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認知症の世界を変え、認知症で世界を変える

介護の社会化に向け制度の信頼回復を

田部井康夫 公益社団法人「認知症の人と家族の会」副代表理事

 認知症の人と家族の会(以下、「家族の会」)は1980年に産声を上げた。「家族の会」が何を思い、何をしてきたか。そして、今、何を願っているかを考えることを通して、社会保障のあり方に迫ってみたい。

 「家族の会」の歴史は、認知症の世界を変える歴史でもあった。

一 認知症の世界を変える

1 京都で「家族の会」の誕生

認知症予防教室で、全身を使ったレクリエーションに興じる参加者たち=岐阜県本巣市
 70年代の末頃から京都・堀川病院の早川一光医師らにより、介護家族の集まりが持たれるようになっていた。79年11月、初めてその集まりに参加した時の感動を、高見国生「家族の会」代表理事は次のように述べている。

 「そこには、二十家族ほどが出席しておられました。その方たちが、次々と述べるぼけ老人の状態と、世話している家族の心情、苦労……。ある人は涙を流しながら、ある人は、『早く死んでほしい……』と語ります。
 家族どうしだから言える言葉。私は本当に、きのうまでの世界が変わったように思いました。自分だけだと思っていた苦労が、そうではなかったのです。しかも、私の母以上に、大変な状態の老人をかかえて、なおかつ頑張っている人がたくさんおられます。
 他人には、話しても理解してもらえないと思っていたのに、家族どうしなら、本当によく話が通じます。自分が話し忘れたと思うことでも、だれかが必ず話してくれます。ひとの話は、そっくり自分のことのようです。自分の話にうなずいてもらえ、ひとの話を自分のこととして涙を流す―。この安心感は、地獄の日々の中で、ひとときのやすらぎをみた思いでした。」(高見国生著『ぼけ老人と家族』94年、ふたば書房刊)

2 「呆け老人」介護のつらさからの出発

 80年、この集まりから「家族の会」は生まれた。介護のつらさからの出発だった。名称は「呆け老人をかかえる家族の会」とした。今となっては、さまざまに物議をかもす名称とも言えなくはないが、当時は、「呆け」の「老人」という大きな困難を「かかえてしまった」「家族」、まだ認知症の本質を知るには及ばなかった家族が選択するのに、まさにこれ以外にはない、名が態を表した名称だった。

 当初から全国組織を目指したわけではなかったが、京都に続き全国各地で「家族の会」結成の声が上がり、必然的に全国組織の形をとることになった。それまで表立って登場するには至らなかったものの、全国で当事者の会がいかに待ち望まれていたかがよくわかる。

3 認知症に対する新たな視点を獲得

 つらさから出発した「家族の会」ではあったが、介護家族は大きな困難をかかえながらも、さまざまな機会を通して認知症の本質に迫る視点を獲得していくことになる。

 83年、「サービスがないのなら自分たちで作ろう」との会員の願いが実を結び、群馬県箕郷町(現高崎市)に全国初の民間デイサービスが誕生した。ケアのスタッフは、私を含め介護の経験のない者ばかりだった。そこで初めて家族を介さずに認知症の人と向き合うことになった私たちは、それまでの認識とはまったく異なる認知症の人の姿を知ることになった。

 「教師も教頭で終わっちゃバカげだいねえ」「会社の経営ができなくなったんで人に任して引っ込んだンさあ」。家族にはずいぶん苦労をかけている認知症の人の言葉である。
認知症の人もいろいろな顔を持っている。接する人と場所が変われば、認知症の人も変わる。デイサービスで認知症の人の世界を広げることができる。必要から生まれた認知症ケアはやりがいのある仕事となった。

 87年、千葉市で民間デイサービス「稲毛ホワイエ」の取り組みが始まった。稲毛ホワイエは「家族の会」に集う、現役あるいは介護経験を持つ主婦たちがスタッフとなって開設された。介護家族は、デイサービスを利用することにより負担軽減のメリットは感じたものの、サービスとしての介護のあり方にはどこか違和感を覚えることも少なくなかった。それが彼女たちを仕事としての介護に向かわせた一因でもあった。家族以外の認知症の人の介護を通して、彼女たちは、認知症を冷静に受け止めることができ、介護を楽しいものと感じることができる自分たちを発見することになった。
このような体験が、介護家族として認知症に対する新たな視点を獲得していくことにつながっていった。

4「心は生きている」、認知症の叫び

 それと共に、認知症の人自身の言葉が具体的に人々の目に触れるようになってきた。95年、「家族の会」の会報に認知症の人の心の叫びが署名入りで掲載された。

「僕にはメロディーがない 和音がない 響鳴がない
 頭の中をいろんな音が 秩序を失って騒音を立てる
 メロディーがほしい 愛のハーモニーがほしい
 その音に響鳴するものは もう僕から去ってしまったのか
 力がなくなってしまった僕は もう再び立ち上がれないのだろうか
 帰ってきてくれ 僕の心よ すべての思いの源よ
 再び帰ってきてくれ
 その美しい心の高鳴りは もう永遠に与えられないのか
 いろんなメロディーがごっちゃになって 気が狂いそうだ
 苦しい 頭が痛い」
(「老人をかかえて」95年9月号)

