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【「Journalism」11月号から】特集 紛争地のジャーナリスト 山本美香さんが伝えたかったこと

 朝日新聞が発行するメディア研究誌「Journalism」11月号の特集は「紛争地のジャーナリスト」です。WEBRONZAではこの中から、今年8月にシリアで取材中に亡くなった山本美香さんによる早稲田大学政経学部・朝日新聞提携講座「メディアの世界」での講議をご紹介します。なお、「Journalism」は、全国の書店、ASAで、注文によって販売しています。1冊700円、年間購読7700円(送料込み、朝日新聞出版03-5540-7793に直接申し込み)です。11月号は11月10日発売です。

 電子版は富士山マガジンサービス(http://www.fujisan.co.jp/magazine/1281682999)で年間購読が1200円(定価の86%オフ)でお読みいただけます。

詳しくは、朝日新聞ジャーナリスト学校のサイト(http://www.asahi.com/shimbun/jschool/)をご参照ください。

特集 紛争地のジャーナリスト

ジャーナリストをめざす人たちへ 山本美香さんが伝えたかったこと

早稲田大学政経学部・朝日新聞提携講座「メディアの世界」講議録から

 この8月、シリアで非業の死を遂げた山本美香さん。彼女は紛争地を舞台に活動するジャーナリストの一人だった。何が彼女を動かし、何が目線の向こうにあったのだろう。早稲田大学政経学部と朝日新聞が提携、毎年学生向けに開いているジャーナリズム講座から彼女の講義を再録した。 (「Journalism」編集部)

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学生たちにジャーナリストになったきっかけや海外での取材体験などを語る山本美香さん。近年は、大学などでの講義や講演にも力を入れていた(写真は2011年11月26日、東京・中央区築地の朝日新聞東京本社で。佐久間泰雄撮影)

 皆さん、こんにちは。ジャパンプレスの山本です。

 今、簡単にご紹介いただきましたが、私のプロフィールについて、もう少し触れたいと思います。

 私の仕事、職業はジャーナリスト。ビデオジャーナリストとも呼ばれたりしています。世界中の紛争地を主な取材現場にして活動しています。ビデオだけでなく、写真も撮ります、原稿も書きます。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、書籍など、さまざまな分野で取材したことを発表していく、ある程度マルチなことができることを目標にして活動してきました。

 90年に大学を卒業、朝日ニュースター(CS放送局)の報道記者として出発しました。ニュース番組や子供向けのニュース番組をつくったり、自分でカメラを持って取材したりといったことを続けていたんですが、95年にフリーランスになりました。

 紛争地を主に取材するジャーナリストと言いましたが、東日本大震災が起きたときは、私も取材に行きました。都内の事務所にいたのですが、揺れましたよね。これはおかしいと外に出たら、景色がゆがむような揺れ方をしていた。経験したことのないような揺れでした。

東日本大震災と私 社会部記者の感覚で動く

 このとき、すぐに取材に行かなければと、三陸沿岸部へ向かいました。国道45号線が三陸を走っているのですが、随所で寸断されている。そこを迂回しながら、取材を続けていきました。仙台を拠点に北上して行ったのですが、本当にこんな景色、今まで見たことがないというような惨状が広がっていました。

 何で海外じゃなくて日本なのと思われた人もいるかもしれません。私にとっては、大震災を取材することは、ごく自然な成り行きだったと思っています。フリーランスですが、常に新聞社やテレビ局の社会部の記者という感覚で仕事をしているのですね。

 国際情勢も、世界のニュースの中の社会部記事だと考えて、紛争地だったり災害の現場だったり、さまざまなところに行くわけです。そういった感覚から言うと、東日本大震災が起き、いったい日本はどうなっちゃったのだろう、と世界が注目している─世界の中の日本という意味でも、世界の災害報道という意味でも、自然な成り行きのまま現地に向かったという状況ですね。

 行ってみて、これだけ発展し都市網が進んだ国でも、大災害が起きると、こんなに悲惨な状況になってしまうのか、戦争で空爆を受けた村や町とはまた違った光景が広がっていて、愕然としました。

