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「カチューシャ」はウクライナ問題を読み解くリトマス試験紙である!後編

【57】(最終回)ロシア庶民の内奥の想いと寄り添いつづけた「カチューシャ」

前田和男 翻訳家・ノンフィクション作家

「カチューシャ」(1938年)
作詞:ミハエル・イサコフスキー、訳詞:関鑑子、補訳:丘灯至夫
作曲:マトヴェイ・ブランテル

ドイツ人兵士が愛唱した「エリカ行進曲」

 「カチューシャ」はウクライナ問題を読み解くリトマス試験紙である!前編に引き続いて、ロシア生まれの名曲「カチューシャ」について書く。

 「カチューシャ」の「愛国歌」としての生い立ちについて、さらに調べをすすめるうちに、またまた興味深い符合がひらめいた。当時のナチスドイツの兵隊たちに人気のあった「エリカ行進曲」もまた、「カチューシャ」と内容が似ているのである。

 以下に「エリカ行進曲」の1番と最後の6番の歌詞を掲げる。(日本語の直訳は筆者)

(1)
Auf der Heide blüht
ein kleines Blümelein
und das heißt: Erika
Heiß von hunderttausend
kleinen Bienelein
wird umschwärmt Erika
ちっぽけな花が荒野に咲いている
その名はエリカ
そこにたくさんのミツバチがよってくる
(6)
Und dann ist es mir,
als spräch' es laut:
"Denkst du auch
an deine kleine Braut?"
In der Heimat weint
um dich ein Mägdelein
und das heißt: Erika
エリカは語りかける
「花嫁のことを忘れてはいない?
故郷であなたに思いをはせて泣いている少女
エリカのことを」

 「エリカ行進曲」は、正式には「Auf der Heide blüht ein kleines Blümelein(荒野に咲く一輪の小さな花)」。「エリカ」はドイツではよく知られた花と女性の名前である。「カチューシャ」が生まれた1年後の1939年につくられ、第二次世界大戦中、ドイツ軍兵士たちに愛唱された。

「エリカ」に勝利した「カチューシャ」

 「エリカ」と「カチューシャ」は、どちらもタイトルが娘の愛称であること、ストーリーが故郷に残してきた恋人に想いを馳せるという点で、きわめて似通っている。また、メロディも、「エリカ」は戦局の激化により軍歌行進曲風にアレンジされたといわれるが、聴きなおしてみると、「軍国歌謡」に共通する勇壮さは薄くてむしろ軽快であり、これも「カチューシャ」と同工異曲である。

 ファシズム(ナチスドイツ)と社会主義(ソビエトロシア)とは、「国是」の違いはあっても、どちらも一党独裁国家ということで、くしくも「戦意高揚策」が似てしまったのだろうか。

 ソビエトロシアとナチスドイツの戦闘は熾烈(しれつ)をきわめ、第二次世界大戦の帰趨(きすう)を決めたといっても過言ではない。もちろん勝敗は決したのは軍事力の差ではあるが、その背後には重要な要素として両国民の戦意があり、従って両者の戦いは「カチューシャ」と「エリカ」という「愛国歌謡」のヒロイン同士の戦いでもあった。

 そして、勝利の女神は「カチューシャ」に微笑んだのである。

ロシア連邦の戦勝50周年で、赤の広場近くで行われたジューコフ元帥の騎馬像の除幕式の後、像の前でカチューシャを歌う退役軍人たち。同元帥は独ソ戦の英雄で、日本軍とのノモンハン事件でも指揮を執った=1995年5月8日、モスクワ

大地と愛情がテーマの「女歌」

 そもそも歌詞もメロディも同工異曲の「カチューシャ」が、なぜ「エリカ」に勝つことができたのか?

 かつて私のロシア語の先生であった、ロシア文学者で詩人の工藤正廣氏から貴重なヒントをもらった。

 工藤氏のみたてを、不肖の弟子なりに咀嚼(そしゃく)すると、こうである。

 スターリンは、ナチスドイツとの戦争に勝利するには、ロシア国民の情に訴えて愛国心を高揚するのが最善の策と考えたが、それを見事なまでに体現したのが「若い兵士と故郷の恋人の娘」を物語にしたてて歌いあげた「カチューシャ」であった。

 当初のジャズ調から、メロディ―はロシア民謡的な抒情性が前面に出るようにアレンジ。当時のソ連の兵士たちは圧倒的に農民の出であることから、歌詞は彼らの抒情の源泉であるロシアの大地・自然を、彼らの琴線にひびくように巧みに韻を踏んで表現されている。

