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林真理子『小説8050』~ひきこもりを巡る「窮して通ず」家族の再生物語

佐藤美奈子 編集者・批評家

ひきこもる本人が発する言葉に注目して

 80代の親が、「ひきこもり」を続ける50代の子どもの生活を支えている、いわゆる「8050問題」という言葉は、すっかり知られるようになった。内閣府による実態調査によれば、いま全国の満15歳から64歳の人たちのあいだに約115万人もの「ひきこもり」の人々がいるというから、驚くに当たらない。

林真理子『小説8050』(新潮社)林真理子『小説8050』(新潮社)
 直木賞作家・林真理子の最新作で、今年4月に刊行された『小説8050』(新潮社)は社会的にも話題となり、大きな反響も呼んだ。売れ行き好調で、すでに諸メディアでも紹介されているから、この欄で今あえて言及する必要はない、とも感じる。

 しかし過日の本欄で「ひきこもり」とその家族関係に焦点を当てた記事を書いたこともあり(「『世界のひきこもり』『家族と国家は共謀する』が映す家族という無法地帯」)、それらのテーマに真正面から向き合うこの作品について述べたい欲望に抗いがたい。同記事で述べた、ひきこもる本人が発する主体性ある言葉とはどういうものかについて、考え続けているからである。そんな言葉を窺うことができるかどうか、という関心も本書に惹かれた大きな動機である。

 『小説8050』は、14歳の時から自室にひきこもる長男・大澤翔太とその父・正樹との関係を中心に、母・節子、翔太より5歳年長の姉・由依を含めた4人家族である大澤家に起こる出来事を描く物語である。最初に告げてしまうと、ひきこもり問題に与える意義ある処方箋が2つ、この小説から得られると筆者自身は思っている。それは、言葉で問題を可視化することと、親が行動することだが、なぜその2つなのかについては、後ほど述べる。

 歯科医の正樹は、父から受け継いだ東京都内にある小規模歯科医院の院長だが、世の中に歯科医の数が増え、主に高齢患者しか訪れなくなった医院の経営状況は芳しくない。かつてより歯科医の権威が「失墜した」と受け止める正樹は、息子を歯科医でなく医者にすべく、私立中学の受験に臨むよう翔太が10歳の頃から発破をかけ、自身も力を注いだ。気迫をもって息子に接する夫に節子も協力し、翔太は見事有名中学校に合格する。

 ところが中学2年の夏休み後、翔太は急に不登校となり、いじめを疑った正樹と節子は学校に出向いて校長や担任に直接尋ねるものの、返事は「この学校にはいじめはない」というものだった。以降7年間、翔太はひきこもったままだ。

 そんなある日、近隣に住む、ひきこもり状態で中年にさしかかった男が、同居の老母が他界したため自宅退去を命じられ、警察に連れ出されていく姿を目の当たりにする。また、弟のせいで結婚話が進まないと叫ぶ由依の痛切な声をきっかけに、正樹は本格的に息子と向き合う決心をする。

 翔太を部屋の外に出すため、民間の引き出し業者に説得を依頼するが、かえって逆上した翔太は暴れ出す。そのとき「何がお前をここまでさせるんだ!?」と訊く正樹に対し、それまでろくに受け答えをしたことのなかった翔太が初めて理由らしきひと言を発する。それが「復讐だ!」という叫びである。この言葉をきっかけに、小説は一気に動き出す。

絶望が生む悪循環を断ち切るには

ひきこもりの当事者や支える人を追ったyab山口朝日放送「シリーズひきこもり」よりひきこもりの当事者や支える人を追ったyab山口朝日放送「シリーズひきこもり」より

 過日の記事で『世界のひきこもり』という本を紹介した際、私は「『ひきこもり』の人々の声を通してほぼ例外なく感じられたのは、彼らが抱く深くて大きい絶望(感)だ」と書いた。何かに対する深い絶望感が、周囲(主に家族)とのコミュニケーションを遠ざけ、コミュニケーションが失(な)くなることでいっそう絶望感が増す。こういう絶望の悪循環がひきこもる人を閉じ込める壁をますます厚くしている、と感じたために、そう書いた。ネガティブな告白を避けようとする思春期・青年期らしいプライドの高さも、絶望の壁を強固にするのに拍車をかけるのだろう。

 深い絶望感が生まれるきっかけは、母子関係や父子関係におけるトラブル、受験や就職での失敗、学校内の人間関係での挫折など、それこそ各人各様にあり得よう。ただ『世界のひきこもり』で紹介される当事者たちは、多くの人が面倒がって避ける領域にあえて入り、感情や思考を「忠実に置き換えよう」とし、「苦悶の果てに絞り出」される言葉を発していた。自分が気持ち良くなるために発する呟きや、インパクトのある強いワードや言い回しに反射的に応じる言葉とは、おのずから性質を異にする。

