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あしたのことを見続け、書き続ける

ジャーナリズムは民衆の希望のために

早野透 元朝日新聞コラムニスト

 1月4日のテレビが安倍首相のモーニング姿を映し出していた。そうか、お正月恒例の伊勢神宮参拝のあとの記者会見だな、これは。

 「ことしは酉年です。12年前の酉年には、小泉さんの郵政解散がありました。さらに12年前は、自民党が野党になり55年体制が崩壊しました。そのとき、わたしは国会に出ました。その12年前は……」

 安倍さん、このところ、酉年には大きな政治的転換があった、ことしもあるかもしれないと言いたいらしい。ひょっとしたら、解散総選挙だぞ、ということであろう。

「酉年異変」をいうのなら「12×6」=72年前に思いを

 それを言うなら、そんな折々の政治変動よりはるかに大きなこと、12×6の72年前の酉年、日本は同胞300万人の命を失って世界を敵に回した第2次大戦、太平洋戦争に敗れた。アジアでは、2千万人の命を失わせしめた。実は、わたしはその1945年の酉年生まれである。わたしは、「戦後」と同い年。大学を出てジャーナリズムを志して朝日新聞に就職、岐阜、札幌で勤務して記者の仕事の初歩を学んだあとは、おおむね東京の政治部に在籍して記事を書いてきた。わが人生イコール「政治記者」ということだったかもしれない。

 だから、安倍さんのいう酉年異変、12年前の解散総選挙の勝負に出た、あのときの小泉純一郎さんの厳しい顔も覚えているし、24年前、自民党「永久」政権を溝に蹴落とした日本新党の細川護煕さんのさっそうとした姿もありありとまぶたにある。

 さて2017年の安倍さん、何やら異変を画策しているようだけれども、しかし、政治の勝敗はウラオモテである。安倍一強といわれて、いまのところ向かうところ敵なしの風情だけれども、こういうときが却って危ない。政治の神が、ときの政治指導者のわずかな慢心を見逃さずに手厳しく罰してきたのを何度も見てきた。ご用心!

 わたしは、朝日在社時の最後の時期、1996年4月から週1回の政治コラム「ポリティカにっぽん」を書き続けた。日本政治のあれこれを事実に即して自由に論じ、できうれば、わが想いを政治の現実に反映させたいと願って格闘したものである。

 2010年に退社、大学教授に転じたあとも、朝日新聞デジタルで2週に1回、「新ポリティカにっぽん」を書いて、現在までパソコンで読んでいただいている。かくて、今年は72歳になるというのに、まだ現役記者の気分のわたしに、「ジャーナリズムとは」、あるいは「ジャーナリストとは」というテーマで一文を書け、という注文をいただいた。さて、果たしてどうしたものか。

 政治記者はいつも目の前を見続ける。

 安倍さんは日本の政治権力のトップである。その安倍さんが何を考え、何をしているのか、次は何をしようとしているのか。それはいいことなのか悪いことなのか、悪いとすればそれをさせないためにはどうしたらいいのか、などと政治のありようを考える。それを記事に書く。政治というものは、人間の、あらゆる生活に割り込んでくる。わずかなすきまから入ってくる。そして、いちばんひどいのは、人々を戦争に巻き込んで、命を奪っていく。油断がならない。そんなことにならないように、ふだんから気持ちを引き締めて、政治記者は、あしたのこと、あさってのことを見続ける。

 その仕事は、なにも政治記者だけの仕事ではない。戦争は経済変動の、ある帰結である。経済記者は日々の株価を追いながらも、その先に何が起きるか、何があるかを読み続けている。平和と繁栄か、それとも対立と戦争か。

危険なカーブに信号を発するジャーナリズムもプレーヤー

 この世の中には、さまざまな思いの人々が暮らしていて、そこに渦巻く人々の感情の発露がある。ときに、それが大きく、集団で危険なカーブを描くときもある。ファシズムが忍びよる。社会部記者は、そうした人々の日常の営みのなかにいて、危険信号を発信する。

 だから、政治記者だけではない、経済記者も社会部記者も、すべて、この国が戦争などの事態にならないように監視し、報道していかなければならない。それがジャーナリズムの究極の目標ではないか。私たちの父母の時代、大日本帝国を翼賛して戦争をあおった戦前のメディアがいかに、ジャーナリズムの精神に違背していたものか、その反省を忘れてはなるまい。

