メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

横断歩道は「人道回廊」である~運転者に対し子どもに深々とお辞儀させるな

杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

 酒に酔った運転者が通学路で子ども5人を死傷させた凄惨な「八街事件」が起きてから、早10カ月がたった。政府・自治体のまともな対応はないのかと日々に気になっているが、そうした中で先日、千葉県四街道市内での新しい試みが紹介された。

永遠の被害者に求めることではない

 テレ朝ニュース(2022年4月8日付)によれば、地元の警察署が主導して、小学1年生に、信号機のない横断歩道の前で停まった車に対して、深々とお辞儀をさせる試みを始めたという。

 同ニュースによれば、それによって運転者と小学生との「コミュニケーション」を図り、「双方の思いやり」を通じて、一時停止への「意識の変化を期待」し、ひいては「悲惨な事故を防ぐことができれば」、と警察署は考えているという。

 だが、この対策の時代錯誤には絶句するしかない。

 問われるべきは双方の思いやりなのだろうか。運転者・子ども間の関係は一方的である。子どもが車をなぎ倒して運転者に被害を与えているのではなく、運転者が子どもを大きな危険にさらし、時に衝突・接触することで死傷させているのである。なのに、子どもに責任転嫁するようなことを交通行政に関わる警察署が行うから、絶句してしまうのである。

 そもそも信号機のない横断歩道の手前で停止するのは、運転者の義務である。道路交通法第38条は、横断歩道等を渡っている、あるいは渡ろうとしている歩行者がいるときは、運転者は「当該横断歩道等の直前で一時停止……しなければならない」と規定している。

 停車は運転者が守るべき最低の法的義務だというのに、子どもに今回のような対応を求めるとしたら、警察としての基本的な任務を放棄したに等しい。

ImagingLImagingL/Shutterstock.com

「人道回廊」について礼を言わせるか

 今、ロシアによるウクライナ侵略・爆撃に世界中が泣いている。それでもせめてもの救いは、ロシアの侵攻地域に「人道回廊」を設置する努力が続けられていることである。

 だがロシア軍が、回廊に砲撃をしかけていないから(実際は非道にも砲撃をしかけ、たくさんの人の命を奪った)感謝の念を示すべきだとウクライナ市民に主張したとしたら、トンデモナイ理屈だと人は思うだろう。

横断歩道は「人道回廊」である

 だが、横断歩道前で停まるクルマに対し小学生に深々と頭を下げさせることは、人道回廊を必要とする避難民に、ロシアへ感謝の念を示せと言うようなものである。回廊を十全に機能させることは、侵略者といえども守るべき責務なのであって、侵略者側の恩恵などではない。

 それと同じことを、運転者と子どもとの関係についても言わなければならない。

marokemaroke/Shutterstock.com

 横断歩道は不可欠の人道回廊である。前記のように両者の関係は一方的であり、横断歩道がなければ子どもたちは自らの命を守ることができない。だから運転者にとって、横断歩道を安全に保つのは、ゆるがせにできない義務である。

 もちろん、ウクライナ危機ではロシアの侵略の事実がそもそも問われなければならない。それと同様に、子どもの生活環境を一変させてしまった運転者の側の、いわば子どもの領分への侵犯が問題化されるべきだが、今はそこまでは議論をひろげない。

 ただ現今の状況を思えば、子どもの安全を保障すべく、運転者に運転者としての最も基本的な義務を自覚させることが重要なのであって、行って当然の行為に対して、被害者でしかありえない弱者に感謝の念を示させることなど、論外だと言わなければならない。

 なるほど子どもであろうと、示された親切に感謝の念を抱くことはあろうし、それを形にするのは自然であるばかりか、世の中を住みやすくするのに大事な作法でもある。だが、

・・・ログインして読む
(残り:約882文字/本文:約2449文字)