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ジャーナリズムの将来をウェブにかける

講談社現代ビジネスの挑戦

瀬尾 傑 講談社第一事業戦略部長兼「現代ビジネス」GM(ゼネラルマネジャー)

 今年4月、講談社は70年ぶりともいわれる大規模な組織改革を行った。27局を12局に再編成し、編集、広告、販売という3事業制を廃止。これまでの「編集局」をあらためて「事業局」に再編した。そのときに生まれたのが、私が担当する「第一事業戦略部」である。

 第一事業戦略部は、ひとことでいえばニュースやジャーナリズム、ノンフィクションを中心に、新しいメディア、そしてビジネスモデルを実現しようという部署である。具体的には、大きく三つの役割を担っている。

 ひとつは、「週刊現代」「FRIDAY」「クーリエ・ジャポン」といったニュース系の雑誌のデジタル化だ。

図1 デジタルサッカーメディア「ゲキサカ」のトップページ図1 デジタルサッカーメディア「ゲキサカ」のトップページ
図2 Webメディア「現代ビジネス」のトップページ図2 Webメディア「現代ビジネス」のトップページ


 もうひとつは、月間1億ページビュー(PV)を超えるデジタルサッカーメディア「ゲキサカ」(図1)、動画を核にした男性向けのファッション・デジタルビデオマガジン「フォルツァスタイル」、そしてビジネスパーソン向けのWebメディア「現代ビジネス」(図2)といったデジタルメディアを開発運営すること。

 そして、三つめは、新しいメディア、サービスの開発である。

 この組織変更にあわせて、6月1日、創刊以来、私が務めてきた現代ビジネスの編集長に川治豊成が就任し、私は現代ビジネスGM(ゼネラルマネジャー)となった。

 現代ビジネスは、週刊現代編集部の副編集長だった私が、「新しい時代のジャーナリズムメディア」の創設を会社に提案し、2010年1月、ベータ版(試用版)を立ち上げた。同年7月に正式にスタートしてから、まもなく丸5年を迎え、新編集長の下、新しいステージに入る。

 そこで、この機会に創刊からの経緯と、それを踏まえて、デジタルにおけるジャーナリズムの可能性をまとめておきたい。

 そもそも、現代ビジネスを企画したのは、このままでは雑誌が支えてきたノンフィクションやジャーナリズムが尻すぼみになってしまうのではないか、という危機感からだった。

日本の調査報道を支えてきた雑誌

 もともと私自身が、調査報道やノンフィクションを手がけてみたいという思いで、出版社に就職した。生意気にも「最初は会社で記者として働く力をつけ、いずれ書き手として独立したい」などと考えていた。

 そのためには、若いうちに原稿を数多く書かせてくれる、そして専門知識が身につけられる会社がいい。そう思って1988年、当時は珍しく社員記者による署名原稿を中心にしていた日経マグロウヒル社(現日経BP社)に入社した。

 その日経マグロウヒル社では、入社直後に衝撃的な体験をした。同社は、もともと日本経済新聞社 と「ビジネスウイーク」を出版する米国マグロウヒル社との合弁会社として設立された。ところが、入社した年に、マグロウヒル社が日経新聞にすべての株式を売却し、撤退したのである。その結果、同社は日経新聞の100%子会社となり、日経BPに社名を変更するのだが、当時の同社幹部からマグロウヒル社が株式を売却した理由を聞いて驚いた。

 「電子媒体に集中的に投資をするために、ビジネスウイーク以外の資産は売却する方針」というのだ。

 当時は、インターネットなど世の中になかった。パソコン通信が全盛の時代である。結果的にいえば、マグロウヒル社の経営判断はあまりに早すぎたためにうまくいかず、ビジネスウイークものちにブルームバーグの傘下に入った。しかし、アメリカの経営のダイナミックさと、そしてデジタルがもたらすメディアの変化の激しさを思い知らされた。

 その後、93年に講談社に転職し、「月刊現代」や「週刊現代」、「FRIDAY」などニュース系の雑誌で編集者を務めた。

 「FRIDAY」では2000年に当時の小渕恵三首相が緊急入院した際に青木幹雄官房長官に「万事よろしく頼む」などとは発言できる状態でなかったことを示す「小渕首相の病床写真」を担当したり、「月刊現代」では新設した早稲田実業学校初等部が入試の面接で寄付の意思を確認していたことを暴いたり、日興コーディアルの粉飾決算を指摘したりする記事をつくるなど、「トップ屋」をきどって働いた。

 その現場で感じていたのは、日々のニュースや発表モノを追いかける新聞やテレビとは違う、独自のスクープにこだわる雑誌ジャーナリズムの社会的意義であり、おもしろさであった。

 校了してから書店に出回るまで数日かかる雑誌は、速報性では新聞やテレビにかなわない。記者の数も圧倒的に少ない。だからこそ目先のニュースに追われず、埋もれたテーマの発掘や長い時間をかけた取材、常識とされていることを疑うような視点で差別化をはかってきた。

 また、米国とは異なり、新聞記者が会社間で移籍することの少ない日本においては、出版社が多くのノンフィクション作家や、新聞社を飛び出してきた元記者などフリーランスのジャーナリストを育ててきた。それが、日本の調査報道を雑誌が支えてきた一因でもあった。

出版市場の不振でおきた総合誌の相次ぐ廃刊

 だが、一方で、出版市場の指標となる書籍と雑誌の販売金額は、1996年の2兆6564億円をピークに縮小し、2014年にはピーク時から40%減の1兆6065億円(推定)に低下した。これは約30年前の80年代半ばとほぼ同じ水準だ(出版科学研究所調査)。

 書籍や雑誌の販売が振るわなくなり、デジタルメディアとの激しい競争で経営環境が厳しくなるなか、お金も時間もかかる調査報道やノンフィクションは維持するのが厳しくなってきていた。

 その象徴が、ノンフィクション作家たちの発表の場であった総合誌の相次ぐ廃刊、休刊だった。2008年9月に朝日新聞の「論座」が、同11月に集英社の「月刊プレイボーイ・日本版」が、翌09年には文藝春秋の「諸君!」が休刊。講談社でも、魚住昭さんの『野中広務 差別と権力』や佐々木実さんの『市場と権力』など、のちにノンフィクション賞を獲得する良質な作品を連発した「月刊現代」が08年末をもって休刊した。

 月刊誌だけではない。どの総合週刊誌も部数は漸減傾向にあり、また中心読者もどんどん高齢化した。このままでは、新しい書き手や埋もれたテーマを発掘する雑誌ジャーナリズムは消えてしまうのではないか。そんな思いを日々強くしていった。

 09年3月には、「月刊現代」の休刊をきっかけに、佐藤優さん、魚住昭さん、田原総一朗さんたちノンフィクションの書き手たちが集まって、ジャーナリズムの未来を考えるシンポジウムを開催した。

 そんな中、われわれ編集者の手で、なんとか新しい時代のジャーナリズムメディアを立ち上げることはできないものか、講談社の若い社員たちとも議論をかわした。

ノンフィクションの将来をデジタルの可能性にかける

 そしてたどりついたのが、

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