三陸沿岸で感じたこと テレビの限界と可能性

 先に、マルチな仕事をしていると話しましたが、メインにしているのはテレビの仕事です。

 テレビの仕事について言えば、東日本大震災の取材は、二つのことを考える機会になったと思っています。一つは、テレビの仕事の限界、もう一つはテレビの可能性です。

 最初、現場に向かったときは、テレビ番組の企画が通ってとか、雑誌と契約して行ったとかではありません。とにかく行こうと現場に入ったのです。結果的には、日本テレビで放送することができたので、取材に応じてくれた人たちの気持ちを伝えることができてよかったなと思っています。

 テレビに限界があるとしたら何だろうと考えたと言いましたが、その一つがどうしたらにおいを伝えることができるか。被災地はものすごいにおいなんです。魚の腐ったにおい、潮のにおい、石油、ガス、何かが腐ったにおい。遺体のにおいもある。とにかくにおいがものすごい。これをどうやって表現していくか、すごく難しいなと思いました。

 死臭がする─。では、「死臭がする」とレポートの中で言うべきかどうか。いや、これはちょっと衝撃的すぎるから言わないと決めるのか。では、「遺体のにおいがします」と言いかえるのか、さらには全くそのことには触れないで、「すごく凄惨な状況です」と現場の様子をレポートするのか。

 言葉って、ものすごい影響力を持っていますよね、特にテレビは。その一瞬一瞬で持つ映像と言葉の力はとっても強い。そのときに、やはり死臭がするという言葉を使うのか使わないのかということを、よく吟味しなければいけないと思ったのです。

 例えば、遺体が見つかったと言うとき、どう放送するのか、あるいは写真を出すのかということも、大きなジャーナリズムの課題です。そう考えたときに、遺体を映すことはどうなのか。遺体にも尊厳がある、プライバシーがある、人権がある。一方で、遺族の人たちの感情もある。もう一つ、見た人たちに与えるインパクトも強い。そういったものをどうやって受けとめ、乗り越えていくのか、本当にもう、とても大きなテーマだなと思っています。

 ただ、私がなぜ、このことにこだわったかというと、こういう言葉は使わないほうがいいとか、こういうものは見せないほうがいいとあらかじめ決めてしまって、全く触れないでいく、表現しないでいく、なかったものにするというのは、やはり違うんじゃないかと思っているからです。

 私は先にも言ったように、遺体やにおいのことを表現するときに、何が何でも真実だからいいんだと見せるつもりは全くないのです。反対に、これは無理だよ、だめだよと言って、最初から見せない、言わないようにするのも、ジャーナリズムとしてはある種の思考停止だと思っています。皆さん、もし、記者になって、こういう現場に立ったときに、この言葉は使わないほうがいいよねじゃなく、言葉で表現するときには、どうしたらいいのだろうということを考えてほしいなと思っています。

取材に来てくれてありがとう、と言われて

 テレビの難しさについてもう一つ言いますと、被災地の人たちはテレビを見ていないのですね、停電しちゃっているから。一番情報が欲しいと思っている人たちが、情報を得ることができない。その話を聞いたとき、テレビって何だろうと思いました。見てもらえないのですから。じゃあ、取材をやめるのかというと、そうじゃない。とにかく今起きていることを記録しておく、積み重ねていくことがやはり重要ですよね。記録しておけば必要なときに出せる。あるいは後々それを振り返ることもできるわけですから。

 被災地の人から、僕たち、テレビを見ることができないんです、私たち、実は見ていないのという話を聞いているときに、ある人がこんなことを言ったんです。

 牡鹿半島(宮城県)という、入り江がいっぱいあって、大震災のとき、一時期ものすごく孤立していた地域があります。そこに行ったときに、いやあ、よかった、取材に来てもらってと言われた。大震災が起きて電気が消えた、携帯も通じない、もちろん固定電話もだめ。途中からツイッターが発信され、ラジオも聞くことができるようになったけれど、初期の段階では、全く情報が入らなくて本当に怖かったと。大げさな話ではなく、もしかして、生きているのは自分たち、この周りの人たちだけで、それ以外の人たちは皆いなくなって、世界が終わってしまったんじゃないかと思ったと言うのです。そうこうするうちに、ヘリコプターの音が聞こえ、自衛隊の人たちが瓦礫をかき分けながら到着し、救援の人たちもメディアの人たちもやってきて、よかったと思ったと。