 この基調は現代のロシアの歌謡の大きな流れにつながるもので、いうなれば、「愛のフォークソング」「ロシア的な歌語り(カンツォーネ)」である。

 こう分析した上で、工藤氏の口からでた次の一言が、私に大いなる発見をもたらした。

 「カチューシャはどちらかと言えば女歌です。大地と愛情がテーマの女歌です」

軍歌は「男歌」が一般的だが……

 たしかに、先に掲げた「エリカ」と「カチューシャ」の歌詞を今一度くらべてみると、「エリカ」は男の兵士が故国に残してきた恋人を想う一方通行の歌であるのに対して、「カチューシャ」は男の兵士による恋歌ともよめるし、故国にのこされた娘からの返し歌ともよめる。

 工藤氏の示唆では、後者の色合いが濃いという。

 歌詞にうたこまれているのは、林檎、梨、草原といったロシアの農村の原風景、そして「カチューシャ」という名のロシアの農村のどこにでもいそうな普通の娘。これに加えて、どちらかといえば、娘が戦地の恋人を想う「女歌」である。

 これらがあいまって、「個人的なラブソング」は、戦地と銃後の両方からの「祖国への国民的な愛の歌」へと昇華。それがソビエトロシアに歴史的な勝利をもたらしたといえそうである。

 一般に軍歌は「男歌」である。「♪勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからは」(「露営の歌」)と決意を表明するのも、「♪ああ、あの顔でであの声で手柄頼むと妻や子が・・・」(「暁に祈る」)と故郷の母や女性を慰撫(いぶ)するのも、ほとんどが前線にいる男の側からである。

 「♪神とまつられもったいなさよ・・・」の「九段の母」、「♪家をば子をば守りゆく、やさしい母やまた妻は・・・」の「愛国の花」のような銃後からの「女歌」は脇役、それもはるか遠景にある脇役でしかない。

 ところが、対独戦下のソ連は、「女歌」を愛国歌謡の主砲とすることで勝利を手にしたのである。「男歌」だけでは国民を統合、包摂するのはむずかしい。「女歌」があいまってこそそれが可能となる。これを実証してみせたのが「カチューシャ」であったのかもしれない。

ベルリン陥落で対ドイツ戦争に勝利、空前の戦勝祝いのモスクワ。サーチライトに浮かび上がるクレムリン宮殿など=1945年5月、モスクワ市

連載「嗚呼!昭和歌謡遺産紀行〜あの時、あの場所、あの唄たち」はこちらからお読みいただけます

大地に根付いて生きたロシアの人々が失ったもの

 スターリン指導部がそこまで企図していたかどうかは不明だが、これによって得られたものは極めて大きいが、失われたものもまた大きかった。最も大きな果実を手にしたのはスターリン体制であり、もっとも大きなものを失ったのは、ロシアの大地に根付いて生きる人々であったろう。

 第二次世界大戦で最も多くの戦死者を出したのはソ連で、2000万人を優に超えるとされる。そのうちの700万人以上が一般の市民で、首都レニングラード(現サンクトペテルブルク)やスターリングラード(現ボルゴグラード)は、数年にわたってドイツ軍に包囲をされ、どちらも100万人を超える死者を出したといわれている。

 ちなみに第二次世界大戦で、旧ソ連に次いで死者が多いのは中国で1000万人(うち軍人130万人)、3位がドイツで510万人(うち軍人・軍属280万人、市民230万人)、4位が日本で300万人(うち軍人・軍属280万人、市民80万人)である。一方、真珠湾攻撃以外では自国が攻撃されなかったアメリカの死者は軍人29万人2千人にすぎない。

 ロシアの人々は、これほどの犠牲者を出し辛酸をなめながらも、大半はスターリン指導部に疑念をいだくことはなかった。それどころか、こぞって「カチューシャ」をうたい、「早く戦争に勝って故郷に帰ろう」という楽観的なメッセージを最後まで信じながら、わずか4年で2000万人を超える人々が命を落としたのである。

スターリングラードに迫るドイツ軍歩兵部隊=1942年、ソ連

朝鮮戦争下では赤軍兵士たちの望郷歌に

 逆説的にいえば、「カチューシャ」は2000万人を超える犠牲者の血で染め上げられた歌であり、それを熱源として「大祖国防衛戦争」を勝利に導いたことになるが、戦争が終結した(平和が訪れた)後は、どうなったのか? 退役してお役御免の身になったのだろうか?

