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「親ガチャ」なんて語が消えた未来へ~児童養護施設の現実と希望を掬った小説「ななみの海」

作家の朝比奈あすかが描きたかった「コロナ禍の子どもたち」

朝比奈あすか 作家

 作家の朝比奈あすかさんが先月、新作小説『ななみの海』を上梓しました。 
 児童養護施設で暮らす高校生のななみが、彼氏や友人、周囲の大人たちとの関係や人生の針路に悩みつつも、アルバイトをしながら医学部進学を目指す青春小説です。十代の少女が抱える揺らぎを繊細に掬いとった作品を書き上げるまでには、児童養護施設の取材を通じ、虐待や貧困など悲惨な境遇にある子どもたちに対して大人として自分に何ができるのか、何度も突きつけられ、逡巡したといいます。
 コロナ禍で見つめ直したこと、今作で描きたかったことについて、朝比奈さんにご寄稿いただきました。

朝比奈あすかさん=松蔭浩之氏撮影朝比奈あすかさん=松蔭浩之氏撮影

 〈あさひな・あすか〉 2000年、ノンフィクション『光さす故郷へ』を刊行。06年、群像新人文学賞受賞作を表題作とした『憂鬱なハスビーン』で小説家としてデビュー。『憧れの女の子』『自画像』『人生のピース』『さよなら獣』『人間タワー』『君たちは今が世界(すべて)』『翼の翼』『ななみの海』など著書多数。作品は中高受験問題に多く採用されている。

子どもは無力……コロナ禍であらためて感じた

 コロナ禍の2年間に私は子どもにまつわる小説を3作出した。子どもの生育と教育を全てAIが担う未来を描いた『誰もいない教室』(講談社「群像」2021年6月号掲載)、中学受験へ過熱してゆく家族を描いた『翼の翼』(光文社)、児童養護施設で生活する女子高生の物語『ななみの海』(双葉社)。どの作品にもコロナは描かれていないが、執筆時期はコロナ禍であり、私の頭はコロナでいっぱいだった。混乱してゆく社会の中で、子ども達がいかに無力であり、生命も安全も大人達に握られているということを、これまでになく強く感じていた。

 コロナ禍に入る手前で、「小説推理」(双葉社)の編集者と新連載の内容を考える話し合いをした。千葉県野田市の小学四年生の女の子が虐待死した事件の裁判の報道があり、私たちは、その件について話し合った。

 編集者から、「不遇な目に遭った子どもたちが天国で集まって幸せに遊んでいるという舞台設定の小説はどうですか」という提案があった。「そういう姿は生きている世界では当たり前のことなのに、それが損なわれてしまったのだと伝えることで、逆説的に虐待の悲惨さや理不尽さが浮かび上がってきたら」という彼女の言葉を受けて、私は、楽園のような場所で幸せに遊んでいる子ども達の姿を思い浮かべた。

 物語の中で、彼らは何かをきっかけに自分たちの記憶が消されていることに気づくのだ。それを探るうち前世で自分が親によって命を奪われた存在であると知る……そんなファンタジー小説の構想を話し合いながら、私たちは涙ぐんだ。

 帰り道、しかし私は急に虚しくなった。書けないと思った。天国で幸せに遊んでいる子ども達の姿を思い浮かべた時、フィクションの世界の中だけでも救ってあげられたらなどと思ったのだった。だけど、その考えは傲慢な気がしてきた。

 現実の世界で子ども達が虐待されている。命まで落としてしまった子たちがいることを報道で知るたびに、怒り、悲しみ、涙するけれど、自分は何もしなかったじゃないか。新しい虐待死のニュースを見るたびに新しい涙を流して、そして忘れていく。今この瞬間にも、誰かの機嫌に命を左右される子どもがいるのに、結果しか見ず、周囲にいた落ち度のあった人間を責め、いつも自分は関係ないという顔をしてきたくせに、そんな小説を書こうとするのか。

 考え出したら、何を書いていいのか分からなくなった。

 その頃から、児童養護施設について書かれた本を読むようになった。現場で働いている方々の話を聞きたいと思った。

児童養護施設と入所児童への心ない偏見

 どんな小説が書けるか分からないまま3つの児童養護施設を訪れた。取材を受け入れてくれたその3施設に関して言えば、生活の場は明るく、見かけた子や話した子に対する率直な感想は「普通の子たちなんだな」というものだった。