 この「よかった」という言葉を、実はよく聞くんです、日本じゃなくて、海外で。紛争地域とか戦場はものすごく辺鄙な地域にあることが多く、しかも、戦闘が激しいので、孤立し、なかなか入れない所が多い。何とかして入って取材をすると、そこの人たちが、同じように、もう忘れ去られていたと思っていたので、来てくれてありがとうと言うんですよね。だけど、同じ言葉を、日本の中で聞くことになろうとは予想もしていなかった。だから、さまざまな限界はあるけれど、メディアの役割は大きいな、責任重大だなと感じました。

転機となった雲仙普賢岳の噴火取材

 CSの放送局に入社、報道の記者として働いていた私の転機となったのが、91年に起きた長崎の雲仙普賢岳の噴火、200年の眠りから覚めたと言われた噴火です。取材を担当しろということで、入社1年目の新人だったのですが、現地に行くことになりました。

 当時は、ビデオジャーナリズムという言葉もまだ知られていない時代で、小型のビデオを持って、取材者が単身、取材現場に向かう。私の所属していた朝日ニュースターは日本では初めて小型のビデオによる単身取材を導入した会社だったんですね。とにかくカメラを持って、行け、と。その後、この経験が大きな転機になったと思っています。

 今回の大震災でもわかるように、災害の現場というのは、本当にいつ終わるとも知れない、避難している人たちも、精神的にもぴりぴりしていますし、不安も募っています。そういった所に、どんどん入ってカメラを向けていく。私が行ったのは、災害が起きて1カ月後くらいだったのですが、被災した住民と報道陣の間がものすごく険悪な状況になっていた。体育館の玄関に、「取材、お断りします」と紙が張られている。ああ、これは参ったな、どうしよう。新人ですし、できませんなんて言えないし、困ったな。

 そのとき、何で、被災者、避難所の人たちはあんなに嫌がっているのだろう、何がいけないんだろうと、カメラを回さずに、聞いていったんです。すると、ずっとフラッシュを浴びているのは疲れるし、気が休まらない。照明ばかりたかれて嫌だ、と。本当につらい思いをしている、もっとわれわれのことを考えてくれよと、言われたんです。

 そこで、被災者たちの気持ちを酌んだ上で、どうすれば取材ができるか。取材しないのではなくて、どうやったら彼らの不安、ぶつけどころのない怒り、そういったものを伝えることができるのだろうと考え始めた。そのうち、避難所の人たちを説得して、とにかく邪魔にならないように撮影するからと言って、体育館に泊まり込んで、彼らが寝たり起きたり、集団生活で着替えるのに困ったり、歯を磨くのに水がなかったり、といった生活をレポートすることができた。誰の立場に立って取材するのかということを考える上で、大きな経験になったと思っています。

総務部へ人事異動 自問自答して退社決意

 その後、配置転換があって、総務部に異動になったんです。入社5年目のときです。仕事も面白くなってきて、これからばりばりやるぞと思っていたときに、異動になった。すぐに現場に戻すからと言われたのですが、現場に行けないということが自分の中でだんだん折り合いがつかなくなっていった。

 ちょうどその頃に、阪神・淡路大震災が起きた。95年1月17日ですね。私は取材に行く、行けるものだと思っていたら、後方支援をするように、と。順番が来れば行くかもしれないが、異動したばかりだし、と言われた。

 その時に、あれ、私、何のために会社に入ったんだっけ、何のためにこの仕事を始めたんだっけ。考える時間はいっぱいありますから、すごく考えた。考えて考えて、ああ、私は現場が本当に好きなんだ、現場に出たい、そういう思いが募っていき、会社をやめ、フリーランスになったんです。

 当時は、今よりもう少し景気もよくて、不安もあったけど、何とかなるかなという気持ちもうっすらあったりして。また、今やめなかったらきっと後悔するんじゃないかという思いもよぎって、思い切って会社をやめました。