 残念ながら、「カチューシャ」に楽隠居は許されなかった。第二次世界大戦でソ連が戦勝国になってからも、「愛国歌謡」としての出番が求められたからだ。

 終戦の安寧はつかの間で、ソ連とアメリカをそれぞれの盟主とする「東側の社会主義諸国」と「西側資本主義諸国」との「冷たい戦争」が勃発、それは5年ほどで「熱い戦争」へと発展した。戦後38度線によって南北に分断されていた朝鮮半島での東西陣営の激突である。

 1950年6月25日、東側の盟主であるソ連の軍事支援をうけた金日成率いる北朝鮮軍が38度線を超えて侵入。当初は優勢だったが、アメリカの主導で結成された国連軍が反転攻勢、北朝鮮軍は劣勢となり領土深く後退を余儀なくされる。しかし同年11月、毛沢東率いる中国義勇軍の参戦により一進一退の膠着状態が約3年にわたりつづき、1953年7月に休戦となった。その間の犠牲者は米軍約5万人、中国軍約100万人、北朝鮮約250万、韓国130万以上とされる。(NHK「映像の世紀 バタフライエフェクト 朝鮮戦争」より)

 この朝鮮戦争が始まってから50年めにあたる2010年、新聞の特集記事の中で、中国義勇軍の生存者の証言とともに、「カチューシャ」をめぐるエピソードが紹介されている。(「朝日新聞」2010年7月10日)

 建国5年目の中国が朝鮮戦争に参戦した1950年11月、中学3年だった王剣貞は軍事幹部学校の募集に応じ、杭州の空軍部隊で訓練と政治教育をうけた後、翌51年8月、突然命令をうけ、吉林省公主嶺の飛行場にある無線通信施設へと送られた。そこにははるか年上の6人のソ連の軍事顧問がいて、彼らから通信兵としての訓練をうけることになった。

 ソ連兵は、王の発音が中国語で「ワン」であることから、「ワーシャ」とよんで可愛がってくれた。彼らは毎日、肉や白米、果物やチョコレートを食べられたが、王たち中国兵士はコーリャンが主食で肉料理は半月に1回だけ。「こんな食事では発育に悪い」と、自分たちの肉やパンをこっそり分け与えてくれたという。

 王の思い出に深く残るのは、ミーシャというソ連兵で、わら山に寝ころんで「カチューシャ」をロシア語で教えてくれ、王にそれを歌わせてしみじみ聴き入ったという。
王は、「祖国の恋人を思い出していたのかもしれない」と述懐するとともに、「戦争初期のソ連軍は絶対的な主力で彼らがいなければ戦局はもっと厳しかった」と証言している。

 朝鮮戦争で北朝鮮軍の攻勢で威力を発揮したのは、10年前にロシアの大地からナチスドイツを撃退するのに一役も二役も買ったロケット砲「カチューシャ」であり、ミーシャというソ連の赤軍兵士のように「カチューシャ」をうたいながら王たち中国義勇兵を教育したソ連の軍事顧問団であった。

 二つの「カチューシャ」がなかったら、朝鮮戦争は異なる結末をむかえ、その後の東西冷戦体制もまた変わっていたかもしれない。

日本軍陣地めがけて一斉射撃するソ連軍カチューシャ砲=ソ連のドキュメンタリー映画「日本の撃滅」から。モスクワ赤旗勲章記録映画撮影所製作、ヘイフェツとザルヒ共同監督でB・ポポフ撮影

忘れ去られるはずの歌

 朝鮮戦争で「痛み分け」となった東西の盟主、ソ連とアメリカはその後も対立と抗争をつづけたが、1963年に第三次世界大戦が危惧されたキューバ危機をのりこえてからは「雪解け」へむかい、「カチューシャ」にもようやく楽隠居の時が訪れたかにみえた。

 「カチューシャ」が誕生してから35年めにあたる1973年、「読売新聞」のコラム「世界の裏窓」は、当時のソ連の若者たちの間で流行っている話題曲を取り上げ、最後はこう締めくくられている。

 しかし古い世代にとってはやはり昔からの歌が良いらしく、レストランなどでは「トロイカ」「カチューシャ」など日本人にもおなじみの歌を合唱している光景をよく見かけ思わず楽しくなる。(1978年5月2日夕刊、モスクワ小島特派員)