 だからこそというべきか、その言葉は「自分たちが個々に主体である世界を展開して」いた。ここでいう主体性を持つ言葉とは、その人がその人であることを補強すると同時に、(互いの差異は認め合った上で)他者との共有が可能となる言葉である。さらには、自己を見つめる目を持って初めて生まれる言葉のことだ。

 本書の翔太の場合、少なくとも「復讐だ!」と叫ぶまでは、正樹と節子にとって共有可能と感じられる言葉が発せられない。だから息子がひきこもる原因が掴めず、世間体を気にしながら文字通りに暗中模索するばかりだ。ところが、「復讐だ!」のひと言がブレークスルーとなり、正樹は息子がいじめに遭っていた事実を確信し、次の行動を起こすことが可能となる。

 「復讐だ!」は、翔太の絶望感の起点が学校でのいじめにあったことをはっきりさせ、置かれた状況を他者(父母)と共有可能な形で表した初めての言葉だったことになる(「復讐」とは具体的には、中学2年だった自分をいじめた同級生へのそれを指す)。

 翔太自身も避けてきた領域にあえて入り、感情や思考を「忠実に置き換えよう」とし、「苦悶の果てに絞り出」されたのが、この言葉だったと受け止めれば、(たとえ聞きようによっては幼いと感じる人がいたとしても)これは翔太の主体性を可視化する言葉なのだ。

グチャグチャな関係は炙り出されたほうがいい

イラスト=朝日新聞社イラスト=朝日新聞社

 物語が一気に動き始めることで、翔太のひきこもりを解きほぐすのに必要な、家族それぞれにとっての行動目的が明確化する。ただしその事態は同時に、大澤家にわだかまっていた夫婦関係、親子関係のゴタゴタ、グチャグチャのすべてをも炙り出していった。

 例えば正樹は、次のような言葉を妻に浴びせる夫だ。「だいたい子どもの教育なんて、母親の責任だろ。お前はその点失格だったんだ。そのことを素直に認めたらどうなんだ」「お前は専業主婦っていう、恵まれた立場にいたんだ。充分に子どもと向き合う時間もあったんだ。それなのに息子がまともな道から脱落するのを見落としたんだよ」「息子があんなになったのは、母親の責任だ」「お前のせいじゃないか。お前がしっかりしてたら、こんなことにはならなかった」等々。

 節子からしたらたまったものではないだろう。実際に、節子は節子で、投げかけられたこれらの言葉を忘れることができず、自省し今後のあるべき家族像を思い描くときに常に思い出すことになる。その後の夫婦関係に大きな影響を及ぼす言葉でもある。

 聡明でありながら計算ずくの言動が目立つ姉の由依は由依で、自分の結婚を成就させるために容赦ない攻撃性を発揮し、両親を困らせる。

 ひきこもり当事者の翔太だって、聖なる、無垢なる存在などではない。家族とのコミュニケーションが途絶え、絶望感の悪循環が起こるからなおさらだとは思うが、「狡猾」かつ幼い言動を続け、家族をいっそう深い窮地に陥れていく。

小さな希望でも確かなのはなぜか

林真理子著者・林真理子

 ひきこもりの現状に立ち向かったはいいものの、続けて起こるトラブル、行き着くカタストロフィに触れて、背筋が凍る思いを禁じ得ない(内容は、実際に本を手にとってお確かめください)。ひきこもりという事態が孕(はら)む、一筋縄ではいかない問題の深刻さを追体験する感覚をおぼえる。

 しかしだからこそ、本書の最後で示される、小さいながらも確かな希望はどこからくるのか、と反芻せずにいられない。ここで思い至るのが、冒頭に述べた、言葉で問題を可視化することの価値と、父親が行動することの意味である。

 関係のゴタゴタ、グチャグチャのすべてが表面化するが、どれほど多くて恥ずかしいと感じられる問題でも、そのようなことは本質的でない。正樹、節子、翔太、由依のそれぞれが、みずからの言葉で過去や現状、家族との関係、率直な思いを言葉にしていくことで、事態は動き変化していくのだ。「窮して変じ、変じて通ず」とは禅で言われる言葉だが、この小説はまさにその事実を示す作品としても読めるはずだ。言葉にして可視化する作業が、本書が描く、かすかながらも力強い希望を支えていると思えてならない。

 加えて、この小説の語りは三人称だから、登場人物のそれぞれの言動が中立的に書かれているが、作者がもっともコミットしているのは正樹である。それゆえ本書の主人公は正樹だと読者が感じるように描かれている。

 主人公である正樹の心理や思考の変遷が語られ、行動する姿が、翔太に起こる変化に最も影響を与えていることも、読むと感じられる。家族以外の登場人物におけるキーパーソンである弁護士・高井の活躍も、正樹の言葉と行動があってこそ生じたと言える。

 そうして最後に、気づくと大澤家という家族のシステムは再編・再構築されているのだ。当初は不機嫌さと暴力によってしか自己を表現できなかった翔太が、最終場面で父とどういう言葉を交わす人間になっているか、にも注目して本書を読んでほしい。