 やめてよかったなとは思っていますが、やはりフリーランスって厳しいですよね。やりたいことをやるんだから苦にならないさと思ってやめましたが、やっぱり大変ですよね。

 何が大変って、まず肩書。どこどこの何々ですと言って通っていた取材が、二歩も三歩も後ろに行っちゃうわけです。どちら様ですか、何をしている人ですか、どんなことを今までしてきたのですかって、もう面接のとき以来の緊張感の連続で。取材したいことがいっぱいあるのに、現場に行っても、相手にしてもらえない。ああ、そうか、自分の力で立って一からやっていくって厳しいんだな、とつくづく感じました。でも、その中で経験を積んでいくことはきっと力になるんじゃないかという漠然とした思いも、強がりかもしれないんですが、持ちながら、フリーランスでの活動を始めたんです。

命がけで取材するフリーの仕事に衝撃

 会社をやめて少したってフリーランスの独立組織「アジアプレス・インターナショナル」に所属したんです。そこで、私って、ああやっぱり勉強不足だなと思ったのと同時に、世界はこんなにも広がっているのかというわくわくするような気持ちにもなったんです。それは何かというと、アジアプレスには、ジャーナリストやジャーナリストをめざすアジアの若い人が集まっていたんです。彼らの熱意がものすごい。特にタブーになっているようなテーマを命がけで取材している人たちがたくさんいた。

 日本には、言論の自由と報道の自由があるじゃないですか、それすらない国の人たちが命がけで、このテーマをやるんだ、社会の問題を浮き彫りにするんだと言って、取材をしたり映像に記録したりしている。その姿を見たときに、すごいなって、ものすごい刺激を受けました。私は狭い世界に生きていたんだなと、目が開かれる思いでした。

 報道するためには、記録してきたものを構成して、例えばドキュメンタリーやニュース番組という形に編集しなければならない。でも、せっかくいいものを取材してきても、編集作業が苦手な人が多かった。そこで、私はディレクターとしての役目を担うことになりました。前の会社で、撮影から編集まで全部やっていたから、それを使える場が出てきた。外国のジャーナリストたちが撮影したものを作品に仕上げていくサポート役ですよね、最初は主にそういった仕事をしていました。

 そうは言っても、私自身は現場に行きたいわけですよね。誰かのディレクションをし、作品に仕上げていく作業は面白いし、やりがいがある。でも、フリーランスになったからには、自分のやりたいことをやるんだ、そのために会社だってやめたんだからという強い思いがあって、それを実現しようと思いました。

「サラエボの冬」に感動 ビデオジャーナリストに

 海外のジャーナリストの作品だけじゃなくて、日本をテーマに取材している人、あるいは海外の紛争地を取材している日本のジャーナリストの作品にたくさん出会いました。その中で一番衝撃と刺激を受けたのが、ボスニア紛争を取材した「サラエボの冬─戦火の群像を記録する」というNHK-BSの2時間のドキュメンタリー(94年3月6日放送)です。

 この作品をつくったのが、ジャーナリストの佐藤和孝氏で、ボスニア紛争の真っ只中、小型ビデオカメラを持って、戦場の最前線だけではなく市民の生活にも入っていき、普通の人たちがどう戦争に翻弄されていくのかを描いている。

 いまでこそ、小型ビデオで撮影することが当たり前になっていますが、当時は、ビデオジャーナリズムが始まったばかりで、試行錯誤を繰り返しているときだった。そんなときに、こんなすばらしい作品をつくっている人がいるということを知って大きな刺激を受けました。

 この放送ではもう一つ大きな動きがあったんです。フリーランスのクレジット(名前)で放送されたからです。それまでは、海外の事件、事故、紛争などでは、テレビ局の特派員が現地に行って、レポートしたり、特派員が取材したものを作品として見せたりするということが一般的だったんですね。そういった中で、ボスニア紛争の現実にここまで肉薄した映像はないと、フリーランスが取材した記録がNHKで流された。これは、ものすごく画期的なことだった。それ以降、フリーランスのジャーナリストが作品の放映だけでなく、スタジオに出演する、VTRの中でも、現場を歩く様子を映しながらドキュメンタリーをつくるようになったんです。

 技術の進歩で、取材する私たちも、放送するテレビ局も変わっていく─そういう時代だったんですね。テレビクルーが、テレビカメラマン、照明さん、音声、ディレクターといった取材班を組んで、さまざまなテーマをみんなで手分けをして番組をつくる。それはそれで、すばらしい作品ができると思っています。

