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パラリンピック東京開催で増えた報道

一大イベントで終わらせないために

荒木美晴 一般社団法人MA SPORTS代表、ライター

車椅子(いす)バスケットボールのアジアオセアニア選手権大会で3位になり、リオ・パラリンピック出場を決めた後、歓声に応える選手たち=2015年10月、千葉市の千葉ポートアリーナ車椅子(いす)バスケットボールのアジアオセアニア選手権大会で3位になり、リオ・パラリンピック出場を決めた後、歓声に応える選手たち=2015年10月、千葉市の千葉ポートアリーナ
 障害者スポーツ、あるいはパラスポーツという言葉が少しずつ世間に浸透してきたように思う。車椅子(いす)バスケットボールや車いすテニス、陸上や水泳のほかに、実際にどのような競技があるのかまで答えられる人はまだ少ないかもしれない。それでも、テレビのニュースや雑誌の特集、新聞記事などを通して競技や選手の姿を知る機会が増えている。

 障害者スポーツにはリハビリテーションや生涯スポーツなどさまざまなかかわり方があるが、この論考ではパラリンピックを頂点とするような、いわゆる競技スポーツと、一スポーツ選手として上を目指すアスリートについて書く。

 障害者スポーツの報道が増えるきっかけとなったのは、もちろん2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催決定だ。13年9月、このニュースを私は山口県で知った。パラ陸上の全国大会取材のために現地入りしており、選手も関係者も、そして報道陣も、みなそわそわしていたことを覚えている。

 IOCのジャック・ロゲ会長(当時)が、「TOKYO」と発表したあの瞬間から、オリンピックはもちろん、パラリンピックを取り巻く社会的環境が大きく変化するであろうことは予測できた。それは「障害者スポーツの報道」も同じだ。

 これまで、パラリンピックの開催時だけでなく普段から継続的に障害者スポーツの報道に携わってきたのは、主にフリーランスのライターやカメラマンである。そこに、いよいよ大手メディアが参戦してくるのだ。

 実際、最近の国内の取材現場には、テレビ局はキー局から地方局まで、新聞は全国紙・地方紙各社が勢ぞろいだ。囲み取材エリアに選手が登場すると、無数のマイクやICレコーダーが一斉に選手の方に向く。それはライターが選手と目線を合わせて取材をしていた時代からは考えられないほどの変化であり、異様な光景にも映る。

 障害者スポーツが報道を通して人々の目に触れる機会が増えることは、今後の普及や発展につながるよいことだ。「これでもっと取り上げてもらえる」と喜ぶ選手も多くいる。

 その一方で、「今まで見向きもしなかったのにね。2020年が終わったらまた元に戻るんじゃないの?」と一歩引いて見る選手がいるのも現実だ。

 一般のいわゆるマイナースポーツも同じだろうが、五輪やパラリンピックの時だけ光を当て、終わればまるで何もなかったかのように、ぱたりと報道が止まる。その繰り返しを目の当たりにしてきた一部の選手にとって、報道への不信感がぬぐえないのは仕方ないことなのかもしれないし、報道する側の人間のひとりとして、私自身もその思いを真摯に受け止めている。

長野大会をきっかけに知名度が飛躍的に上昇

 まずは、パラリンピックに関する日本の報道の変遷をざっとたどってみよう。日本において大きな変革のきっかけとなったのが、1998年の冬季長野パラリンピックだと言われている。それ以前は、新聞でもメダルを取った選手や開幕、閉幕を文字で伝えるのみだったが、地元開催の長野大会では五輪が予想以上に盛況となり、パラリンピックの報道も熱を帯びた。選手の名前から「さん」や「選手」が消え、五輪の選手同様、呼び捨てになったのはこの大会からではないだろうか。

 私が初めてパラリンピックを取材したのは2000年のシドニー大会だ。オーストラリアが障害者スポーツの先進国だっただけあって、会場は連日盛り上がっていたが、日本から来たメディアは数社だったと記憶している。その2年後の冬季ソルトレークシティー大会(米国)では、その数はぐっと増えた。メディアセンターでは常に日本語が飛び交い、ここは日本だろうかと思ったほどだ。

 次の夏季アテネ大会(04年)、冬季トリノ大会(イタリア、06年)あたりからインターネットメディアが増え、また新聞では社会面や生活面から少しずつスポーツ面に記事が載るようになった。初めてパラリンピック組織委員会がオリンピック組織委員会に統合された北京大会(08年)では、開会式も閉会式も写真付きの記事になったことが印象に残っている。

 10年の冬季バンクーバー大会(カナダ)では、アイススレッジホッケー日本代表が優勝候補筆頭のカナダを準決勝で破る快進撃を見せ、急きょNHKが決勝を生放送するという英断を下した。ただ、日本が20年東京オリンピック・パラリンピックを招致していた時期のロンドン大会(12年)でも、日本のテレビ局では試合の生中継はなく、ダイジェストやハイライトの放送のみにとどまったのは残念だった。