 あれあれ、安倍さんの酉年異変の話を書いていたら、いつのまにか、いささかおおげさな話になってしまった。12×6の年齢、「戦後」と同い年のわたし、どうもせっかちになって、これではいけない。いったいジャーナリズムとはなにか、ジャーナリストとはどんな生き方か、もっと着実に考えていく必要がある。とはいうものの、わたしたちは「ジャーナリズムとは」などと振りかぶって考えたりする日常はほとんどない。もろもろの事実から具体的に考えることはできるけれども、ものごとを抽象化、論理化して考察するのは不得手である。

 仕方ない、であれば、このわたしのやってきたこと、考えてきたこと、これからなお、やるべきこと、まずは、そんなことを書きつづってみよう。わたしは「政治記者」として、日本政治の権力の攻防を至近で見てきた。しかし、それだけではいけない、反体制の側からもいろいろ知りたいと思い、取材もした。そのバランスのなかで、ふつうに生きている市民の感じ方から政治のありようを見たい、考えたいと思ってきた。

 われわれジャーナリズムは権力ゲームの観客席にいるわけではない、民主主義のジャーナリズムは、われわれ自身がプレーヤーである。そんな思いを出発点にジャーナリズムとは何か、ジャーナリストとはどんな仕事か、諸兄諸姉にくみ取っていただくこととしよう。

 まずはわたしが記者としてかかわってきたこと、そこから書き始めることにする。

丸山先生が教えてくれたこと タフでこそ持てる「諧謔精神」

 振り返れば、もう半世紀になんなんとする。1968年4月、わたしは最初の赴任地、朝日新聞岐阜支局から新聞記者の仕事を始めた。

 なんで新聞記者になったのか。わたしが出た東京大学法学部は、公務員試験か司法試験、いずれ国家公務員か裁判官、弁護士といったあたりがオーソドックスなコースである。しかし、わたしたちは「戦後民主主義」のまだ色濃い時代のなかにいた。ジャーナリズムがファシズムに迎合して戦争の惨禍をもたらした記憶がまだ引き継がれていたから、こんどこそ、民主主義のジャーナリズムをつくらなければという思いから、新聞記者の志望者も少なからずいた。

 わたしは幸運にも「戦後民主主義」の代表的思想家とだれもが認める丸山真男先生のゼミで学んだ。そのころのこと、『丸山真男回顧談』(下)に出てくる。
少々、引用する。

Q そのころ先生は、コンパをやったら、学生がシャンソンを歌ったと言ってびっくりされていたでしょう。
丸山 いや、歌ったからじゃないんだ。手に徳利を持って歌うから、「それ、なに」と聞いたら、「マイク」と言うんで仰天したんです(笑)。なるほどなあ、と思ってね。その学生が、いま『朝日新聞』ですからね〔早野透〕。

 こんなおっちょこちょいを、なぜか、わが名がわざわざ付記されて「回顧談」に残されたとは、まことに名誉といわなければならない。だが、丸山先生は、そういうおっちょこちょいがジャーナリズムに進むことを是認してくれた。あまりしかつめらしい議論よりも楽しくね、ユーモアがだいじだよ、卒業前、朝日に行くことを報告したら丸山先生はそんなふうに励ましてくれた。

 あれは何だったろう、丸山先生の父は丸山幹治、はるか昔、朝日新聞記者、白虹事件という言論弾圧事件で退社、その後、大阪毎日新聞などでコラムを書き続けた。大日本帝国のメディアがなさけなくも、軍国主義に同調、さらには扇動してしまったこと、真男青年はおそらく間近に見聞きしていただろう。ジャーナリズムというものは、調子に乗って世情を煽るのではなく、むしろ、ものごとを斜めから茶化すくらいの諧謔精神を備えていなければいけない、それはそれでタフな力が必要だ、そんなふうに思っておられたようである。

支局で学んだ「人間学」 事件にひそむ喜怒哀楽

 さて、岐阜支局で遭遇したことといえば、その繁華街「柳ヶ瀬」で、確か18軒燃えた火事を取材した。大きい見出しの記事になる。しかし一軒一軒は小さいバーである。どうも見出しが大きすぎると感じたことを今でも思いだす。

 その夏、飛騨川バス転落事故が起きた。北アルプスの観光に向かうバス2台が豪雨による土砂崩れで川底に落ち、100人が死んだ。サトシくんという幼い息子の死を嘆く父親のことを必死で取材して書いたように覚えている。シンマイ記者には忘れられない体験である。

 ふだんは岐阜中署の記者クラブに属して、岐阜日日新聞のコジマさん、毎日新聞のコンドウさんら先輩記者にもまれながら走り回り、小さな事件のなかに人間の喜怒哀楽、

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