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眞子さんと小室圭さんの結婚問題には、譲れない「規範」がある

三島憲一 大阪大学名誉教授

 数日前に、編集部から皇室の眞子さんと小室圭さんの結婚問題について考えるところをなにか、という原稿の依頼をいただいたときに、これはとても必要枚数は書けないな、と思ったものだ。

 なぜなら、女性と男性が、それもまだ若い二人が結婚したいと言ったときに、それにとやかく言うのは、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」するという憲法24条の精神に反することは歴然としているからだ。この規定は、相手の親の出身地や、あるいは階層や職業、さらには人種(嫌な言葉だが)や宗教を理由に妨害することも含めて、まわりがとやかく言ったり、阻止したりするものではない、ということを含んでいるはずだ。

30歳の誕生日を迎えた秋篠宮家の長女眞子さま=2021年10月20日、赤坂御用地、宮内庁提供 賛否両論が飛び交うなか、10月26日に結婚した秋篠宮家の長女・眞子さん=2021年10月20日、赤坂御用地、宮内庁提供

 だいいち、憲法を持ち出すまでもなく、相手の親がどうだとか、財産や借金がどうだとかいうのは、それを囃(はや)し立てるメディアも含めて、人間の品格としていかがなものか。自分のときに、あるいは自分の子供の時にそういう横槍が入ったらどういう気がするだろうか、と考えただけでも、答えはあきらかなはずだ。現代は身分制社会ではない。

 これ以上書くことはない。せめてパパラッチ・モードのメディアの批判でもするか。でもそれは、多くの人が私などよりもっと巧みに言っているし、これ以上書くことはない。今回の原稿依頼はお断りしようか、と思った。それに、筆者にはまったく興味が湧かない。

眞子さんの「眞」は「真実」の「真」と同義だが……

天皇、皇后両陛下に結婚のあいさつをするため皇居に入る秋篠宮家の長女、眞子さま=22日午後4時24分、皇居・半蔵門、代表撮影天皇、皇后両陛下に結婚のあいさつをするため皇居へ=2021年10月22日、皇居・半蔵門、代表撮影

 しかし、よく考えてみれば、相手の「家柄」や「学歴」や「財産」を問題にしたり、アジア系やアフリカ系であるゆえに忌避したりという例は、交際範囲の狭い筆者の周囲でもよく聞く話だ。最近でもきわめて近いところで2例ほどあった。まだまだ事実上の身分制社会だ。

 またドイツ人の友人たちからは、友人の従姉妹が、また友人本人も、カトリックとプロテスタントの相違を理由に大恋愛を親や親戚からよってたかってやめさせられた話、あるいは、やめさせられそうになった話は、いずれも1960年代の昔話だが数件は聞いている。

 それに、有名なシラーの『たくらみと恋』は、最近の日本ではほとんど忘れられているが、ドイツでは今も定番の作品だ。

 宮廷の宰相の息子が庶民の娘と相思相愛になったものの、父親は「庶民との結婚などもってのほか」とし、自分の出世のために息子を殿の妾とくっつけようとする。やがて相思相愛のふたりとも関係者の奸計にはまって死んでいく話だ。

 不当な理由から親を逮捕された娘は、執事に強要されて別人に偽りのラブレターを書かざるを得ない。親を救うためだ。策にはまってそのラブレターを読んだ正義漢の息子は、彼女に裏切られたと思い、逆上して自ら毒を飲み、愛する娘にも毒を飲ませる。

 だが、娘は迫りくる死の直前にことの顛末と彼への真情を打ち明ける。仲直りして死んでいく二人の前で、宮廷とそれを取りまく支配の構造が浮き上がる。観客の義憤が頂点に達するとともに幕が下りる。同じ作者の『ヴィルヘルム・テル』とともに、18世紀末にはじまるいわゆる疾風怒濤時代の傑作だ。自由への熱い思いがある。と同時に、自由と正義は、そして自由と真実は不可分なことを、哲学者でもあったシラーが明示した作品だ。そういえば、眞子さんの「眞」は「真実」の「真」と同義だ。

 逆に、格上のお嬢様との結婚を通じて社会的上昇を果たす話は小説でも現実でもいくらもある。有名なトーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』でも、怪しげな不動産屋が主人公の良家の娘と結婚する話が出てくる。

 自民党の国会議員や官僚の経歴を読むと、もちろん部分的だが、どうも胡散臭いことが多いのが結婚なのかなと思わざるを得ない。ロッキード事件で有名になった小佐野賢治も戦後しばらくして、堀田伯爵家のご令嬢と結婚している。もちろんいっさいのよこしまな思惑のない相思相愛で結ばれた稀有な例なのだろう。

50年ぐらいでは、人々のメンタリティは変わらない

 そういえば、なにもドイツやイギリスを探さなくても、身分の違いのゆえに思いを遂げられない話は江戸時代に山ほどある。近松の心中物の道行シーンに観客は袖を絞ったはずだ。

 義理と人情の葛藤の中で、観客は、そして世論は当然人情の側につく。しかし、実はここが問題だが、そういう観客の多くも、自分の家でそういう「事件」があれば、義理や格式の方につくようだ。「人間」としては自由や正義を、好きな二人が無事に夫婦(めおと)になれることを願っても、大旦那の身分としての父親から見れば「もってのほか」となる。

 「なんだ、いまどき、ドイツの18世紀や日本の江戸時代の話を持ち出すとは。今は21世紀の日本だぞ」という声が聞こえてきそうだ。いやいや、時代は残念ながらそれほど進んでいない。

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