メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

2・5大政党の一角たる公明党が

安保法成立後にめざすべき方向とは

東順治 元公明党副代表

 安全保障関連法が先の国会で成立しました。自民党と連立政権を組む与党として、法の成立をめざした公明党でしたが、国会審議などを通じ、過去に経験がないほどのストレスがあったと思います。

 公明党の看板である「平和の党」に対する疑問の声にさらされたこと。デモなどの「国民運動」から批判を受けたこと。なにより、安保法の根底にある集団的自衛権は憲法に反するとの見方が示されたことは、公明党はもとより、党の支持母体である創価学会の人たちを悩ませたに違いありません。

 今は引退の身ながら、かつて衆院議員として22年間、政治にたずさわった者として、政治の業をあらためて感じるとともに、党のこれからについて、あれこれ思いを巡らしました。月刊「Journalism」から、公明党と政治に関する論考を依頼されたのを機に、政治とは何なのか▽そこで公明党はどういう役割を果たしてきたのか▽今後、公明党はどこに向かうべきか―など、自分なりにまとめてみました。ささやかな私論としてお読みいただければ幸いです。

50年前の公明党結成で遠かった政治が近くに

 1990年2月の衆院選。私は公明党公認候補として旧福岡2区(現・福岡4区)から立候補し、国会議員になりました。43歳でした。

 中学3年で創価学会に入った私が初めて政治を意識したのは、64年11月の公明党結成です。それまで、政治といえば自民党、社会党という大政党が主役の、縁遠い存在でした。これからは、自分の身近なおじちゃん、おばちゃんが政治家になるかもしれない―。「日本の柱 公明党」「大衆福祉の公明党」の垂れ幕が下がる結成大会の新聞写真を見て、政治を至近距離に感じたのを覚えています。

 成人してからは学会の選挙活動に積極的に関わるようになり、やがて福岡県内の選挙区を任されるようになりましたが、担当していた選挙区の議員が党に反旗を翻したため、自分が選挙に出ることになったのです。

 当時、政界は激動の予兆にみちていました。88年に発覚したリクルート事件で政治改革の機運が高まり、消費税導入後の89年の参院選で自民党が社会党に大敗したこともあって、自民党の一党優位の「55年体制」は明らかに軋みはじめていました。

 事実、ほどなく「55年体制」は崩壊。「連立の時代」が幕を開けます。公明党は試行錯誤しながらそのなかを進み、私も議員として党と並走しましたが、その話の前に、まずは公明党とはどういう党だったのか、歴史を振り返るところから始めたいと思います。

「獰猛で狡猾」な政界に「大衆の党」として前進

 昨年11月17日、公明党は結党50周年を迎えました。幾多の政党が合従連衡、分裂、消滅するなか、厳然と存在し続けた公明党は、いまや堂々たる老舗政党といえるでしょう。

 公明党には前史があります。

 1954(昭和29)年、創価学会に文化部が設置され、54人の部員が任命されました。彼らは翌55年の統一地方選で各地の選挙区から立候補。ほとんどが当選を果たしました。

 当時の学会トップは戸田城聖・第2代会長です。戸田会長は文化部発足に際し、
「政界というところは、獰猛で狡猾で、甘美の魔性をはらんでいる。そこに君たちを送り込むのは、ほんとうにつらい。それを思うと、涙がこぼれる。それでも宗教の使命でいってくれ」

 と語り、涙を流したといいます。ちなみにこの統一地方選で、池田大作・現名誉会長は横浜市議選の鶴見区で街頭演説に立っています。

 56年には参院選に挑戦。6人が立ち、大阪地方区と全国区で3人が当選しました。とりわけ大阪地方区の当選は予想外の驚きで、朝日新聞大阪版夕刊に「〝まさか〟が実現」(56年7月9日付)という見出しで報じられたほどです。

 戸田会長の着眼は、第一に政治を庶民の手に取り戻すことであり、第二に政治を監視することでした。前者を地方議会に、後者を参議院に託したわけです。

 その後、59年の統一地方選で261人の地方議員が誕生。同年6月の参院選では立候補した6人がすべて当選しました。着実に勢力を伸ばすなか、こんなこともありました。60年安保のさなか、岸信介首相(当時)から「安保反対のデモを創価学会の青年に抑えてもらえないか」という要請があり、就任したばかりの池田・第3代会長(現・名誉会長)は敢然と断ったのです。

