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『Journalism』9月号 日英サッカー報道にみる『スポーツの言語化』」とは

石井昌幸via朝日新聞ジャーナリズム編集部《9月13日にニコニコ生放送》

 朝日新聞社のジャーナリズム&メディア研究誌「Journalism」(ジャーナリズム)2011年9月号は8日に発行。特集は「スポーツ報道を考える」です。WEBRONZAは同誌と連携にメディアのあり方や役割を考えています。

 「Journalism」9月号特集「スポーツ報道を考える」のニコニコ生放送は、9月13日(火)21時30分からです。出演者は、編集部から酒井輝男さんと伊丹和弘さん、ゲストは特集筆者のひとり、石井昌幸さん(早稲田大学スポーツ科学学術院准教授)です。こちらもぜひご覧ください。

 WEBRONZAでは、9月号のなかから石井昌幸さんの「日英サッカー報道にみる『スポーツの言語化』」とは」をお届けします。

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■石井昌幸(いしい・まさゆき)

石井昌幸さん

早稲田大学スポーツ科学学術院准教授。1963 年島根県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程(ヨーロッパ文化地域環境論専攻)単位取得退学。広島県立大学専任講師を経て、2003 年4月から現職。共著に『近代ヨーロッパの探求⑧ スポーツ』(ミネルヴァ書房)

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2010年6月、私たちはイングランド内陸部の地方都市レスターの友人宅でテレビを観ていた。W杯南アフリカ大会、イングランド代表の初戦。GKグリーンの信じがたい落球でアメリカと引き分けてしまった、あの試合だ。1階の食卓で早めの夕食をとり、その後テレビのある2階の居間に移動して観戦を始めたのだが、しばらくするとホスト役の友人は、階下に降りて行った。いっこうに戻ってこないので様子を見にいくと、キッチンで洗い物をしている。「観なくていいの?」と聞くと、「ラジオで聴いているから大丈夫だよ」と言う。ほどなく戻ってきて一緒にテレビを観たのだが、英国人の彼は、どちらかと言うとサッカーはラジオで聴くほうが好きなのだそうだ。

 大学の研修期間で、1年ほど英国で暮らしていた時の出来事である。サッカーをラジオで聴く。ふいに私は、子どもの頃に見た父の姿を思い出した。当時、プロ野球中継は放送時間が決まっていて、試合が長引くと9回表あたりで「誠に残念ですが、ここで後楽園球場からお別れします」などと言いながら、音楽とともに中継は終了した。父は素早くラジオのスイッチを入れる。わずかなノイズのむこうで、アナウンサーが淡々とボール・カウントを告げている。「ピッチャー新浦、投げました。ボール。ワン・スリー」。解説者が今の一球について論評を加える。父の顔色がくもる。ゲームの行方を耳にゆだねることで、終盤の緊張はさらにその強度を増していった。

 英国サッカーにおいてラジオは今でも不可欠のメディアだ。私が暮らしていたレスターには、プレミアリーグの一つ下、チャンピオンシップ(事実上の2部)のチームがある。日本代表の阿部勇樹選手が移籍したことで日本でもその名が知られるようになったレスターシティだ。BBCには現在40ほどの地方局があるが、その一つ、BBCラジオ・レスターは、アウェーゲームを毎試合実況中継している。この町のサポーターたちの多くは、ホームゲームはスタジアムに足を運び、アウェーゲームはラジオで聴く。

 中継は試合開始1時間以上前から始まる。放送内容自体にこれといって特別なものがあるわけではない。ここまでのシーズンの経過を振り返り、過去の試合のゴール・シーンの実況を再生し、選手や監督のインタビューを流す。試合前のスタジアムの音や、観客の入り、天気の具合などを伝えたりしながら、番組は試合までの時間を少しずつ高ぶらせていく。

 面白かったのは「ファンの声」のようなコーナーで、地元の街角やパブで人びとにインタビューして、チームについて論評させていた。監督の戦術や選手起用、個々の選手のコンディション、チームの方向性。大人も子どもも、男も女も、いっぱしの評論家のうなコメントをしている。みんなサッカーを語る言葉を持っているのだ。

 試合が始まる。誰が誰にパスして、誰がシュートして、ゴールキックになったとか、コーナーキックを取ったとか。ただ目の前で起きている事実が時々刻々伝えられるだけなのに、なぜか不思議な緊張感が、リアリティを持って迫ってくる。

