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麻生太郎「コロナは曲がりなりにも収束」発言に思う「死」を眼差す視点の薄さ

『<反延命>主義の時代』で知る<いのち>の選別の歴史

今野哲男 編集者・ライター

 2021年9月7日、麻生太郎副総理兼財務大臣が、菅義偉首相の自民党総裁選不出馬に際して、“新型コロナは曲がりなりにも収束”と述べたというニュースが駆け巡った。「曲がりなりにも」という限定句はあったにせよ、「収束」という、この人らしい荒っぽい言葉遣いには、さすがに多くの人が度肝を抜かれた。

 SNSには早速、「反社ってこういう人のこと?」といった<気の利いた冗談口調>が混じった否定的な反応が溢れたが、正直に言って「的を外している」と感じる投稿も散見された。その思いはやがて、「ガス抜きで満足してる場合じゃない」という考えに変わっていった。

「コロナは曲がりになりにも収束」と発言した麻生太郎財務相「コロナは曲がりになりにも収束」と発言した麻生太郎財務相

「死」を眼差す視点の薄っぺらさ

 麻生氏の発言は、普通の神経の者にとって、俄かに信じられないような醜悪なものだ。しかし、報道をじっくり読めば、東京都の新規感染者数が久し振りに1000人を下回ったことや、直近の数日の感染データの動向からみて、「新規感染者数」のレベルでは「ピークアウト」したとする複数の専門家の発言を反映した、彼なりに合理的なものと思われる節があった。

 しかし、市井に暮らすわれわれには、SNSに可視化されたように、その“合理性”自体が「許せない」との思いが強かった。その思いを何とかして、わかりやすく言語化しない限り問題の核心は浮上せず、われわれの多くにとって、ことの本質が見えないままになってしまうと思えた。

 では、その本質とは何か。言葉の上では、そう難しくない。要は“為政者たちの「死」を眼差す視点が、薄っぺらで頼りない”、ただそれだけのことである。

漠たる不安は意識下に抑圧される

 麻生氏は、「新規感染者数」という一つの指標だけに頼って、「自宅療養者数」や「重症者数」、ひいては「死者数」といった、「命」と「死」に関わる他の指標を配慮せず、連日何十人という死者が出ている現実には目もくれず、コロナ禍全体を「曲がりなりに」も判断するという民主国家の為政者にあるまじき愚を犯した。

 そして、それに肌感覚で「許せない」と応じるわれわれ自身にも、一方では①「ブレークスルー感染」や②若年層の感染拡大、③δ(デルタ)に加えてμ(ミュー)、η(イータ)その他の変異株の登場、さらには④感染した者が「自宅療養」(正しくは「自宅放置」)という名の「医療崩壊」に晒され、ときには病院にも入れずに「死」に至るという現実を前にしても、それらに対する不安を、自分はまだ大丈夫という根拠のない「正常性バイアス」によって自ら押し殺してしまう一面があることは否めない。SNSなどで気の利いた愚痴をこぼしてみせるだけでは、「死」さえも薄く見積もる「為政者」は、ただのガス抜きと見做すくらいがせいぜいなのだ。

自宅療養中の患者宅を訪ね、声をかける看護師(写真の背景にぼかしを入れています)=訪問看護リハビリステーション・ハピネス提供自宅療養中の患者宅を訪ね、声をかける看護師(写真の背景にぼかしを入れています)=訪問看護リハビリステーション・ハピネス提供

「死」と「生」とは、<いのち>の「裏表」である

 『人間の条件』を書いたフランスの作家で、第二次大戦後のド・ゴール政権で長く文化相を務めたアンドレ・マルローに、「死などない。ただ俺だけが死んでいく」(『王道』)という言葉がある。

 これを、「俺の死を統計的な抽象として処理するな」という人間一個の実存を語った逆説的な言葉と見做すことも可能だ。だとすれば、われわれは、「俺だけの死」を歯牙にもかけない為政者の傲慢に、不審や不満を超えた存在論的な不安を感じているのではないか。私見では、これがことの本質なのだ。

 ならばわれわれは、今こそマルローが言った<いのち>に立ち戻り、手を携えて、これと向き合う必要があるのではないか。

アンドレ・マルローアンドレ・マルロー

「<反延命>主義」再考のために

<反延命>主義の時代── 安楽死・透析中止・トリアージhttps://gendaishokanshop.stores.jp/items/60eebf87640dfc0245983292』(小松美彦・市野川容孝考・堀江宗正編著、現代書館小松美彦・市野川容孝・堀江宗正編著『<反延命>主義の時代──安楽死・透析中止・トリアージ』(現代書館)
 手元に『<反延命>主義の時代──安楽死・透析中止・トリアージ』(小松美彦・市野川容孝・堀江宗正編著、現代書館、2021年7月)という本がある。堀江による「序章」は、「本書は、<反延命>主義、すなわち人生の最終段階において無益な延命治療をおこなうべきではないとするような風潮を、批判的に解明することを目的とする~」と始まり、「一 コロナ禍における『命の選別』の進行」という小見出しが続いている。

 「死生観」という言葉があるように、<いのち>の切実さは、本来「死」と「生」の両方向から見ないと分厚い実感を伴わない。条件をつけて「生」を見限る「<反延命>主義」の前には、あるべき人間の姿が、見えるはずがないのだ。

 本書では、編著者のエッセイ風の論文の他、児玉真美、高草木光一、美馬達哉、雨宮処凛、木村英子など11名の多彩な論者が登場し、上記の目的のもと、「公立福生病院事件」「相模原事件」「安楽死」「トリアージ」といったそれぞれの切り口で、長きにわたって<いのち>の選別に向かって進んできたこの国の「制度」の現在が詳細に語られている。

 日本の「<反延命>主義」には数十年に及ぶ歴史がある。コロナ禍における<いのち>の軽視とも見える政府や行政の動きの鈍さの裏には、その歴史が抜きがたく横たわっている。コロナ禍によって明らかになった「ウィズ・コロナ」という課題を真っ当な形でクリアするためにも、本書を紹介しておきたい。