 そして、東京大会開催が決まった後の冬季ソチ大会(ロシア、14年)で気を吐いたのは衛星放送の「スカパー!」だった。パラリンピック専門チャンネルを開局し、生放送を含む200時間以上の放送を行った。また、この頃には複数の地方の新聞社も現地で取材活動を行っている。

 こうして日本におけるパラリンピック報道の歴史を振り返ると、1998年の長野パラリンピック、そして2020年東京パラリンピック(の開催決定)という、やはり自国開催のタイミングが転換期になっていることがわかる。

大会のたびに遭遇する残念な記者の振る舞い

 ところで、私自身はシドニー大会からソチ大会まで8大会を取材しているのだが、毎回げんなりする出来事に遭遇する。これはペン記者の囲み取材の最中に、選手に対して「生年月日を教えてください」「車いすになったのはいつですか?」などと聞く記者がいることだ。

 日本代表選手の資料は事前に報道陣に配布されているし、たとえ現場でその資料が手元になくても、メディアセンターに設置されているコンピューターで世界中の選手のプロフィールを自由に検索できるようになっている。にもかかわらず、である。

 おそらく事前に個別取材ができておらず、ここで確認するしかないからだろう。年齢や障害を負ったきっかけを載せる方針があるのはもちろん理解しているが、自分で選手を知る努力を怠り、ましてやパラリンピックという大舞台で国を代表して戦っている選手に対して、あまりにも失礼な質問ではないか。昔はそういう記者もいた、という話ではなく、ロンドンでもソチでも、実際に遭遇した。貴重な時間を割いてくれている選手の前でけんかするわけにもいかないので、囲み取材が終わったあとで注意するが、すごく嫌な顔をされる。今夏のリオデジャネイロ大会ではそういったことがないように願いたい。

 さて、話を元に戻そう。国内での障害者スポーツの大会に目を向けると、パラリンピックと同様に報道陣の数はぐっと増えた。それは、これまでの取材はテレビ局などの映像とペン記者が同じ場所で取材するミックスゾーン方式だったのに対し、映像とペンの取材場所が分けられることが多くなったことからも実感できる。裏を返せば、以前は映像もペンも同時に囲み取材を行うことができるくらい、集まる報道陣が少なかったということだ。

 昨年、リオ・パラリンピック予選を兼ねた車椅子バスケットボールとウィルチェアー(車いす)ラグビーの大会が千葉で開かれた時は、これまでにないくらいの報道陣が集まり、連日多くの映像や記事が配信された。現場はいい画(え)を撮ろう、コメントを取ろうとする報道マンたちの異様な熱気にあふれており、その光景を目にしたあるウィルチェアーラグビーの外国チームのスタッフが、たまたま近くにいた私に「日本でウィルチェアーラグビーはすごく人気なのね!」と驚いたような、あきれたような表情で声をかけてきたこともあった。

 だが、そのスタッフの懐疑的な視点はあながち間違っていなかった。なぜなら、その後に同じ会場でウィルチェアーラグビーの国内大会が開かれた時は、まるで数年前に戻ったようにミックスゾーンも観客席もガランとしていたからだ。パラリンピック出場をかけた大会と、クラブチームが日本一をかけて戦う国内大会を単純に比較することはできないが、「いかにもミーハーな日本のメディア」と捉えられても仕方がないのかもしれない。

 余談であるが、報道と同時に大会運営も変化してきた。現場でミックスゾーンを仕切るのは主に大会を主催する競技団体のスタッフだったが、そこを大手広告会社などが担うようになった。車椅子バスケットボールのような人気競技の全国大会にはスポンサーが付き、無料だった大会パンフレットは有料になった。いわゆるオリンピック競技の国内での大会の運営に、あらゆる面で近づいてきたという印象だ。以前と変わりがない点は、東京体育館のような大きな会場でも観戦が無料であることだろうか。

 そんななか、昨年、視覚障害者スポーツの人気競技のひとつ、ブラインドサッカーのリオ・パラリンピックのアジア最終予選を兼ねたアジア選手権が渋谷で開催された際は、有料化に踏み切った。それでも会場は満員の観客で埋まり、日本代表に力強い声援が送られた。それはつまり、障害者スポーツが「有料でも見る価値が十分にある」ことを示してくれた、歴史的な出来事だった。

 障害者スポーツは選手の障害に合わせた独自のルールや、義足や車いすといった専用の道具を使うため、実際に見たり体験したりしなければわかりづらいという側面がある。そのため、国内の大会では体験会が開かれることが多い。実際に体験し、上肢の筋肉だけで杖や車いすを操作している選手のすごさを体感してもらおうという狙いだ。

 パラリンピックに限っていえば、リオ大会、東京大会ともに22競技が開催予定だ。そのすべての競技関係者に共通しているのは、「まずは競技のことを知ってもらいたい」という願いである。実際に現場に足を運び、

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