 ついで61年には、公明党の前身となる「公明政治連盟」(公政連)が、池田会長の提唱で結成されました。62年に基本要綱と基本政策を発表。平和憲法擁護などが打ち出されます。同年7月の参院選で9人全員が当選、非改選と合わせて15議席を獲得。参議院では自民党、社会党につぐ第3党に躍進しました。

 9月、結成後初の全国大会で来賓あいさつをした池田会長は、

 「……大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のために戦い、大衆の中に入りきって、大衆の中に死んでいっていただきたい。……」

 と述べます。短いフレーズで「大衆」を5回も繰り返す。大衆政党になるという明快なメッセージでした。それは、公政連を発展させて64年に結成する公明党の綱領、「あらゆる階層のいっさいの民衆を包含しうる大衆政党として、大衆とともに前進する大衆政党を建設」につながります。

 公明党の結成によって、組織的に創価学会と政治を分離するとともに、党の性格も宗教政党ではなく国民全体に奉仕する党であると明確にする。こうして公明党はスタートを切ったのです。

「中道」求める声にのり復元力みせ党勢を拡張

 次のステップは政治の中枢への進出、衆議院への挑戦でした。67年1月の衆院選、通称「黒い霧解散・総選挙」で公明党は初めて32人を擁立、25人が当選します。自民、社会の「二大政党」の不振とは対照的に、「中道」の民社党が議席を増やし、公明党も登場する。メディアは「多党化時代の到来をはっきり示した」と伝えました。

 ジャンケンでいえば、二大政党とは「パー」の自民党と「グー」の社会党しかいない状態。そこに中道の「チョキ」が現れたわけです。対決ばかりの「パー」「グー」政治に飽き足らない人から、「チョキ」が間に入って合意を形成しないと政治は動かないという声がでてきた。公明党には追い風でした。

 衆院選ごとの議席をみてみます。2回目の挑戦となった69年の衆院選では47人と倍増。72年には「言論出版妨害事件」のあおりで29人まで激減しますが、76年は55人、79年は57人と盛り返す。自民党の派閥抗争によるハプニング解散となった80年のダブル選挙では33人に減らしましたが、83年には58人まで回復。時々の政治情勢に翻弄されながらも、ダメージを受けても必ず元に戻す、復元力が際立っています。

 この間、72年の日中国交正常化にあたって、公明党は日中の「橋渡し」として、重要な役割を果たしています。第3党としての地歩を着々と固めた70、80年代でした。

 そんな公明党に80年代末、激震が走ります。88年1月、砂利船汚職で参院議員が逮捕。清潔な政治を求めてきた公明党だけに大きな痛手で、衆院議員と都議会議員が党に反旗を翻しました。この年の後半、政界を揺るがしたリクルート事件でも公明党の衆院議員が在宅起訴。さらに党首である矢野絢也委員長の金銭スキャンダルも発覚しました。

 ちなみにこのとき反旗を翻した衆院議員は、私が創価学会の選挙責任者を務める選挙区の議員で、先述したように私が立候補する契機になりました。その頃の状況を、当時、書記長だった市川雄一さんは後年、「船で言えば、航海中にマストが折れたようなものだ」と振り返っています。言い得て妙です。

社公民から自公民へ舵を切った90年代初頭

 ただ、揺らいだのは公明党だけではありませんでした。89年参院選で大惨敗した自民党は参議院で単独過半数を失い、法案が衆議院で可決されても参議院で否決される、「衆参ねじれ」の事態が生まれていたのです。日本の政界の〝潮目〟が変わった瞬間でした。その結果、参議院で一定の議席をもつ「中道」の公明党が、「マストが折れた船」にもかかわらず、キャスティングボート(決定権)を握る状況が生まれたのです。

 この頃、公明党は80年代に追求してきた社会党、民社党との「社公民」による連合政権協議から微妙に舵を切り、「自公民」も視野に入れた路線へと、立ち位置を変えていきます。左右にとらわれない政策判断で、主体性を発揮しようとしたのです。

 たとえば私が衆院議員になった直後におきた湾岸戦争の際、浮上した多国籍軍への90億ドルの追加支援問題では、賛否が二分する世論に苦悩しつつも賛成を表明。92年から93年にかけてのPKO(国連平和維持活動)協力法案の審議では、絶対反対の社会党と一線を画して「PKO参加5原則」という歯止めをかけるなど、法制定に主導的な役割を果たしています。

