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眞子さんと小室圭さんのあの場を「記者会見」と称してよいのだろうか?

2人の旅立ちは「この支配からの卒業」という印象だ

勝部元気 コラムニスト・社会起業家

 眞子さんが、2021年10月26日に小室圭さんと結婚し、皇室を離れました。

 カメラの前に現れた彼らの話す様子を見て、私の頭の中に流れたのは、一般的なウェディングソングではなく、『卒業』(尾崎豊)でした。この支配からの卒業。

 「私たちにとって結婚は、自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択でした」「海外に拠点を作って欲しいと私がお願いしました」という眞子さんの選んだ言葉からは、そう感じざるを得ません。

記者会見する小室圭さんと眞子さん=2021年10月26日午後2時3分、東京都内のホテル、代表撮影「記者会見」で原稿を読み上げる眞子さんと小室圭さん=2021年10月26日、東京都内のホテル、代表撮影

 前回の記事『小室圭氏のポニーテールに騒ぐマスコミと世間に「うっせぇわ」と叫びたい』では、「毒親」のように他人の結婚に口を出すマスコミや世論を「毒マスコミ」「毒世間」と言いました。自己決定権を奪おうとする毒マスコミ・毒世間、家父長制、ムラ社会、そして嘘、間違った情報。眞子さんの結婚は、そのようなものが支配する環境からの卒業だったように思います。

 実際、その点に強く共感した人もいたようです。Twitter上では、似たような境遇に生きづらさを感じている女性たちを中心に、眞子さんの結婚自体への祝福だけではなく、様々な支配から逃れて自立することを祝福する投稿をいくつも見かけました。

2人のあの場は記者会見ではなくスピーチです

眞子さんと小室圭さんの「記者会見」で宮内庁職員から代表幹事社の記者へ渡される質問への回答書=2021年10月26日、東京都内のホテル、代表撮影眞子さんと小室圭さんの「記者会見」で宮内庁職員から代表幹事社の記者へ渡される質問への回答書=2021年10月26日、東京都内のホテル、代表撮影

 一方で、これまで散々彼らの結婚に対して口を出してきた人々も黙っているわけがありません。とりわけ、二人が用意した原稿を読み上げる「スピーチ」形式を採用し、記者の質問に文書で回答したことに対して、「あんなものは記者会見ではない!」という批判がインターネット上で飛び交っていました。

 確かに、それはその通りです。本来、記者会見とは、記者との間で受け答えをするものです。もし、政治家が「記者会見」と言いつつ、一方的にスピーチを読み上げ、記者からの質問を文書回答のみに限定しておしまいにすれば、当然批判が殺到するでしょう。

 今回の二人の「記者会見」も、「その場での記者とのやり取り」という要素が無い以上、会見の定義は満たしていません。「記者発表」「記者を招待したスピーチ・所見表明」のようなものだと思います。

メンタルヘルスを無視するマスコミの姿勢は大坂なおみ選手問題と同じ

 一方で、あのような形式を採用したこと自体は、悪くない選択だったと私は思っています。メンタルヘルスに支障をきたしている人に対する記者会見では、記者の側も細心の注意を払うべきですが、残念ながら一部のマスコミにはそのような能力があるとは思えません。

 本来、記者会見は国民の知る権利を満たすために非常に重要なものです。ところが、『大坂なおみ選手に記者会見を嫌がられて当然、マスコミ・TVムラの傲慢』という記事でも書いたように、昨今のマスコミは、権力者にアカウンタビリティを求める姿勢が弱くなっている傾向にあります。

 それと反対に、疑惑が生じた著名人に対しては、強い不信や悪意をぶつけたり、メンタルヘルスを無視したり、集団で追い詰める「イジメ」の傾向もより強くなっていると感じます。そのような状態ですから、眞子さんが「恐怖心」を覚え、記者会見で口頭によるやりとりを避けたいと思ったのも、ごく自然な判断ではないでしょうか。

 ちなみに、「それならば、そもそも何もしなければよかった」という意見もあります。ですが、

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