 それと違って、1人、あるいは2人といった小さなチームで、どんどん現場に入っていく。そういう取材を可能にしたのがビデオジャーナリズムだと思っています。私は、本当にこれにはまりました。こんな画期的な方法があるのかということで、大きな目標ができた。

空爆下のバグダッドで取材を続けた私たち

 ここで、一つDVDを見ていただきたいと思います。03年のイラク戦争の報道をまとめたものです。ジャーナリズムを考える上で参考になるんじゃないかなと思って、ダイジェスト版に編集しました。戦争を取材する私たちが、どんな活動を現場でしているのか、裏側の部分も含めて映像の中に入れ込みましたので、見てもらいたいなと思います。

取材中の山本美香さん=2004年、イラク情報省前

 2003年3月20日、イラクで戦争が始まりました。当時、私の所属するジャパンプレスは、佐藤和孝と私が空爆下のバグダッドで、同時に、イラク北部のクルド人地域でも仲間が取材に当たっていました。多角的な視点が絶対必要になるということで、二手に分かれて取材していたのです。

 イラク戦争では、米軍の従軍取材システム「エンベッド(部隊と寝食を共にしながら取材をすること)」が本格的に復活しました。私も、従軍取材は取材方法として選択肢の一つだと思っています。でも、従軍すると、一方の側からしか取材ができなくなってしまう。それで、従軍を選ばず、バグダッドに残ることにした。ただ、イラク戦争では、日本のメディア、マスコミが、開戦すると同時にバグダッドから撤収し、空爆下のバグダッドで取材を続けたのはフリーランスだけになった、これは日本のジャーナリズムを考える上で一つの課題というか、注目すべきことだったと思っています。

 映像は、私と佐藤が撮影し、私が映っているところは佐藤が、佐藤が映っているところは私がという感じで、全部2人で取材しました。本当に長い取材、いつ終わるかもわからない。この先どうなるんだろうか、という思いで取材していた。DVDはその記録でもあります。

最初に行った紛争地はアフガニスタン

 話は戻りますが、フリーランスになって最初に紛争地に行ったのは96年9月、アフガニスタンです。動機は、謎の集団「タリバン」の実態を知りたい。今でこそタリバンというと、イスラム原理主義という言葉を思い浮かべる人が多いですが、当時は謎の集団と言われていたんです。一体どんな人たちで、何をやっているのかもわからない状況でした。そのうち、謎の集団タリバンが、アフガニスタンで恐怖政治を布いていて、人々が苦しめられているということがわかってきました。

 また、タリバンは、イスラムの教えを厳しく守っている人たちだったから、女性たちの人権を侵害しているんじゃないかという情報が入ってきた。本当のところはわからないわけです。それは主に欧米からのニュースだったりするから。そこで、実際に見てみなきゃと思って、アフガニスタンに行くことにしました。

 イスラムの女性たちの本音を聞きたいという思いもありました。ブルカってご存じですね。頭の先から足のところまでかぶる大きなコートみたいなものですね。女性たちがかぶっているブルカを見たときに、何でこんなことになってしまったんだろうかという衝撃と同時に興味を持ったことが一つ。同時に、最前線と言われる場所はどういう状況なのか、砲弾が飛び交うというのはどういう状況なのか、またそういう状況で暮らす人たちは、どんな生活をしているのか。それを知りたいという思いもありました。

 そうは言っても、何が起きるかわからない。国境だって一回入ってしまったら、いつ出られるかわからない。一回でだめになっちゃうかもしれないというような思いを持ちながら現場に入りました。

 実際、現場で取材してみると、タリバンが学校も禁止、就職も禁止、それから外出も禁止ということで、すごく厳しかった。でも、意外にも、そんな中で女性たちが自分たちだけで秘密の学校を開いていた。その学校を取材したことが、私の今につながっていると思っています。

