくれた。電話の向こうから、『そこからフィフス・アベニューの11丁目まで下って、西に折れると5、6軒目に僕のアトリエがあるから、すぐに来なさい』と岡田さんが招いてくださったので、私はニューヨークに初めて到着したその日に、タクシーに乗って伺ったんです。マンハッタンの通りは碁盤の目のようになっていて、なんてわかりやすい街なんだろうと思いましたよ」

篠田桃紅さん=ニューヨークの著名な写真家で映像作家のハンス・ネイマスが撮影した写真。同氏はジャクソン・ポロックを有名にした写真および映像で知られ、マーク・ロスコ、フランク・ロイド・ライト、ジョン・ケージ、アンディ・ウォーホールらを撮り下ろしている。

「一番美しい線は破った線です」

 このようにして、桃紅さんは生涯、親交を深めることとなる芸術家、岡田謙三さんに出会います。彼女の長い人生で最も印象が強く、そして同じ芸術家として影響を受けた人でした。

 「あのかたはパリに留学した後に、きみ夫人とともにニューヨークに1953年に移り住んだ。一種独特の生き方をした人で、私には判断のつかない行動をなさったかたでした。それだから非常に強い印象を残したのね。
 (彼の頭は)何が美しいか、ということだけ。ある時、『世の中で最も美しい線は何だと思う?』と聞かれたことがあった。さっと降る雨の線や定規で引く鉛筆の線など、いろいろあるでしょ。私は『墨で線を引いて作品をつくっているけど、最も美しい線だと思えることはないですよ』と言ったのね。そしたら、『一番美しい線は(紙などを)破った線ですね』と答えたの。
 確かにそうよ。破ってできる線は偶然ですよね。そこには人間がつくれないものがある。人間の意思が半分あるけど、破る・・というのは、どういう線になるかはわからない。予定が立たない。ハサミや機械で切る・・線は予定がつく。
 岡田さんは長年、絵を描いていて、どういう線が一番美しいか、どういう線を自分が描きたいか、そういうふうに探究してたどりついたのでしょう。破った線が一番美しい。それは人間がつくりえないから」

一切を超えて自然体。岡田氏の美意識に脱帽

 岡田氏の美意識は、その絵画から窺い知ることができると生前、桃紅さんは語っていました。

 「絵というのはこうでないといけないとか、こうしたほうがいいとか、といった芸術家の考えがある。しかし、あのかたの絵にはそれが現れていない。一切を超えて自然体なのね。ご本人も、人を感動させようとか、インパクトを与えようなどとする表現行為はあざとい、と嫌っていました。私は彼のその美意識に脱帽した。真の芸術家だと思いましたね」

 当時の氏は、ギャラリーのドル箱と言われるほどの人気作家だったそうです。女主人のペティ・パーソンズ女史は、世界の一流美術館やロックフェラー財閥などの富豪をコレクターに抱えており、彼の高額な絵は飛ぶように売れていました。しかし、岡田夫妻は売れる以前と変わらない生活を続けていたそうです。

 「あのかたのグリニッジヴィレッジにあるアトリエは、中2階に上がる階段の手すりはぐらぐらしていて、天窓もあちこちで雨漏りがするから絆創膏を貼っていた。キチネットらしいキチネットもなくて、寝室はアトリエのソファ。トイレ・浴室は隣人と共有していた。岡田さんには偉くなったという気はないのね。やっと、周りが自分の絵を少しわかってきたぐらいに受け止めていた。美しいものを描きたい、ということだけに心を傾けていたから、立派な生活をしようという気は一切ない。ジョン・ロックフェラー三世のブランシェット夫人(1909〜92年)も、彼のアトリエに来て感心していましたよ。『ケンゾウは偉いねえ』って」

人は自由にどのようにも考えてもいい

最後の著書『これでおしまい』(篠田 桃紅著、講談社)
 普通の人なら、お金ができれば、少しはいいアトリエに引っ越そうと考える。わざわざ雨が漏るところにいることもない。桃紅さんは、世間の常識に生きていない岡田氏に出会い、人というものを勉強したと言います。

 「人のすることは多様で、どういうこともありうる。そのなかでどういうことに価値があるのかということを考えるようになったのは、私がニューヨークで得たものの一つです。真の価値について常に考えさせられていますよ」

 そんな桃紅さんの思考を表した言葉が、最後に遺した著書『これでおしまい』にも収められています。

――「人は自由にどのように考えてもいいのです。どのように考えてもいいどころではありません。どのようにも考えなくてはいけない。それが自分の人生を生きる鍵です」
――「よそと自分が違っている。どっちを取るかって決めなくちゃいけない。あくまでも自分の価値観で生きるべきです」

三島由紀夫を誘ってベティの誕生日ディナーに

 桃紅さんは岡田謙三氏を「どのジャンルにも入らない、唯一無二の人」と形容していました。氏のアトリエには、マーク・ロスコ(画家・抽象表現主義の旗手、1903〜70年)などアーティストたちも頻繁に遊びに来ていたそうです。

 「ある時、アトリエに行くと、ロスコさんがわあわあ泣いていた。帰った後に、ロスコさんどうしたの?って岡田さんに尋ねたら、夫婦喧嘩をしてきたと。日本からもたくさんの人が相談に訪ねてきていましたよ。岡田さんはニューヨークで最も成功した日本人として知られていましたから。
 三島由紀夫(作家、1925〜70年)がアトリエに来た時は、たまたまベティ(ベティ・パーソンズ女史)の誕生日を祝うディナーへ行くところだったので、誘って一緒に出かけたこともありました」

 ちなみに、桃紅さん自身がベティ・パーソンズ ギャラリーで作品を発表したのは1965年以降です(これについては、前回も書きました)。当時、同女史のギャラリーは3、4年先までスケジュールが決まっていました。

来日したベティ・パーソンズ女史(右から2番目)と岡田謙三夫妻とともに、鎌倉大仏にて。

『ノートルダムの傴僂男』主演チャールズ・ロートンとの出会い

 さて、桃紅さんの3カ月の米国滞在ビザが切れる直前の1956年、ニューヨークで十指に入るバーサー・シェイファーズ・ギャラリーでの個展が決まります。予定していた画家の油絵が乾かず、急きょ会場が空いたので、桃紅さんの作品を評価したシェイファー女史が開催を決めたのです。

 この個展を機に、桃紅さんは海外での活動を広げていきます。

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