◇スポーツの言語化にラジオが重要な役割◇

 BBCがサッカーのラジオ中継を始めたのは1926年のことだ。興味深いことに、翌27(昭和2)年、大阪中央放送局(JOBK)が甲子園球場から初めてのスポーツ実況放送となる中等学校優勝野球大会(現在の高校野球)の中継を始め、28年には東京でも放送が開始された。ユーラシア大陸の両端で、2つの島国がそれぞれの人気スポーツを、ほぼ同時期に、音声によって伝え始めたのである。

 テレビが家庭に普及し始めるのは、英国では1950年代、日本では60年代後半だから、日英ともにおよそ四半世紀以上にわたって「スポーツを聴く時代」を経験したことになる。その間、スタジアムに足を運ぶことのできない多くの人びとにとって、ひいきのチームの試合ぶりを知ることができるのは、文字または音声を介してのみであった。

 以前、日本のなにかの記事で、「サッカーはラジオに向かない」という意見を読んだことがあるのだが、それは間違いなのではないだろうか。野球であれ、サッカーであれ、眼前で起きている事象を、ただちに言語化して伝えるというのは、きわめて困難な作業であるはずだ。

 新聞によって始まったスポーツの言語化は、「ラジオの時代」を経ることによって、おそらく飛躍的に進歩した。それがまた新聞に応用されることで、スポーツという事象を言語によって伝えるという高度な営みが、次第に確立し、洗練されていったのである。いっぽう、言語のみによる伝達は、それを受け取る側のスポーツをめぐる「リテラシー」をも、急速に高めたはずだ。スポーツが、いまだ映像によって伝えることのできなかった時代、すなわち新聞とラジオの時代を経ることで、日本では野球と相撲、英国ではサッカーとクリケットは、他のスポーツにはない豊穣な言語空間を獲得していったのである。

 英国で今でも、多くの人がラジオでサッカーを聴いているのは、この国のサッカー文化が、そのような歴史的プロセスを踏んでいるからである。私の友人やレスターのサポーターたちの頭のなかには、言語のみを介して、ピッチの状況がありありと浮かんでいるはずなのである。まさしく我々日本人が相撲や野球の実況中継を聞いて、土俵上で決まった豪快な投げ技や、サヨナラ本塁打にうなだれる投手の様子が浮かぶように。

◇専門誌並み記事が載る英国紙のスポーツ報道◇

 英国で新聞が本格的なサッカー報道を始めたのは19世紀末。最初は試合結果、やがて寸評を載せるようになった。彼の国におけるサッカーの言語化は、すでに100年以上の歴史を持つ。

 サッカー報道の文化を支えている一つが高級紙に掲載されるサッカー批評であろう。英国では4つの高級紙(タイムズ、ガーディアン、インディペンデント、デイリーテレグラフ)に、本紙とは別に「サプリメント」と呼ばれる別刷りが、ほぼ毎日付いている。文芸批評や映画評論などでは、新聞のサプリメントはきわめて重要な役割を果たしている。スポーツでも同じで、オピニオンリーダーは、やはり新聞である。だから、日本なら「サッカーマガジン」や「サッカー批評」のような専門誌に載るであろう突っ込んだ記事が新聞に載っている。デイリーメールやデイリーエクスプレス、サンなど、いわゆるタブロイド紙のスポーツ記事にも、ゴシップだけでなく専門的なサッカー記事がある。最近では地下鉄などで配られているフリーペーパーにも、スポーツ記事がかなり載っていて、電車のなかでこれを読んでいる人も多い。

 英国のスポーツ文化を支えている活字メディアは、もう一つある。地方新聞だ。私が暮らしていたレスターには、レスターマーキュリーという地元紙があった。日本の地方新聞と違って、中央から配信される全国ニュースや国際ニュースは載らない。地元のニュースのみで構成されているから、なにか特別な事件でも起きなければ、普段は1面でも町のちょっとした話題程度のニュースしかないことも多い。新聞の真ん中あたりは、ほとんどが中古車や住宅の広告である。そんななかで重要なのは、なんと言ってもスポーツである。実際、読者のほとんどは、これを目当てに地方紙を買っているのではないかと思う。