 こうした動きは、外部からは自民党の「補完勢力」とみられたかもしれません。しかし、実際は、公明党が「中道」の立場で自民党と是々非々の協議をして、国に必要な政策を実現したのです。

 振り返れば、当時は与野党の垣根が今よりも低く、議員同士の交流も活発だった気がします。私も自民党や社会党の若手議員らと「比較政治制度研究会」(CP研)に参加、合宿をしたり本を作ったりしました。自民党の石原伸晃さん、現民主党党首の岡田克也さん、社会党から民主党にいって引退した仙谷由人さんらと知り合ったのは、そうした勉強会です。

 若手議員の間では、とりわけ政治改革の機運が強まっていました。超党派で、新井将敬さん(故人)、石破茂さんらを中心に「政治改革を進める若手議員の会」ができ、盛んに活動をしていました。政界激動の予兆に興奮を覚えつつ、みんな政治に夢を見ていました。

 話を元に戻します。三極の一極としての公明党が存在感を増すなか、宮沢喜一首相は政治改革にしくじり、自民党内の分裂もあって93年7月、衆院解散に追い込まれます。激動の予兆から流動化へ。事態は一気に進みました。

細川政権参加を機に自民党との対立強まる

 衆院選の結果、自民党は過半数を大幅に割りこみました。自民党を離党して新生党を立ち上げていた小沢一郎さんが動き、日本新党の細川護熙代表を首相に担いだ非自民連立の細川内閣が発足します。公明党は自民党寄りから一転、非自民に転じ、4人を入閣させました。このとき、切れ味鋭く書記長として辣腕をふるったのが、小沢さんと「一・一ライン」といわれた市川書記長でした。

 ところが、細川内閣は選挙制度改革を柱とする政治改革法を成立させると、たちまち求心力を失い、政治献金問題を自民党や共産党から責められて9カ月足らずで総辞職します。新生党の羽田孜代表を首班とする内閣が後を継ぎますが、社会党、新党さきがけの離脱で少数与党政権となり、2カ月余りで退陣。

 私事ですが、この内閣で私は防衛政務次官に任じられました。いよいよ防衛庁を去る日、秘書官に「私が防衛庁にきて何日目かな」とたずねたら、「49日です」。「じゃあ、今年の夏は初盆だね」と、ジョークにもならない言葉を返した記憶があります。

 その後、信じられない政権が登場します。社会党の村山富市委員長を首相にすえた自民、社会、さきがけの3党による「自社さ政権」です。戦後、対立し続けてきた二大政党の自社が手を結ぶ。特に社会党がさしたる党内議論もなく、安保政策を転換したのは問題です。「政治はなんでもあり」の醜態を国民にさらしたのは罪が深いと思います。

 自社さ以外の勢力は非自民・非共産の新進党を結成、私も参加しました。95年参院選では40議席を獲得。社会党に失望した分、次なる本格野党は新進党という期待感が漂いました。

 これに危機感を持ったのが自民党です。新進党をつぶすため、キモである公明党に猛然とキバをむいたのです。「創価学会が新進党を支配している」と喧伝し、池田・名誉会長の国会への証人喚問や参考人招致を執拗に求めたほか、ありとあらゆる反学会の動きを見せました。

 新しい小選挙区比例代表並立制で初めての選挙となった96年衆院選はひとつのピークでした。「95年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教と公明党は同じ」という中傷ビラが公明党系の議員の選挙区に大量にまかれ、猛烈なネガティブキャンペーンが展開されました。私の自宅の郵便ポストにもビラが入れられ、「ここが東の家か」と偵察に来る人もいました。この選挙で私は落選。1年半、浪人生活をします。

 公明系苦戦の影響もあって新進党は選挙で敗北。内部対立が激化し、党を離れる人が相次ぎました。1年間で40人が離党するというぼろぼろの状態で、97年末、新進党は解党。雨後のタケノコのようににわか政党が次々と誕生。「俺の党 今はどこかと 秘書に聞き」といった風刺川柳も飛び出す始末でした。

 解党に伴い元公明党の衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」をつくり、その後、地方議員の組織である「公明」のもとに再結集。98年に新たな公明党が復活しました。その公明党に自民党が接近してきたのです。

・・・ログインして読む
(残り:約4835文字/本文:約10243文字)