 「家族の会」では、家族の思いに加え本人の思いを知るための聞き取り調査を実施した。この調査により、認知症の人が多くの思いをもって生きている、「心は生きている」こと、もっとも苦しんでいるのは認知症の人本人であることが浮き彫りになった。

5 認知症を尊厳死の対象とする動きの衝撃

 さらにこの頃、介護家族が認知症の人を大切な存在と考えていることを改めて認識させられる事態があった。

 94年8月2日の朝日新聞紙上に、日本尊厳死協会が認知症を尊厳死の対象とすることを検討しているとの記事が掲載された。尊厳死を選ぶ条件を明記しているリビングウィルの三つの条件に、「認知症となったとき」を加えるか否か、尊厳死協会が会員に意見を求めたことが報じられた。

 「家族の会」は、この記事に大きな衝撃を受けた。介護家族としての苦労には心から共感し、時には共に死を、と思ってしまうことがあることは否定しないが、それをシステム化するような恐ろしい考えを、私たちは抱いたことはなかった。

 認知症は、知的障害や身体障害、精神障害とその態様こそ違え、異なるものではない。認知症→尊厳死を認める人はこれらの障害についても要望があれば検討するのか。するというならそれはすべての障害者に敵対するものである。しないというなら認知症を取り上げる根拠も失われるはずである。「家族の会」は、尊厳死協会に抗議に赴いた。結果的に尊厳死協会は認知症を宣言書に加えないことを決めた。

 このことは、介護家族に改めて認知症の人が大切な家族であることを気づかせるきっかけとなり、「家族の会」が、認知症を、排除すべきものではなく本人も家族も認知症を受け止めて、共に生きる方向に大きくシフトする結果になった。介護の困難さの中でも、より良き代弁者でありたいとより強く願うこととなった。

6 認知症本人が発言する時代に

 そして、2000年代初頭オーストラリアのクリスティーン・ブライデン女史(注1)が登場することにより、認知症に対する認識はまったく新しい時代に踏み出すことになった。クリスティーン氏は、認知症を苦悩として語るだけでなく、支援のあり方について「私たちのことを、私たちを抜きにして決めないでください」とはっきりと主張として述べた。それは、私を含め多くの人に驚きをもって迎えられた。

 2003年、日本人として真っ先にクリスティーン氏に注目した看護師の石橋典子氏(注2)は述べた。「クリスティーンさんの話をすると、『本当の痴呆ではないのでは?』とか『特殊なケースで一般化できない』という声に出会います。しかし、私は思うのです。近い将来、痴呆を患っても、人生を諦めず、前向きに生きるクリスティーンさんのような生き方が、そしてブライデン夫婦のような人と人との結びつきが『当たり前』になるのではないか。その時になってみれば、クリスティーンさんは、そんな生き方をし始めた先駆者の一人にすぎないのではないか?」

 その後、日本の中でも、認知症の人本人の発言が注目されるようになり、「家族の会」はその状況を受けて、06年10月いち早く「本人会議」を開催し、本人による17項目の「本人会議アピール」を発表した。

 この年、「家族の会」は発足以来の「呆け老人をかかえる家族の会」の名前を「認知症の人と家族の会」に変更した。それは、家族が認知症の人のより良き代弁者から、対等のパートナーとして歩みたいとの宣言でもあった。

 そして、さらに、今、40代で認知症と診断された「家族の会」会員の男性が、職場の配慮で仕事も継続しながら、自ら、認知症の人本人のための相談の窓口を開設するに至っている。認知症の世界は今そこまで来た。時代はまさに石橋典子氏が予見した通りになりつつある。

 「家族の会」の36年の歩みは、介護家族の立場から認知症に対する認識を変え、認知症の世界を変える、心のたたかいの歴史でもあった。

二 認知症で世界を変える

 認知症の世界がここまで大きく変わったことは、認知症をめぐる時代の動きの中の〝光〟の側面である。認知症の世界は頭の中で変わってきたわけではない。社会保障制度が充実することにより、介護家族も働く人も冷静に、客観的に認知症を見つめる目をもつことが可能になったことが背景にある。その象徴的な変化が2000年の介護保険制度の創設である。

1 2000年介護保険制度の発足

 日本の高齢化は進行していた。超高齢化社会は目前だった。社会保障が少しずつは前進していても、このままでは超高齢化社会は乗り切れないと感じていたのは役人や政治家ばかりではない。多くの国民がそれに気が付いていた。新しい制度が待望されていた。しかし、新たな負担をすることに国民には躊躇があった。これまで、何度、政治や役人のうたい文句に騙されてきたことか。また同じ轍を踏むのではないか。そんな政治に対する不信の思いは国民の大多数にしみわたっていた。税金が良いのか、

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