 レスターには、レスターシティ(サッカー)、レスタータイガーズ(ラグビー)、レスターカウンティ(クリケット)と、英国を代表する3つのスポーツそれぞれのプロチームがあって、裏1面から5~6頁を費やして、その動向が詳しくリポートされている。なかでも紙面の割合が圧倒的に多いのがサッカーで、浦和レッズから阿部選手が移籍する際にも、写真入りで大きく取り上げられた。シーズン中の月曜日には、前の土曜日に行われた試合(日曜は休刊)についてのサプリメントが付くことがある。

 2部リーグにいるレスターシティの試合がテレビ中継されることはまずない。BBCテレビが土曜夜に放送しているハイライト番組でも、普段は得点シーンが一瞬映るだけだ。有名チームを応援している一握りのサポーター以外の人びとにとって、ラジオと新聞は、いまでも主要なメディアなのである。

 このように、衛星放送で全世界を市場とするプレミアリーグの国のサッカー報道は、実は今でもラジオや地方新聞によって分厚く下支えされている。

◇評価部分に限らない日英の報道の違い◇

 その後も私は、しばしば前述の友人の家でW杯南ア大会を観戦した。大会前の日英親善試合も一緒に観たのだが、このときの友人の驚きぶりは、かなりのものだった。「日本は、上位に行くかもね」。

 結局、イングランドと日本は、ともにグループリーグを2位通過し、ともに決勝トーナメント1回戦で敗退した。しかし、両国のメディアの反応は対照的であった。円熟期を迎えた「黄金世代」のスターたちを擁し、優勝さえも期待されながらドイツに惨敗したイングランド。通過が危ぶまれていた厳しいグループを生き残り、史上初のベスト8まであと一歩のところまで迫った日本。評価が異なったのは当然であろう。しかし、違ったのは評価だけではなかったのだ。

 ちょうど手もとに、イングランド敗退翌日のガーディアン(6月28日[月])がある。以下ではそこで報道された中身を紹介しながら、同じく自国の敗退を伝えた朝日新聞(6月30日[水]朝刊・夕刊)と比べてみることで、英国のサッカー報道と日本の違いを、具体的に見てみることにする。

 ガーディアンも朝日も、自国の敗退を1面トップで伝えた。朝日は、20・21、38・39面でもこの試合の模様を写真入りで伝え(22面にも関連記事)、夕刊にも1面を含む約5面が費やされた。一方、ガーディアンは1面以外に、4・5面、「サプリメント」に8頁の合計11頁を割いている。

 両紙ともに写真にも大きなスペースが割かれているので、記事そのものの分量も比較しておこう。ごく大雑把に数えただけだが、この日ガーディアンのW杯報道に費やされたのは約1万6千語。これに対して朝日新聞では、関連記事も含めて朝刊が1万3千字強、夕刊が1万1千字強、合計2万4千字強である(ともに、見出し語および他国の試合記事も含む、写真キャプションは除く)。量を具体的にイメージするために、かなり乱暴な試算だがガーディアンの記事を洋書のペーパーバック(1頁430語で計算)に換算すると38頁ほど。朝日(朝刊・夕刊)の記事を新書(1頁42字×16行で計算)に換算してみると、およそ36頁くらいで、ほぼ同じだ。

 南ア大会の場合、時差の関係で日本の新聞は圧倒的に不利であったはずだ。決勝トーナメントの試合開始は英国では15時。試合終了から記事の締め切りまでにはそれなりに時間があっただろう。一方、日本の試合開始は23時だったから、朝刊に間に合わせることは至難の業だっただろう。日本対パラグアイ戦は、延長・PK戦も行われたので、これだけの分量の記事が朝刊に載ったことは、むしろ驚異的である。時差の不利を考慮して夕刊も含めて考えると、日本の記事の量は英国にさほど引けを取らない。

◇データと評価を重視、英紙のサッカー報道◇

 それではガーディアンの約1万6千語のなかには、どのようなことが書かれているのだろうか。その中身について、少し踏み込んでみよう。まず1面は、同紙のスポーツ担当チーフ、リチャード・ウィリアムズによる南アからの現地リポートである(注= 英国の新聞は1面記事が途中で切れていて、別ページに続いていることが多い。この記事も5面に続いている)。「66年の再現。だが、今回のそれはイングランド黄金世代の終焉」という大見出しのこの記事は、試合を大きく左右することになった誤審の描写から始まる。

