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つかこうへいの「縁」に導かれ、さらば俳優業

斉藤由貴を演出、テレビ、映画を書く側に

長谷川康夫 演出家・脚本家

【あの事件の後のつかこうへい、そして僕たち】
【歌う風間杜夫、コンサート演出を「つかこうへい流」で】 から続く

演出、脚本という新しい方向へ

 こうして不破敏之と風間杜夫から依頼された二つの仕事が、1984年からの自分の新しい方向へのきっかけとなったわけだが、ある意味どちらも、そこから始まったものが、今現在、僕のいる場所までずっと繋がっていて、そのおかげで、僕は今の肩書を名乗れていると言っていいだろう。

 テレビ東京の不破との番組は、思ったような視聴率が取れなかったらしく、タイトルを含め、司会者や内容、時間帯なども何度か変えながら、1年半で終了した。

 続いて不破は新しい企画を立ち上げることになり、再び僕に声がかかる。今度はゴールデンタイムの旅番組ということだった。生のバラエティとはまるで毛色の違う仕事だ。

 またあれこれ相談しながら86年春から始めたその『いい旅・夢気分』は、不破と共に月一本のスケジュールで担当し、風間杜夫や平田満などの出演回も作った。そして番組自体はその後、テレビ東京の看板長寿番組となっていくが、僕は1年弱ではずれてしまう。

風間杜夫=1994年撮影
 毎週1時間の単発ドラマ枠がスタートするため、不破がその部門に移ったからである。そこで僕はまた初めて、テレビドラマの脚本というものを自分の仕事として任されるのだ。それはのちに曜日が変わって2時間のサスペンスドラマ枠となり、シリーズものを受け持ったりする中、三十数年にわたり、かなりの本数を書かせてもらうことになる。

 一方、風間杜夫のコンサートは、翌年の同じ時期に新しいツアーが始まったが、全国12か所、東京ではNHKホール2日間という、さらに大規模なものとなり、演出は再び僕にお鉢が回って来た。

 ステージの前半は前回と同じく、一人芝居の中に歌が入る形をとることを決め、ふと思いついたのは、僕が最初に風間杜夫という俳優を目にした舞台、劇団『空間演技』の『倭人伝』だった。幕開けと同時に一人登場した風間がかんしゃく玉を叩きつけながら怒鳴りまくる姿に、僕は度肝を抜かれたのだ。

 今回はそんな風間で客を驚かせてやろうと、とある工場町に生まれ育った孤独な少年(?)という設定で、緩急の語りをでっち上げた。

 後半、素(す)に戻ってからのトーク部分も、風間と全国の都市を回りながら、その地方ごとの観客に合わせたものを本番前に〝口立て〟で作るのだが、風間の軽妙なしゃべりによってどこの会場でも沸き起こる爆笑を、客席の後ろから確かめるのが、毎回の楽しみとなった。

新人・斉藤由貴のオーラを浴びた

 そしてちょうどこの頃、僕は別のコンサートを頼まれることになる。話を持って来たのは、かつて早稲田の劇団『暫』で共に過ごした市村朝一である。

 その時代のことは『つかこうへい正伝』で詳しく書いたが、市村もまた、初めて観たつかこうへいの芝居に腰を抜かし、自分の劇団を畳んでまで『暫』に参加してきた男だ。入れ替わるようにつかが離れて行ったため、以降の劇団運営を手がけるはめになり、結局4年ほどで芝居からは足を洗い、それからは東宝芸能という大手の会社で俳優のマネージャーとして働いていた。

 そんな市村の担当する新人女優がレコードデビューし、夏には全国ツアーが決まっているので、それを僕に任せたいというのだ。

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