メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

小林亜星さんについての冷たい思い込みとその理由と反省と

矢部万紀子 コラムニスト

 のっけから自分のことで恐縮だが、1ヶ月ほど体重を測っていない。自分なりの限界水域に到達していることを確認したのが1ヶ月ほど前。以来、現実逃避している。

 最初の緊急事態宣言期間中、つまり2020年4月から5月にかけてはとても気持ちが落ち込み、気づいたら2キロ痩せていた。が、1年で2キロを取り戻し、さらに1キロ増えた。

 コロナ禍で知った言葉に「人流」がある。このたびの緊急事態宣言中、その増加を確かに実感した。それに合わせるかのように増えた我が体重。気の緩み。

 しかも東京がまん延防止等重点措置に変わった6月21日、デパ地下で買った弁当を夜11時過ぎに平らげてしまった。新宿の花園神社に「ベンガルの虎」(作・唐十郎)を見に行った。伊勢丹に寄り、弁当を買い、せいぜい9時には終わるだろうから帰って食べようと思っていた。が、唐十郎、侮るなかれ。終わったのが午後10時、帰宅したら11時近かった。空腹感はほとんどなく、食べない選択肢も頭をよぎったが、結果は完食。すぐに自己嫌悪というお決まりのコース。

 子どもの頃から、食い意地が張っている。小学3年頃がピークで、かなり太っていた。小学校を卒業するまでに普通に近づいたが、とはいえ身長が150センチを超えたら体重も50キロ台になり、以来、40キロ台を経験したことはない。会社員になって2年目、60キロ台になった時の衝撃は忘れがたい。そこから小デブに戻る道は、長くなるので省略する。

EviartshutterstockEviart/Shutterstock.com

 どうでもいい個人情報は、ここまでにする。とにかく体重のことはよく考えるたちだ。で、ここから、5月30日に亡くなった小林亜星さんのことを書く。生前から小林さんを見るたび聞くたび、体重のことを思わずにはいられなかった。

 人の外見についてあれこれ語るのは、品のいいことではない。ましてや容姿を論じることに、ますます厳しい目が注がれているのが昨今だ。容姿というものの意味を、根本から考えられる。とても良いことだ。そう思った上で、小林さんの体形について書かせていただく。自分を考えることにもなるからだ。

小林亜星さんを無意識のうちに避けてきた

 私が小林さんを知ったのは中学時代、ドラマ「寺内貫太郎一家」(1974年、TBS系)だった。が、このドラマ、見ていない。母親がうるさい人で「テレビは夜8時まで」と決められていて、午後9時からの「寺内貫太郎一家」は見られなかった。クラスでは話題になっていたが、適当に話を合わせることはできた。

 ちなみにだが、中学生の私には、山口百恵さんの「赤いシリーズ」(これも午後9時から、TBS系)を見られない方が深刻な問題だった。「寺内貫太郎一家」よりずっとクラスで盛り上がっていたから疎外感もあり、見たいなーと思っていた。その点、「寺内貫太郎一家」を見たいと思ったことはほとんどなかった。

 大学を卒業して一人暮らしを始めてからは、制限された反動だろうか、家にいればずっとテレビをつけている大人になった。中でも出勤のリズムと合ってよく見るようになったのが、NHKの「朝ドラ」。出来不出来があるし、好みもある。結果、最後まで熱く見るシリーズと、途中で流すシリーズに分かれた。

 小林さんが出演した「さくら」(2002年)は後者だった。ハワイ出身の日系4世がヒロインで、小林さんはその祖父。金魚の養殖業を営んでいるという役どころだった。東京の下町、法被を着ている、頑固だけど実は優しいなどなど、これはきっと寺内貫太郎の亜流なのだろうなと思い、流し見していた。

 と、ここまででわかっていただけると思うが、私は俳優・小林亜星に冷たい。そのことは自覚していたが、なぜなのだろうと詰めて考えたことはなかった。が、訃報に接し、思い出したのが小学校4年生の時の体験だった。

小林亜星さん=東京・赤坂、品田裕美撮影小林亜星さん=撮影・品田裕美

 親が中古住宅を購入、転校した。先ほど書いたように、太っていた。超肥満児ではなかったが、体重に存在感があったから、うっすらとしたいじめに遭った。「やーいデブ」とは言われなかったが、何となく笑われている、その空気は感じていた。

 決定的に傷ついたのは、図工の時間にある男子が私の絵を描いたことだった。

・・・ログインして読む
(残り:約2421文字/本文:約4182文字)