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映画『MONOS 猿と呼ばれし者たち』のランデス監督に聞く

「余計な情報を排除してあぶりだされた登場人物たちの精神性や魂を感じてほしい」

二ノ宮金子  フリーライター

 『シェイプ・オブ・ウォーター』のギレルモ・デル・トロは「魅了された!」と感嘆の声をあげ、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは「型にはまらない衝撃的な映画! 見事だ」と称賛した。『ブラック・スワン』のダーレン・アロノフスキーに至っては、なんと「やばい!」の一言!

 そんな世界の名だたる映画監督たちを魅了したのは、映画『MONOS 猿と呼ばれし者たち』(10月30日より、東京の「シアター・イメージフォーラム」ほか全国順次公開)だ。世間から完全に隔離された極限の地で、スペイン語で「猿たち=モノス」というコードネームを持つ8人の若き兵士たちが狂気へと駆り立てられていく様を圧倒的な映像美とともにスリリングに描く。人質の米国人女性の監視と世話が任務だった彼らが、リーダーの突然の死、敵からの突然の襲撃、人質の脱走などによって不協和音に苛(さいな)まれ、次第に追い詰められていく。そんな状況に耐えきれなくなった兵士の一人(ランボー)は、部隊からの脱出を試みるが……。

『MONOS 猿と呼ばれし者たち』 10月30日(土)より、東京の「シアター・イメージフォーラム」ほか全国順次ロードショー ©Stela Cine, Campo, Lemming Film, Pandora, SnowGlobe, Film i Väst, Pando & Mutante Cine 配給:ザジフィルムズ『MONOS 猿と呼ばれし者たち』 10月30日(土)より、東京の「シアター・イメージフォーラム」ほか全国順次ロードショー ©Stela Cine, Campo, Lemming Film, Pandora, SnowGlobe, Film i Väst, Pando & Mutante Cine 配給:ザジフィルムズ

 本作で監督、脚本、プロデューサーを務めたのはアレハンドロ・ランデス。ジャーナリズムの世界から映画製作に進み、建築家という顔も持つ彼に、本作への思いを聞いた。

ALEJANDRO LANDES/アレハンドロ・ランデス 監督・脚本・プロデューサー
1980年、ブラジル生まれ。エクアドル人の父とコロンビア人の母を持つ。米国・ブラウン大学で政治経済学の学位を取得。その後、ジャーナリズムの世界に入り、マイアミ・ヘラルド紙への寄稿、政治トーク番組「Oppenheimer Presenta」のプロデュースなどを行う。2007年、『コカレロ』で監督デビュー。2011年の『ポルフィリオ』はカンヌ国際映画祭監督週間でプレミア上映された後、多くの国際映画祭で最優秀賞を受賞。2015年には、自身が設計したモダニズム邸宅「カーサ・バイーア」をマイアミに完成させた。米・ロサンゼルス在住。

──『MONOS』以前の作品も、ボリビアで労働者のリーダーだったエボ・モラレスが大統領になるまでを描いたドキュメンタリー『コカレロ』(2007年、日本未公開)、ハイジャック事件を基に製作した初の長編フィクション『ポルフィリオ』(2011年、日本未公開)と、いずれも社会性の強い作品です。『MONOS』もあくまでも架空の設定ではあるもののコロンビアの内戦がベースになっています。ジャーナリズムの世界から映画に入ったというバックグラウンドがそうした作品作りに影響を与えていると言っていいのでしょうか。

ランデス もちろんそれもあると思います。ただもう少し深く掘り下げれば、社会問題や政治問題に関心があり、それらを描くということは、エクアドル人の父とコロンビア人の母を持つという、自分自身のバックグラウンドからくるわけで、それは僕にとっては逃れられない運命(さだめ)だと思っています。

アレハンドロ・ランデスアレハンドロ・ランデス監督
 南米の国々では、政治的な信条や階級による闘争などが表面化しています。特にコロンビアのような歴史の浅い国ではそれが顕著です。そういうことを経験してきているので、自分の作品に反映せざるを得ないんですよね。

 さらに言うと、自分が興味を持っているのはエターナルな社会問題であったり政治問題であったりとか、国民としてのアイデンティティや連帯感とか、そうした外部的な諸問題と自分の内部的な諸問題を照らし合わせるということです。外部的な問題がある中で、じゃあ自分の身体に対するアイデンティティがどうなのかとか、自分のセクシャリティやジェンダーのアイデンティティがどうなのかとか、そういった2者を照らし合わせながら探究したいという気持ちがあるんです。

右派・左派、加害者・被害者、男・女……ボーダレスの意識

──作品を通して思うのはいろいろな意味で「ボーダレス」だということです。プロ、ノンプロが入り混じる出演陣もそうですし、性別もそうです。部隊から脱出を試みるランボーについて部隊のリーダーであるウルフは「弟みたいなヤツ」と話します。ランボーのヘアースタイルがベリーショートということもあり、当初は少年だと思いこんで見てしまいました。劇中ではランボーのことを男性とも女性とも語らずに終わりますね。これは本作品においてとても象徴的なことだと思います。ボーダレスというのは最初から意識されていましたか。

ランデス おっしゃるように、非常にボーダレスな映画として作っています。私たちは何か知ろうとする時に、人を枠の中に押し込めてその視座で理解しようとします。「出身地はどこ?」「学校では何を専攻していたの?」ってね。この映画ではそういった余計なことをすべて排除しました。そのため、シーンによっては非常に黙示録的な展開になっているときもあるし、近未来っぽいところもある。それこそ1960~70年代と思うときもあるわけです。

©Stela Cine, Campo, Lemming Film, Pandora, SnowGlobe, Film i Väst, Pando & Mutante Cine©Stela Cine, Campo, Lemming Film, Pandora, SnowGlobe, Film i Väst, Pando & Mutante Cine

 もう一つ、排除しているのは政治的な信条です。例えば、少年兵たちの「組織」が民兵組織(右派)なのか、ゲリラ組織(左派)なのかもわからないようにしています。シーンによっては映っているのが加害者なのか被害者なのかもわからないし、最終的には男なのか女なのかもわからない。そういう状態を意識的に描いています。

 余計な外部的な情報が排除されていくと、最終的にあぶりだされるのはその人の精神性や魂だと思うんです。ですから、いやが上にも、観客にこの登場人物たちと一緒に時を過ごすことで、なかば強制的ではありますが、その人たち自身を感じてもらえるような構成になっています。イデオロギーを明確にしてしまうと、南米の場合であれば、左派を支持している人たちなら「この少年兵たち、頑張っているのね」となるし、右派の人たちは「けしからん」となってしまいますから。

 さらに美術に関しても戦闘シーンは特にボ―ダレスを意識しました。彼らが着ているものが民兵のものなのかゲリラ兵のものなのかわからないようになっていますし、シリアの戦闘の様子を入れたり、イラクに侵攻した米軍のブーツといったモチーフを使うなどして、あえてごちゃ混ぜにしています。

問いを立てて映画を終えた意味

──本作は、山岳地帯、ジャングルといった息を呑むような大自然の映像や水中撮影も大きな見どころですね。

ランデス まわりの風景が登場人物の心情を反映しているような描き方を今回は意識しました。ビジュアル的にはファンタスティックに描いたり、白昼夢を見ているかのように描いたり、寓話的に描いたりしているわけですけども、その風景と心情のバランスをすごく意識しながら撮っています。これはかなりの挑戦になるので相当な事前準備が必要でした。

 例えば、役者のみなさんには数週間にわたりブートキャンプ的な訓練に取り組んでもらったり、

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