 子ども達の部屋はそれぞれの好みや個性が表れ、適度に散らかり、適度にカスタマイズされ、それもまた本当に「普通の子ども部屋」だった。栄養士が考えたメニューがあり、被服費や小遣いが決められ、中学生には塾の費用も出る。施設によってはスマホも貸与されるし、ゲーム時間もある。

 集団生活だから規則はあり、違反した子ども達ともめることもたびたびあるようだったが、そういう話も含めて本当に普通の子ども達が日常生活を送っているのだと思った。職員たちは皆、子ども思いで熱心に見えた。私に話しかけてくれた子たちの顔は明るく、こういう場所があって本当に良かったなと思った。

 施設に来られた子たちは「運が良い」ということだった。実際、私が見学した施設はどこも満員か、満員に近い状態だった。法改正により、裁判所の許可があれば児童相談所が虐待のおそれのある家庭に強制的に立ち入ることができるようになったことで、保護される子の数が増えた。それなのに、受け入れられる施設の数は限られている。加えて、児童養護施設の建築計画は地元の住民によって中止に追い込まれることもあり、「偏見を持つ人」「厳しい目を向けてくる人」もいる現実もある。(※児童養護施設、地元、反対、などの言葉で検索してほしい。記憶に新しい南青山の話以外にも事例は出てくる。)

 「入所希望児童のリストが送られてくるが、応えられないことが辛い」「その子が自分がたらいまわしになっているという印象を抱かないように願うばかりだ」。そう話す職員の心苦しそうな表情を前に、私は、自分が今の施設のありようをほとんど知らなかったなと感じた。

 こんな現状があるため、施設に入れた子ども達が「運が良い」と言われるのも頷けるが、しかし当事者である子ども達はどう感じているのだろう。そもそも何ひとつ悪いことをしていないのに、辛い目に遭った上、運に左右されないといけないなんて。本当に大人たちや社会の状況に振り回され過ぎている。

 そういう私も大人の一人であり、よく考えてみれば、短時間見学しただけで「普通の子たち」「普通の子ども部屋」などと思ってしまうのも、正直なところそう見たいから見ている面があるのだ。「普通」という言葉は、私の中にあった先入観の現れである。同じように、「運が良い」というのも大人側の考え方だ。そもそも「普通」とは何なのだろう。そして、「運が悪い」なんてこと自体、あっていいのだろうか。

児童養護施設で、食事中に座り込んでしまった子=本文とは無関係の施設です児童養護施設で、食事中に座り込んでしまった子(本文とは無関係の施設です)

同級生から「税金泥棒」

 児童養護施設の建築に反対する人たちがいるという件については、取材する中で聞いた話とも繋がった。

 それは、同級生から「税金泥棒」と呼ばれた中学生がいるという話である。聞いた私は、子どもがそんな偏見の目にも晒されているのかとショックを受けたが、話してくれた職員の口ぶりからは、そういうこともあるだろうといった諦観も感じられた。

 子どもが子どもに「税金泥棒」という言葉を投げた事実は、今の社会を映し出している。大人たちの短絡的なものの考え方や、差別につながる偏見をネットなどを通じて声高に言える状態がある。強い言葉は人を惹きつけるものだし、「ぶっちゃけ……」と単純化されて語られたものに食いつきたくなる怠慢は、私の中にもある。だが、そうやって軽はずみに放たれた言葉が、時に現実の社会の中で、弱者へと刃物のように鋭く向かうことについては、真剣に考えなければならない。

 「税金泥棒」と言われた子どもが、その話を職員に伝えられたこと、職員がその子の話をよく聞いて、その言葉は間違っているという話をしたことに、私は感謝した。なぜ私なんかが感謝しているのかも分からないが、とにかくそこにある信頼関係に安堵し、子どもにきちんと向き合ってくれて嬉しく思った。

 『ななみの海』ではその話を私なりに膨らまして、『税金泥棒』が絶対に間違った言葉である理由を考えながら書いた。このシーンは、実際に子ども達と接している職員の話を聞くことができたからこそ書けたもので、私の想像力では生みだせなかった。『ななみの海』は、本当は私には書けない小説だったと今改めて思っている。

 ところで、

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