 「イングランドサッカー史上最も紛糾した瞬間の一つが蘇り、昨夜、現代の選手たちに牙をむいた。……2対1で迎えた前半終了間際、同点のチャンスは否定された。フランク・ランパードが放ったシュートは、ドイツ側ゴールのクロスバーをたたいて地面に落ち、ゴールラインを数フィート越えたところでバウンドし、再びクロスバーをたたいて、キーパーにキャッチされた。ウルグアイの線審マウリシオ・エスピノーザは、ボールがゴール・ラインを越えたという動作を見せず、彼の同国人ホルヘ・ラリオンダ主審は、試合を続行した。……昨日の4万510人の観客のなかにいたイングランドファンの目に、スタジアムの大スクリーンがリプレーを映し出すと、それまで絶え間なく響いていた、けたたましいブブゼーラの音は、おなじみの露骨な審判攻撃のアングロサクソン流チャント(合唱)でかき消された」

 記事は、1966年イングランド大会決勝ドイツ戦でイングランドに認められた「疑惑のゴール」に言及。このとき線審を務めたアゼルバイジャン人の銅像がバクーに建っていることを紹介して、もしドイツが優勝したら、ベルリンにエスピノーザの銅像が建つだろうと、まずは強烈な皮肉を吐いている。

 しかし、試合内容に関する叙述は、これ以下の部分ではほとんどない。前回のドイツ大会でもトップ記事を書いたウィリアムズが続けて書くのは、次のようなことだ。―イングランドの疲れ切ったベテランたちは、1934年以来最も若いチームを送り込んできたドイツに、戦術、モティベーション、運動量などのあらゆる点で凌駕されていた。ルーニーは、かつての彼自身の幻影に過ぎず、24歳であるにもかかわらず10歳年上に見えた。ベッカム、オーウェン、ジェラード、ランパード、スコールズ、ファーディナンドら、いわゆる「黄金世代」は、結局代表戦では期待されたほどの成果を収められぬまま、終わりを迎えた。サッカー協会はカペッロ監督に、この2年半ですでに2千万ポンドを支払ってきたが、契約上、協会側から解雇することができず、あと1200万ポンドを彼に支払わねばならない。凱旋試合として帰国後にウェンブリーで予定されているハンガリー戦は、赤字になるであろう。そして最後に「しかし、言っておかなければならないことは、ドイツが本当に驚異的だったことだ」――と結ばれている。このように、ガーディアンのトップ記事に書かれているのは、「客観報道」ではなく、このゲームに対する明確な「評価」である。

 紙面全体から感じられるのは、トップ記事に端的に表されている同紙の「立場」が一貫していて、それが以後の記事で事実によって様々な側面から裏づけられている、という点である。今回の敗退報道で言えば、その「立場」とは、およそ以下のように要約できるのではないだろうか。(1)前半37分にランパードが放ったシュートは、ゴールに入っていた。このゴール(入っていれば同点になっていた)が、明らかな誤審によって認められなかったことが、この試合の最大の焦点であった。(2)それでは、もしこのゴールが入っていればイングランドに勝機があったかと言えば、それはきわめて疑わしい。この試合で勝つにふさわしかったチームはドイツである。(3)イングランドの敗因は(グループリーグでの不調も含めて)もっと根深く、複合的である。カペッロ監督の頑固な戦術(特に4―4―2システムへの固執)、すでに30歳を過ぎた「黄金世代」への依存、自国選手が4割に満たない国内トップリーグ(プレミアリーグ)の過剰な商業主義体質による若手台頭機会の激減などが、問題の中心である。(4)2014年ブラジル大会に向けて、これらの問題点を解決するために抜本的な改革が必要である―。膨大な量の記事であるが、基本的にはそのような「論調」を、さまざまな角度から実証しようとするような記事が、ドイツ戦惨敗翌日の紙面を埋めた。

◇5人の専属記者が主観的な論評展開◇

 トップ記事もそうだが、ガーディアンには試合内容の描写と批評とが入り混じったようなリポートが多く、1千語前後の同様の記事が3つもある。書き手は、同紙専属のスポーツ記者たちだ。署名記事であるのはもちろん、大部分が顔写真入りである。試合経過をより詳しく述べているものや、ドイツ側の長所を中心に分析したものなど、それぞれが独自の視点で試合をリポートし、多分に主観的な論評を展開している。内容が重複する部分もあるので、相互に調整すればもう少しスリムになるのではないかとも思うのだが、うがった見方をすれば、ベテラン記者の安定感のある記事を最初に置いて、そのあとに若手記者にもチャンスを与えているのかもしれない。こうした評論を中核として、一つの試合が、さまざまな角度から、いわば「丸裸」にされていく。

