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編集権問題から見た朝日新聞の70年

朝日10月革命から池上コラム問題まで

藤森 研 元朝日新聞編集委員、専修大学教授

1 歴史の闇から唐突に現れた「編集権」

 慰安婦問題や原発の「吉田調書問題」をめぐり昨年来、政権や一部の新聞、雑誌、ネットなどから激しいバッシングを受けた朝日新聞社は、社長交代などで「出直し」をはかった。その「再生方策」の一つが、今年4月1日に同社が新設した、弁護士や大学教授らで構成する「編集権に関する審議会」である。

記者会見で質問に答える木村伊量・朝日新聞社社長(中央)=2014年9月11日午後、東京・築地

 歴史の闇に埋もれていた「編集権」というきわどい言葉が、唐突に飛び出したことに驚きを覚えた人も少なくないだろう。戦後70年近く、「編集権」は朝日を含むメディア界にとって、実はのどに刺さったトゲのような概念である。

 編集権の「権」は、権能とも、権限とも、権利とも、説く人によって理解はさまざまだが、あまり難しく考えることはない。

 編集権とは、新聞の編集方針を決める権限のことだ。ある新聞が、憲法改正への賛否や、原発の将来についてどんな編集方針を採るかは、読者にとっても関心事だが、そこに属する記者たちにとっては死活的な重大事であろう。

 その方針を最終的に決定するのはだれかをめぐる問題が、編集権問題である。この言葉は、権力などから編集権を守るといった対外的文脈で使われる場合もあるが、主には労働組合の編集介入を拒むといった、対内的文脈で使われてきたのが日本の特徴だ。

 この概念を生み落とした戦後史を振り返る前に、朝日の今回の「編集権に関する審議会」設立の経緯を簡単に見ておこう。

 ことの発端は昨年、朝日新聞が慰安婦報道の自己検証をする過程で、編集部門の現場の記者の紙面作りに、木村伊量社長(当時)たちが容喙(ようかい)したことである。

 朝日は慰安婦報道検証に基づいて吉田清治証言の記事を取り消したが、「おわび」をしなかった。現場ではおわびを含む原稿を作っていたが、木村社長らが反対し「おわびはしない」との方針に変わった。さらに、「過ちは潔く謝るべきだ」と指摘した池上彰氏のコラムの原稿の掲載も、いったん見送った。現場の反対を押しきって「池上コラムをそのままは載せない」と事実上判断したのは、これも木村社長だったことが、識者の第三者委員会により後に認定されることになった。第三者委は結論として、「『経営と編集の分離』の原則を維持し、記者たちによる自由闊達な言論の場を最大限堅持することの重要さについて、経営幹部はいま一度確認すべきである」と指摘した。

 これらを受け、朝日新聞社は上記の審議会を新設したわけだが、その趣旨をこう述べる。

 「編集権は本来、取締役会にありますが、当社取締役会は編集の独立を尊重して日々の編集権の行使は編集部門に委ね、原則介入しません。経営に重大な影響を及ぼす事態で記事内容に関与する必要があると判断した場合に審議会を招集。その助言を踏まえ、改めて取締役会で議論します。必要に応じ、編集部門が審議会の招集を求めることもできます」

 要点は、①編集権は本来、取締役会にある②ふだんの編集内容には原則介入しない③介入の必要がある場合は、審議会の「助言」を得て、最終的に取締役会が判断する、というものだ。それが、現在の朝日新聞社の編集権認識である。

2 「10月革命」で基本方針を全従業員が決定

 70年前に、アジア太平洋戦争が終わった。無謀な戦争に協力したことについて、敗戦後、日本の多くの新聞が自己批判をした。朝日新聞は、敗戦8日後の1945年8月23日に、次のような社説を載せた。

 「国民の帰趨、輿論、民意などの取扱に対して最も密接な関係をもつ言論機関の責任は極めて重いものがある……言論人として必要な率直、忠実、勇気、それらを吾人の総てが取り忘れてゐたわけではない。もちろん当時における施策と吾人の属する組織との要請に従ふべきは当然の話ではあるが、しかもその結果として今日の重大責任を招来しなかつたか」

 ジャーナリズム研究者の新井直之は、連合軍の先遣隊もまだ日本に到着しないこの時期の社説は、変わり身の速さとだけは見られないとし、自らの責任を問い、組織を超えた立場の必要性を自覚している点で、「続いて起こってくる新聞界の〝民主化運動〟の思想的先駆と見ることができる」と評価した (注1)。

 45年10月、社内民主化と、戦争協力を先導した幹部らの責任追及の火の手が上がる。10月10日には報道第二部(社会部)が部員総会を開き、「部長以上幹部の総退陣、社内民主主義体制の確立」で一致、他部へも働きかけることを決めた(注2)。

 一方、村山長挙(ながたか)社長は、下からの突き上げの機先を制するように、10月15日、東京編集局長や論説主幹らを更迭し、気脈を通じた鈴木文四郎常務らを登用する新人事案を打ち出した。唐突な発表に編集局長たちは反発し、自分たちの退陣と合わせて社長、会長も社主に退くよう村山社長に迫った。各編集局部長会も同調した。

 一方、東京の一般の記者たちは「編集局代表委員会」を結成し、聴きく濤なみ克巳論説委員を委員長に選出。「朝日新聞の戦争責任を明らかにするため」、村山社長と全重役、局長以上の幹部に総退陣を求めて、運動は全国の朝日社内に広がった。

 村山社長は要求をのまざるをえず、10月22日、社長、会長は社主に退き、運営上必要な者を除く全重役が辞任、編集局長たちや論説主幹も退陣することとなった。

 これは、少し大げさに「朝日10月革命」とも呼ばれた。戦争責任をめぐる首脳陣の間の対立が部長会に及び、さらに一般社員の決起を促した。一時的だったとはいえ、朝日新聞社の権力の重心は下へ下へと移動し、それは「革命」といえなくもなかった(注3)。

 11月7日、朝日新聞は1面に有名な宣言「国民と共に立たん」(大阪、西部版は「起たん」と表記)を載せた。首脳陣が総辞職に至ったことを読者に告げ、理由をこう述べた。

 「支那事変勃発以来、大東亜戦争終結にいたるまで……幾多の制約があつたとはいへ、真実の報道、厳正なる批判の重責を十分に果し得ず、またこの制約打破に微力……国民をして事態の進展に無知なるまま今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せんがためである」。今後は「全従業員の総意を基調として運営さるべく、常に国民とともに立ち、その声を声とするであらう」と結んだ。

 この文章は、10月23日に開かれた朝日従業員大会で採択された「大会宣言」を、ほぼそのまま掲載したものだ。執筆した森恭三は著書『私の朝日新聞社史』などで、

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