 どうやら「カチューシャ」は、「戦争を体験した老兵たちの懐メロとして消えゆく」かに思われた。

 そして1991年、ついにソ連崩壊の時がやってくる。その直前に発行された『音楽の友』6月号では、山之内滋美が「ソ連の大衆音楽事情」と題してこう記している。

 現代のソ連の人々にとって、「道」や「カチューシャ」は懐メロといったところだ。日本に置き換えれば、「戦友」「誰か故郷を想わざる」と同時代に同じような思いで作られ愛唱された歌なのである。もっとも、「カチューシャ」はその後、戦意発揚歌のような扱いを受けて、戦時中に様々なバリエーションで歌われたため、最近では人々はあまり好んで歌いたがらない。

 山之内が「カチューシャ」を、「♪ここはお国を何百里、離れて遠き満州の・・・」の「戦友」と「♪幼馴染みのあの友この友・・・」の「誰か故郷を想わざる」にたとえたのは、「カチューシャ」がもつラブソングではなく「望郷の歌」の面を強調したかったからであろう。

 この年の8月にソ連が崩壊。これで「カチューシャ」は「懐メロ」どころか、山之内が「戦友」にたとえたように、やがて戦争体験者の死と共に「忘却の歌」になる、くわえて「カチューシャ」はソ連時代のプロパガンダソングゆえにソ連崩壊で支持を失うはずだから、なおさら忘れ去られる。誰もがそう思ったはずである。

連載「嗚呼!昭和歌謡遺産紀行〜あの時、あの場所、あの唄たち」はこちらからお読みいただけます

東京五輪で不死鳥のごとく復活

 だが、そうはならなかった。

 2021年夏、コロナのため1年遅れて開かれた東京オリンピックに、ロシアは組織的なドーピングに絡む制裁により国としての参加は認められず、表彰式での国歌の演奏も許されなかったが、その代りとしてロシアが要求したのは、なんと「カチューシャ」だった。ソ連崩壊から30年。戦争を体験した年寄りたちの多くとともに消えると思われていた「カチューシャ」が、不死鳥のごとく甦ったのだ。

 しかし、スポーツ仲裁裁判所は「愛国的でロシアが連想される」などとして却下。IOC(国際オリンピック委員会)は、ロシアの作曲家・チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」を使うことにした。

 この「甦り」に、さぞや多くの人が驚いたことだろうと思って、友人たちに追加アンケートをしてみたが、気づいた人はわずかで、気づいてもこの出来事の意味を考えた人はほとんどいなかった。そもそも、50代以下の日本人は「カチューシャ」の存在自体を知らないのだから、当然といえば当然かもしれないが、私からすると、これはたいへんな歴史的事件であった。

 なぜ、こんなことが起きたのかと調べなおしたところ、かなり前からその伏線があった。「カチューシャ」は突然、墓所から甦ったのではなく、ロシア人の心の中に、ずっと生き続けていたのである。

2021年東京オリンピックの開会式で入場するROC(ロシア・オリンピック委員会)の選手たち=2021年7月23日、国立競技場

「プラハの春」翌年に起きた反ソ連のホッケー暴動

 さかのぼること37年前の1984年2月20日、旧ユーゴのサラエボで開催された冬期オリンピックのアイスホッケー決勝。世界選手権を兼ねた4年に一度のビッグイベントで、ソ連は宿敵チェコを2-0で下し、8年ぶり6度目の優勝を飾った。ソ連選手とその応援団の歓喜ぶりを、読売新聞はこう伝えている。

 ソ連チームは試合終了後のブザーが鳴ると全員がゴールキーパーのトレチャクの周りに集まって歓喜の輪をつくった。国旗をうち振り「カチューシャ」の大合唱で祝福するソ連応援席にスティックを次々に投げ込んで喜びを分かち合う……1984年2月20日夕刊)

 この「カチューシャ」の大合唱が起きた1984年は、前述したように、ソ連では「老兵たちの懐メロとして消えゆく」かの状態にあり、これと矛盾するではないか。いや、そうなるだけのもう一本の伏線があったのである。それは、さらに15年前の1969年3月28日ストックホルムで開催されたアイスホッケー世界選手権大会にさかのぼる。チェコはソ連を4対3で破り優勝をはたすと、チェコ全土は興奮で沸き返った。

 それは、前年の1968年8月、ドブチェクによる「人間の顔を持った社会主義」を掲げた民主化運動「プラハの春」が「ソ連軍の進駐」でつぶされたことへの抗議運動へと転化、その激越ぶりを新聞はこう報じた。

  市民たちのシュプレヒコールは「我々はソ連をやっつけたぞ」「チェコ万歳」「ソ連軍出て行け」と次第に政治的なスローガンへと変わっていき、最後にはチェコスロバキア国歌が深夜のプラハの町をゆるがせた。(朝日新聞)