 当時、タリバンは処刑もしていたし、厳罰主義を守っていた。禁止されていることを現地の人たちがやったら、どういうことになるのか。さらに、外国人が現地の人たちに接触することも禁止されていた。カメラ撮影も、インタビューも、ビデオ撮影も禁止。もし、彼女たちに私が接触すると、接触したということだけで彼女たちは罪になるわけです。その上、開いているのが禁止されている学校で、しかも勉強をしている。学校と勉強、禁止のダブルですよね。連座制ということもあるから、彼女たちだけではなく、家族や親族、みんな罪をかぶることになる。

凛とした女性たちに震えるほど衝撃受けた

 この取材で、何が私のその後に大きな影響を与えたかと言いますと、彼女たちに、ようやく取材することができて話を聞いたときに、ものすごく生き生きとして、堂々としていた。20歳前後の大学生なんですが、勉強が楽しいと凛りんとした姿で言うわけです。それと同時に、アフガニスタンは長い間戦争をしているから、本当に疲弊しているんですとも。でも、いつか戦争が終わったときに、私たちが、何も知らないままだったら、きっと国はつくれない。だったら、そのときに備えて、弁護士になり教師になりたいという思いで勉強していたわけです。

 何か言葉にすると、さらりとした話になるんですが、すごいなと思って。これを日本で放送しますが、大丈夫ですかと聞いた。そのとき、彼女たちが言った言葉が忘れられない。私たちがここにいることを、世界中の誰もが知らない。取材してくれてありがとう。私たちがここで生きていることを世の中の人たちに伝えてくださいと言うわけですよ。

 そういう気合いというのかな。もう震えちゃうほど衝撃を受けた。こういう人たちがいるんだ。こういう人たちが生きて、あるいはあっけなく死んでいくんだ。

 彼女たちに接して、よかったと思うと同時に大変だなと思った。彼女たちは、この言葉を伝えてくれますよねって、私の肩に重いものを載せたわけです。何としても日本に帰って、このことを公の場に出していかなきゃいけない。感動すると同時に、ずしんと重くて、責任重大だなと思った。

 後に放送することができ、ほんの少し責任を果たすことができた。それと同時に、謎に包まれた世界のことを世界に知らしめることができたということは、やりがいがあることだなと思った。

 タリバンというのも、言われていたほど過激な人たちばかりではないんですね。過激な人たちは上層部の一部で、普通の農家出身のおじさんだったりお兄ちゃんだったりするわけですよ。そういう人たちが、戦わなければ食っていけない。あるいは、タリバンに従わなければ殺されちゃうということで、渋々従っている。だから、謎に包まれたと言っても、知らなかったから謎だっただけで、現場に行って見てみないと、わからないことがたくさんあるなと思いました。

9・11同時多発テロ発生 アフガン空爆と現場中継

 その後、コソボ、チェチェン、ウガンダ、イラクなど紛争地を取材しながら、アフガニスタンには、何度も通い続けています。

 2001年9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が起きたときも、アフガニスタンにいました。アフガンが大変なことになるなと直感した。10月上旬、アフガニスタンにオサマ・ビンラディンが潜伏している、かくまわれているという理由で、アメリカは報復攻撃を開始した。アフガン空爆です。3カ月間ずっと現地にとどまり、取材をした。このとき、簡易中継機材といって、コンパクト化された通信機材を使って、最前線から中継できるようになった。ビデオジャーナリズムの出現に次ぐ、画期的な技術の革新ですね。連日、現場からリアルタイムで日本に中継することができました。

 技術の進歩と、フリーランスの活動の場の広がりはリンクしている。今もそうだと思うんですが、技術革新があったからこそ、フリーランスの活動の場が広がっていったというメディアの流れも、覚えておいてほしいなと思います。

 中東の民主化革命では、ツイッターを使ってリアルタイムで情報が発信されました。その速報性、臨場感というのはすばらしいものだと思います。でも、同時に流されたものを確認する労を惜しんじゃいけない。あるいは、今起きていることが一体何につながっているのか。その背景は何なのか、探っていくことも重要な仕事だと思っています。

 この作業は新聞など活字の世界は長けているなと思う。このアナログ的な動きなくしては、ジャーナリズム、報道は立ち行かなくなる。技術の発達、発展に依存して、今この瞬間に流れていくことだけに身を委ねるのではなく、それをも利用しつつ、何が問題なのか、今、ここで何をしなきゃいけないのか考えていく。時間はかかっても、時間をかけながら新聞は調査をずっとしているわけですよね。そういう手間なり労なり、お金をかけることを惜しんでは、真実に近づくことはできない。それを忘れないように、失わないようにしていきたいなと思いながら、取材を続けています。