 記事の大部分は、5人の専属記者によって書かれていて、日本でしばしば見られる元サッカー選手・監督による記事は、一つを除いてない。唯一、元選手で戦評を書いているデヴィッド・プリートは、たしかに選手と監督を務めた経験を持つ人物だが、代表経験はなく、監督としてもほぼ無名。あくまで解説者として記事を書いているのである。この記事は、たとえばジェラードが左サイドに張りつき過ぎていたために、ルーニーが流れるべきスペースがつぶれていたことや、ドイツの「3人目の動き」がいかに優れていたかなど、得点シーンよりも、むしろ全体を通して鍵となった場面をいくつか取り上げ、具体的に図示しながら、何が問題だったのかを指摘している。

 「恥ずべき戦い5つの理由」と題する記事は、もう少し巨視的な観点からみた大会全体を通しての敗因分析である。(1)カペッロ監督の選手選考と采配、(2)エース、ルーニーの不調、(3)大会前に女性問題でキャプテンを辞し、大会中にも首脳陣批判騒動を起こしたジョン・テリー、(4)主力選手の相次ぐ故障、(5)過密日程と外国人頼みの国内リーグ。そして、それぞれについて解説が加えられている。

 試合内容の紹介も詳しい。ページ下段には、6ページ打ち抜きで、帯状に試合経過が時系列で記載されているし、出場全選手のレーティング(採点)も、イングランド選手だけでなく、ドイツ選手についても、各20~30語ほどの寸評とともに10点満点で示されている。

 数字がふんだんに盛り込まれていることも印象的だ。それは、たんに「記録」としてではなく、試合をより立体的に表現したり、問題に具体性を持たせたりするために用いられている。たとえばこの試合の不調ぶりは、以下のような数字によって示されている。90分間のうち、ルーニーがペナルティーエリア内でボールに触ったのは、たった1度だった。彼のパス成功率は55%で、両チームの90分間出場した選手のなかで最も低かった。ジェラードはスロベニア戦で61本のパスを送ったが、この試合では41本だった。ドイツ戦でイングランドがボールを奪うのに成功したタックル回数は14回で、それまでの全試合で最も少なかった。ロングパスの数は大会全試合で252本で、ドイツと比べるとあまりにも多い。大会通じて合計49本のシュートを打って3点しか取れず、その確率は6%である、などなど。

 同国のサッカー協会(FA)のあり方を批判した「イングランドフットボールの危機」という見出しの記事でも、数字が効果的に用いられている。記事は、今回の敗戦が、誤審や選手の不甲斐なさだけでは片づかない深刻な問題を露呈したとした上で、その原因を次のように言う。ドイツが1934年以来最も若いチームを送り込んできたのに対して、イングランドは同国のW杯史上最も平均年齢の高い代表チームだった。欧州サッカー連盟認定の最上級コーチのライセンス保持者は、スペイン、イタリア、ドイツ、フランスなどのライバル国では、2~3万人もいるのに対して、イングランドには3千人弱しかいない。プレミアリーグのイングランド人比率の少なさ。これらのことは、プレミア発足以降のFAの過度の商業主義(放映権・広告収入依存、試合数の増加)路線の帰結である。にもかかわらずFAは、ウェンブリースタジアムの改修工事費を少なくとも2014年まで毎年2000万ポンドずつ支払い続けなければならない状態にある。ドイツ協会とブンデスリーガのほうが、よほどバランスのとれた運営をしている。 

 サポーターのコメントも、なかなか辛辣だ。4・5面には、頭を抱えるイングランド人サポーターたちの写真が見開きで掲載され、怒り、落胆する彼らの様子と声が、現地と国内各地から伝えられている。「頭にきたし、不満だよ。頭にきたのは、ランパードのゴールが認められなかったことさ。でも、不満なのは、イングランドのユニフォームを着て、それにふさわしいプレーができない選手たちに対してだ。……だったらいっそベッカムを、あの気取ったスーツ姿のまま放り込んでやればよかったんだ」「家で8歳の息子と一緒に観てたんだけど、見てられなくて出てきたんだ。……毎週観に行っている近所のパブのチームのほうが、まだましなディフェンスをするよ」。