 アイスホッケーはソ連でもチェコでももっとも人気のある「国技」であり、以来、両国の「国の威信をかけた戦い」がはじまった。いわばスポーツによる「疑似戦争」である。

 注目すべきは、チェコが勝てば国歌がうたわれるが、ソ連が勝つと、1984年の世界選手権のように国歌ではなく「カチューシャ」が歌われたことだ。「カチューシャ」が事実上の「愛国歌」であり続けていることの証しであった。

国の威信がかかる「政治危機」になると……

 朝鮮戦争後の東西冷戦の雪解けのなかで、「カチューシャ」は「老兵たちの懐メロとして消えゆく」かに見えたが、それは「平時」のことであって、国家の威信がかかる「政治危機」状況になると、「愛国歌」として甦る。

 2021年夏の東京オリンピックで、ロシアが代替国歌として「カチューシャ」を要求したのは、ロシアに「政治危機」状況が訪れつつあることのシグナルであり、それからわずか半年後のウクライナ侵攻の先触れであったことに、私たちは気づくべきであった。

 2022年9月21日、プーチンは予備役30万人を対象にした動員令を発令、膠着した戦況の打開を目論んだが、ここでも「カチューシャ」が戦意高揚歌の役割を果たしていることを、以下の記事は示している。

 北東部のシベリア・サハ共和国の村では、旧ソ連さながらに「カチューシャ」の音楽が流されるなか、村の集会場所から男性は見送られた。首都モスクワでも召集された若者が、涙を流す母親に笑顔を見せていた。(佐藤俊介「招集から逃げる人々 ずさんすぎるプーチン政権の動員令」「ウェッジオンライン」2022年9月26日)
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「大ロシア帝国」の「愛国歌謡」として機能

 こうした「カチューシャ」をめぐる一連の動きからは、次のことが読み取れるだろう。

 「カチューシャ」は今もって現役の「愛国歌謡」でありつづけている。そして、「カチューシャ」は生まれはソ連でも、「社会主義ロシアの申し子」ではなく、それ以前の「大ロシア帝国」の「愛国歌謡」としても機能している。

 裏返せば、多くの識者が指摘しているように、1917年に成立し1991年に崩壊した世界初の社会主義国・ソビエト連邦は、1721年に成立した「大ロシア帝国」から続く歴史の流れの中にあった少々毛色の変わった70余年間の一つのレジームであって、「大いなるわがロシア」は、ソ連が崩壊後の今もなお途絶えることなく護持されている。その有力な拠りどころ、かつ証拠が「カチューシャ」といっていいのかもしれない。

 それを物語るソ連崩壊時のエピソードがある。

 1991年12月5日、愛知県のある日本人夫妻が、日本で公演したレニングラード(現・サンクトペテルブルク)少年少女合唱団の一人の少女を自宅に泊めた縁で、少女の自宅へ招かれた。そこで家族から歓待をうけた。ともに「カチューシャ」を歌ったあと、別れ際に、少女の父親からこう言われた。「ソ連は小さくなってしまうかもしれない。でもこの国が永遠に続くように努力する」。日本人の夫は「小さくなる」という意味がわからなかったが、9日午後に帰国、「ソ連邦消滅」の新聞の大見出しを見て、真意を理解したという。(「朝日新聞」1991年12月12日夕刊)

 「ロシアは小さくなる」と嘆きながら歌われた「カチューシャ」――。ここに多くのロシア人の心情の根がありそうだ。

「カチューシャ」は要注目の唄

2022年12月31日、新年のあいさつをするロシアのプーチン大統領(中央)の後ろに並ぶロシア軍兵士=ロシア大統領府提供

 プーチンの支持率が今も8割を超えるというロシアの報道を、海外メディアは「操作」だと指摘するが、ロシア国内ではそれは「現実」なのかもしれない。すなわち、ロシアによるウクライナ侵攻は、ソ連崩壊によって「ロシアが小さくなった」時からすでに準備されていたのではないか。そうしたロシアの庶民の内奥の想いと寄り添いつづけてきたのがほかならぬ「カチューシャ」であったのだ。

 とすれば、現下のロシアの人々のあいだで、「カチューシャ」が再び懐メロに戻らないかぎり、ウクライナ紛争は終息に向かわない、逆に「カチューシャ」が「愛国歌」として共感されつづけるなら、ウクライナ紛争は、一時的な和平があっても長期化・泥沼化はさけられないだろう。

 今一度、「ロシア民謡っていい歌が多いのに、どうして戦争なんか始めたんだろう」という心優しい友人の疑念にたいする、私の解答を記す。

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