「危険だから行かない」 フリーにはない選択

 最後に、先にイラク戦争のとき、開戦と同時に日本のメディアは撤収し、フリーランスだけが残ったと話しました。会社というのは、社員を守る方向に動くということで、これは大きな課題だと思うんですが、決して記者たちが行きたくなかったわけじゃなくて、新聞社やテレビ局に所属していた人たちの中にも、行きたいと言っていた人たちはいっぱいいるわけです。行きたいが、会社をやめるのかやめないのかという選択を迫られると、それぞれ抱えているものが違うので、簡単に答えは出せないと思っています。

 ただ、フリーランスとして言えば、危険だから行かないという理由は私の中にはなくて、危険なら、その状況をどうやって軽減することができるのかをまず考える。防弾チョッキをつけるとか、取材態勢はどうするのかとか、お金はどうするのかとか、陸路で行ったら危ないから飛行機にするかとか、細かな話ですけれども、そうやって自分で身を守っていく。そこで戦争が起きているわけですから、基本的にはなんとかして取材をすることが第一の役目だなと思っています。

 それと、先にも言いましたが、従軍取材を否定しているわけではないことも覚えておいてほしい。でも、イラク戦争では従軍しなかった。今日は米軍側に行って、明日はイラク側でと、行ったり来たりはできないわけですよ。そういう中で、戦争の正当性が問われている戦争だったので、これは、その正当性を追及する意味も含めて、バグダッドに残って取材することに迷いは全くなかった。

(2011年6月1日収録)

山本美香さん(1967~2012)

1967年5月26日

帯広市に生まれ、山梨県都留市で育つ

1990年

都留文科大学文学部卒業。同年、朝日ニュースター(CS放送局)入社、報道記者として雲仙普賢岳など取材

1995年

フリーランスとなり、アジアプレス所属

後に、独立系通信社ジャパンプレスに所属

1996年

初めてタリバン支配下のアフガニスタンを取材

2001年

アフガンで取材中、9・11米同時多発テロ事件発生

アフガン空爆下で、カブール陥落を取材

2003年

イラク戦争勃発、空爆下のバグダッドで取材

日本テレビ「きょうの出来事」キャスター(2004年まで)。

イラク戦争取材で佐藤和孝氏とともにボーン・上田記念

国際記者賞特別賞受賞

2012年8月20日 シリアのアレッポで内戦取材中、シリア政府軍の砲撃を受けて死亡(享年45)

著書に、『ぼくの村は戦場だった』(マガジンハウス、2006年)、

『戦争を取材する 子どもたちは何を体験したのか』(講談社、2011年)など

講義の後で Any question?

一番怖いのは無政府状態のとき

 ─―女性ジャーナリストとして、難しさを感じたことがあったら教えてください。また、可能性についても。

 やはり女性ですから、戦場を取材するんだと意気込んで行ったとしても、相手から見れば女性は女性なんですよね。自分は不死身ではないし、襲われちゃうときは襲われちゃうわけです。そういう危険性は常にある。だから日本とは違う。戦場では、自分の身を守るためにどうしたらいいのかということはものすごく考えます。

 それと、一番怖いのは、無政府状態のときなんです。無秩序になっている。フセイン政権が崩壊した直後の略奪のころは何でもありですよね。取り締まる人がいないわけですから。そういったときに、私ひとり消えても別にわからない。だから、全くひとりで行動することはしないですね。それは鉄則だなと思っています。

 可能性というのは、先ほどのイスラムの女性の話だけではありませんが、戦争を取材しているときは、女性だと、男性の兵舎に入って寝泊まりしている様子も取材できるし、女性兵士だって取材できる。あるいは、イスラムの女性たちの生活にしても、日常生活に入っていくことができる。そういう意味では、女性であることはそんなに悪いことでもないかなと。確かに、体力もそんなにないし、荷物も重い、危険はあるかもしれないけど、いいこともたくさんあるんじゃないかなと思っています。