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つかこうへい代表作『熱海殺人事件』映画に

スクリーンから消えたものは何か

長谷川康夫 演出家・脚本家

 つかこうへいとの関係が一区切りした年

 つかこうへいからの「ひとり立ち」  から続きます。

高橋和男、監督デビュー

 1986年という年を振り返るとき、つかこうへいの仕事で、どうしても触れておかなければならないものがある。

 6月に公開された映画『熱海殺人事件』だ。

 70年代半ばから80年代の頭にかけて一大ブームを巻き起こした、つかの芝居の中で、代表作と言えばやはり『熱海殺人事件』ということになるだろう。

 74年に岸田戯曲賞を受賞して、つかが世に出るきっかけとなり、『劇団つかこうへい事務所』では、ホームグラウンドとも言える紀伊國屋ホールで繰り返し上演され、その人気のベースとなった作品である。

1978年の『熱海殺人事件』。三浦洋一、平田満ら初演メンバーの出演で、4回目の上演だった=東京・新宿の紀伊国屋ホール

 そんな『熱海~~』の映画化は、先に映画となった『蒲田行進曲』の大ヒット以降、あちこちで企画に上がったようだが、実現することはなかった。

 ようやくそれが具体化するのは、1985年になってからだ。動いたのはフジテレビのディレクター、高橋和男である。

 80年のドラマ『弟よ』で知り合い(といっても高橋は応援のような立場で顔を出していただけだが)、つかはよほど馬が合ったのか、以来、身内のような付き合いをしてきたのが高橋だった。

 『つかこうへい正伝 1968-1982』の中で、僕は高橋と、同じフジテレビの李家芳文のことを、

 「つかが〝つかこうへい〟という立場を離れて、純粋に〝友人〟として接することのできた関係」

 と、説明した。

 「自分の知る限り、つかにとってそんな存在は、生涯に亘って彼ら二人だけではなかったか」とも。

 この連載でも、僕を含めた四人で酒や麻雀を目的に、週に二、三度は必ず顔を合わせていたことや、この85年に高橋が我々の劇団の手伝いをしていた会田由美子と結婚し、その仲人をつか夫妻が務めたことなどを書いたはずだ。

 しかし高橋の中には、どれだけ親しく接して来ようと、単なる遊び仲間ではなく、映像の仕事に携わる人間として、つかこうへい作品を手がけることへの思いが常にあったという。

 そしてようやくそれを投げかけた時、つかは「監督・高橋和男」での映画版『熱海殺人事件』を快く了解したのである。

 ◆これまでの連載はこちらからお読みいただけます。

大御所・仲代が「くわえ煙草伝兵衛」に

 まず高橋が相談したのは、以前から面識のある独立映画プロのプロデューサー、松本廣だった。松本は前年公開された菊地桃子のデビュー作「パンツの穴」という青春コメディで、ヒットを飛ばしたばかりであり、その関係からまずジョイパックフィルムでの配給が決まる。

高橋和男=1986年撮影
 高橋は同僚であるフジテレビ映画部にも話を持って行き、その協力も取り付けることになった。最終的には協力どころか、製作の母体がフジテレビとなり、映画のトップクレジット「製作総指揮」には、その頃高橋の上司だった「日枝久」の名が置かれることになる。

 僕はまるでタッチしなかったが、つかは85年の春から、映画版『熱海殺人事件』の脚本を書き始めていて、同時にキャスティングも進んでいたようだ。

高橋和男の手元に残る映画『熱海殺人事件』の台本
 子飼いの風間杜夫と、ちょうど『二代目はクリスチャン』を終えたばかりの志穂美悦子は、つかの希望で早々に決まった。だが問題はメインとなる部長刑事「木村伝兵衛」だった。

 舞台では風間が演じた役だが、映像となると年齢的に無理があり、風間はその部下である若手の刑事、熊田留吉役に回ることになったのだ。

 何人かの候補の中、最終的に仲代達矢に白羽の矢が立ったのは、高橋が何度か仕事をし、仲代の主宰する無名塾とも若い頃から縁が深かったからだという。

 つかは一も二もなく乗った。日本の演劇界、映画界の大御所が伝兵衛を演じるというこの配役に、つかが子供じみた高揚を隠さなかったろうことは、たやすく想像がつく。

 それによって脚本は、「仲代=伝兵衛」をいかなるキャラクターに仕立て、観客をあっと言わせるか、その前提で書き進められていくことになる。

 ただ最後まで難航したのが、犯人大山金太郎役である。

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