 同じ面にはベルリン特派員から、歓喜するドイツ人ファンの様子と声も伝えられている。「イングランドには、不思議な同情を感じるよ。特にあのゴールが認められなかったことにはね。でも、ドイツのプレーは本当に見事だった。ドイツ人であることを心から誇りに思うと言える、数少ない機会だね」。特派員は、さぞかし悔しかったことだろう。どの発言者も、職業と居住地域、名前が記載されている。

 ほかにもいくつかあるが、ガーディアンの1万6千語のなかの主な記事は、およそ以上のようなものである。試合経過も具体的に盛り込まれているが、評論的な記事が重要な位置を占めているのが特徴と言えそうだ。それは、時に容赦なく批判的であるが、その論旨は明確で、分析的である。また、論旨や主張を裏づける「なぜ、そう言えるのか」という部分が非常に厚い。

◇叙情的な表現が多い日本のサッカー報道◇

 では、朝日新聞の約2万4千字のなかには、どのようなことが書かれていたのだろうか。パラグアイ戦翌日の朝日新聞の記事は、おおむね以下のような内容から構成されている。(1)試合の描写、(2)選手や監督のインタビュー、(3)専門家(元選手や監督)の見方、(4)選手やその家族などのエピソード、(5)ファンの様子や声。きわめて大ざっぱで主観的な分類なのだが、日本戦に関する記事だけでこれらの割合を数えてみると、次のようになった。朝刊では、(1)40%、(2)0%、(3)5%、(4)24%、(5)30%。夕刊では(1)53%、(2)11%、(3)7%、(4)20%、(5)8%〈(2)は、インタビューのみで構成されている記事を指す。試合描写のなかにインタビューが織り交ぜられている記事は、(1)に含めた〉。

 こう見ると、日本の記事では試合の描写が半分くらいを占めているように思えるのだが、ここに一つの問題がある。(1)の試合描写に分類した記事の文中には、「叙情的」とでも呼べるような表現が非常に多いことである。選手や監督の声の直接引用もかなり含まれているが、それも、叙情的な効果を狙って用いられているように思える部分が少なくないのだ。

 いくつか例をあげてみよう。朝刊のトップ記事は、試合の概要を伝えたあと、次のように続く。「開始20秒。夕日を浴びながらMF大久保が放ったシュートは、猫だましのようなものだったか」。これに続いて、試合内容が描写されるのだが、記事の締めくくり部分も、次のような文である。「もう日は暮れていた。延長終了の笛が響いた。選手はひざを手につき、ピッチに大の字に倒れ込んだ。……かけがえのない120分間だった」。

 夕刊は情緒的なトーンがさらに顕著で、トップ記事はリード文以外には、ほとんどそのような文章で埋められている。

 「『チームを助けられなかった』と川島。怒ったような表情で夜空を見上げた。(中略)DF闘莉王がピッチ中央で肩を落とした。FW本田は額を芝にこすりつけた。その隣にいたゲームキャプテン長谷部が立ち上がり、手をたたいた。『PK戦は時の運。全力でやった結果。受け入れよう』」「(岡田監督は)自問自答しながら、そして何かをこらえるように表情を抑え、選手に手を差し伸べていく。肩を抱かれた遠藤の涙腺が決壊した。『サッカーで泣いたのは小学生、いや、高校生の時以来かな』。(中略)PKを外したDF駒野は最後まで立ち上がれなかった。同年代の松井が肩をたたいた。『オレがけっても外していたよ』」「(スタメンを外れた内田が)泣いた理由はこうだった。『ずっと最終ラインを組んできた中沢さんの涙を見たら、こらえきれなくなって……。みんなで一つになれた。もっと上にいきたかった』」

 そして記事はこう締めくくられる。「2010年6月の南アフリカを駆け抜けた日本は、そんなチームだった」。いったいどんなサッカーを展開したチームだったのか、私には分からない。

◇個人的エピソードはスポーツ報道なのか◇

 この傾向は、(2)の「選手や監督のインタビュー」、(5)の「ファンの様子や声」にも、色濃く影を落としているように思える。叙情的トーンは、基本的に紙面全体に漂っていて、それが、英国のサッカー報道にはまずなくて、日本のスポーツ記事には必ずと言ってよいほどある(4)の「選手やその家族などのエピソード」と、違和感なく地続きになっているような印象を受ける。

 (4)のエピソードに分類したもので典型的なのは、「PK失敗 駒野の母『よく頑張った』」である。一つ前の2006年ドイツ大会準々決勝で、イングランドはポルトガルにPK戦の末敗れた。選手たちは涙をみせたが、ガーディアンはそれを「メロドラマ」と切って捨て、監督が選手たちを落ち着かせるという重要な役割を果たせなかったことを見落とすな、と指摘した。PKへの言及は非常に少なく、記事の主要な部分を占めたのはもちろん試合内容の分析だった。

 朝日ではほかにも、本田の出身保育園の園児が彼の祖父にメッセージカードを渡したとか、長年日本代表を応援している男性が、自分の人生に代表チームのこれまでを重ね、試合後のスタジアムで感慨にふけったとか、結婚して南アに住む日本人女性がありがとうと涙ぐんだというような記事が、全体の2割ほどのスペースを占めている。

 試合描写だと見える記事でも、よく読むとほとんどがエピソードであるものもあった。「耐えた死闘120分松井、仕掛け続けた」という記事の大半は、松井のこの試合でのプレーについてというよりは、彼の苦労話である。後半は、記者がフランスで松井の車に同乗したときに聞いたという話で、彼のフランス観が書かれている。「死守 跳ね返した2本柱」は高校生で来日した闘莉王と、無名時代にブラジルに渡った中澤。2人の苦労人DFの絆の話。試合の描写に選手たちの言葉とエピソードがちりばめられ、ぼんやりとした叙情的な世界が展開されているというのが、全体としての印象である。

 このような特徴は、自国以外の試合記事にも見られた。英国の新聞が他国の試合に関しても、その内容を具体的に論評しているのに対して、たとえばアルゼンチン対メキシコ戦の記事は、次のようなものだ。見出しは「強気テベス豪快ミドル」。「アルゼンチンFWのテベスを見つ

けるのは簡単だ。長い後ろ髪をなびかせ、最も激しく走り回っている男。この日も豊富な運動量でゴールを狙い続け、ヘディングと豪快なミドルシュートで2点をたたきこんだ」。記事はこう始まるが、試合に直接関わる部分はここまでである。以後は、スラム育ちのテベスの生い立ちが紹介され、同じくスラム出身のマラドーナ監督が、「テベスは私の息子のようなもの」だと語ったことが述べられる。記事は「孝行息子は先制点を入れた後、『父親』の首筋に熱いキスをした」と結ばれている。小見出しには「銃に囲まれ育ったオレはびびらない」とある。

 本筋とはそれるが、日本の新聞には、選手の単純な戯画化や、あまりに露骨なジェンダー・バイアスと見える記事が散見されることも指摘しておきたい。

 前者で典型的なのはGKの川島だ。さきにも引用したように、悔しがる彼は「怒ったような表情で」空を見上げ、好セーブのあとは「大きくほえ」るのである。たとえば楢崎や川口と比較して、本当にGKは川島で良かったのか、といったような批評は、専門誌の領分として踏み込まないことになっているのだろうか。

 後者の典型は女性タレントを写真入りで起用しての「ジェラード 負けても王子様」という記事であろう。日本代表のユニフォームを着て笑う彼女が、スティーブン・ジェラードのことが好きなのはかまわない。だが、記事のなかで、幼稚園でサッカーと出会い、サッカースクールに通い、小学生でも続けていたと言っている彼女は、それでもこう言うのである。「4年前のドイツ大会で見て『この人かっこいいじゃん』って。私の王子様。容姿が好きなんです。こうやってサッカーに興味を持っていくのも女性なら、ありでしょ」。

 他の新聞も読んでみたが、朝日に見られた傾向は、おおむね他紙にもあてはまると言っていいように思う。

◇コンテクストでスポーツを語る◇

 かなり長々とした紹介になってしまったが、以上が、日英それぞれの代表チーム敗退翌日の新聞報道の一端である。W杯の自国代表戦は、日英ともに地上波放送されるから、試合そのものは大部分の人がライブ映像で観ている。だから、翌朝か翌々朝に出される新聞の記事は、試合内容そのものの再現だけでなく、映像での観戦経験を補完するような情報も大いに求められるだろう。かりに一つの試合を1冊のテクストに喩えるなら、新聞は、すでにテクストそのものを読み終わった読者に対して、情報を提供するわけである。その点は、英国でも同じだ。

 それでは、スポーツというテクストは、新聞のどのような情報によって補完されるのか。ここからが、日英の姿勢が、大きく分かれるところであるように思われる。これまで見てきたように、英国の報道は、試合自体の描写と、試合というテクストを読み解くための「コンテクスト」の解説を中心にして構成されている。試合のプロセスそのものが言語で表現され、それが持つ文脈や意味が、さまざまな角度から重層的に分析・解説される。分析や解説は、一つ一つの試合が持つ「価値」に対する、報道する側の評価や立場の表明でもある。

 ではなぜ、英国ではスポーツに関して、新聞にそのような分厚い言語空間が成立し得ているのだろうか。一つは、冒頭でも触れたように、長い歴史のなかで積み重ねられてきた、言語によってサッカーを「伝え、伝えられる」文化が、人びとの日常生活のなかに、厳然と生きているからだと思われる。日本において野球や相撲が形成してきたような言語空間が、英国ではサッカーにおいて、いまなお成立しているのである。

 だが、もう一つ重要なことがある。英国では、スポーツを楽しむということが、文学や音楽や映画や絵画と同じように、人間の高度な営みとしての「技芸(アート)」を楽しむこととしてとらえられている。だからこそスポーツは、文学批評や芸術批評と同じように、真摯な批評の対象となりうるのである。であれば、問題なのはまずなによりも作品(テクスト)そのもののクオリティなのであって、それを書いた作家や演じた俳優が「人間としてどのような人なのか」「どのようなことを思っていたのか」などは、さしあたり重要な問題にはならない。スポーツ選手や監督もまた、他人には真似のできない高度で専門的技芸(アート)を持った技芸家(アーティスト)であるはずだ。だとすれば、その彼らに対して容赦のない専門的批評を加えることは、彼らに対する一種の敬意の表現であり、そのことがスポーツを「楽しむ」、あるいは「味わう」ことの一部だということになる。

◇脆弱化するスポーツ報道~言語化への格闘が不可欠◇

 では、日本はどうか。もちろん日本のスポーツ報道にも、これまでに優れた描写や分析は数多くある。しかし、近年とても感じることは、そのような「スポーツそのもの」について描写したり、論じたりした記事が、減ってきたような印象を受けることである。代わって、南ア大会の敗退報道にもあらわれていたように、選手の「内面」や「人間としてのアスリート」に焦点あて、ドラマ風に仕立てたものが、そこらじゅうに目につくようになった。たしかに、そのような物語化によって、「感動」や「勇気」を抽出する技術を定型化すれば、場合によっては試合そのものを見ずにすら、記事は書けるかもしれない。しかし、そのような安易な叙情化に流れることは、スポーツそれ自体について語る言葉を、脆弱化させていくだろう。それは思うに、スポーツ報道の堕落である。スポーツの試合は、実際にはテレビ中継されないものがほとんどである。活字によるスポーツ報道の醍醐味は、テレビ時代になってもなお、たとえばたった数行でスポーツそのものを活写し、それについて冷めた目で論じることにあるべきなのではないだろうか。

 冒頭でも紹介したように、英国のサッカー報道は、新聞とラジオという、言語のみを武器とするメディアによる長い時代を経ることによってその基盤が形成された。そしてこんにちでも、それがサッカー報道を底辺で支えることによって、プレーそのものを語り、プレーそのものを論じる言語世界を、かたくなに守っているように見える。

 それはわが国でも、野球や相撲において、行われてきたはずのことなのである。他方、テレビ中継があたり前の時代になってから急激に人気を得たサッカーの報道に、サッカーそれ自体を語る言葉よりも、叙情的な物語的表現のほうが多いことは、それを読者が望んでいるからであるというよりも、日本において、サッカーという「技芸(アート)」を言語化する努力の積み重ねが、いまだ浅いことを示しているのではないだろうか。そのような報道姿勢が、せっかく築き上げられてきた野球や相撲の固有の言語域をも、侵犯しはじめているように思えるのが、杞憂であればよいのだが。

 繰り返しになるが、スポーツという事象を言語によって切り取り、共有するという作業は、きわめて高度で、困難な営みである。それは、長い時間と労力を費やして、育まれ、鍛えられ、磨かれなければ可能にならない。だからこそ、選手たちがピッチのうえで日々格闘しているように、それを伝える側も、「サッカーそのもの」を言語化する格闘を、飽くことなく積み重ねていってほしいと思うのである。