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いまも変わらない言論弾圧事件

自由を圧迫する社会的なるもの

辻田真佐憲 作家、近現代史研究者

 政治学者の吉野作造は、1918年11月『中央公論』に寄せた「言論自由の社会的圧迫を排す」において、言論の自由を圧迫するものとして「国家的なるもの」と「社会的なるもの」のふたつをあげ、とくに見落とされがちな後者に注意を促している。

 言論の自由に対する圧迫は、国家からの弾圧だけではなく、社会からの突き上げによっても起こる。この指摘は、今日でも学ぶべきところが少なくない。

 吉野の論考は、白虹(はっこう)事件に関連して発表された。これにはやや驚かされる。というのも白虹事件は、国家権力がメディアを弾圧した典型的な事件といわれているからだ。

 今年はちょうど白虹事件の発生から百年にあたる。有名な割に、この事件の全体像は必ずしも広く知られていない。メディアバッシングが激しい今日、このことは惜しまれる。そこで、社会的な圧迫の観点から白虹事件をあらためて振り返ってみたい。

不用意な言葉づかいが命取りに

1918(大正7)年8月25日の大阪朝日新聞夕刊(当時は翌日付となるため26日付)。「白虹日を貫けり」の前後は削られている1918(大正7)年8月25日の大阪朝日新聞夕刊(当時は翌日付となるため26日付)。「白虹日を貫けり」の前後は削られている
 はじめに白虹事件の顚末を確認しておく。

 白虹事件とは、当時最大の発行部数を誇り、大正デモクラシーの旗振り役として寺内正毅内閣を厳しく批判していた大阪朝日新聞(大朝)が、不用意な文言の使用をきっかけに廃刊寸前にまで追いつめられた事件である。

 問題となったのは、1918年8月25日の夕刊社会面の記事「寺内内閣の暴政を責め猛然として弾劾を決議した関西記者大会の痛切なる攻撃演説」だった(当時の夕刊は翌日付で発行されていたので、26日付)。

 「終つて食堂の開かれたるは一時に近い頃であつた。食卓に就いた来会者の人々は肉の味酒の香に落ちつくことが出来なかつた、金甌無欠(きんおうむけつ)の誇りを持つた我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判(さばき)の日に近づいてゐるのではなからうか、『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆(しらせ)が黙々として肉叉(フォーク)を動かしてゐる人々の頭に電(いなずま)のやうに閃く」

 シベリア出兵や米騒動で報道統制を繰り返す寺内内閣にたいし、関西のメディアが25日に大阪市中之島の大阪ホテルで抗議集会を開いたという記事の一節である。

 記者の大西利夫は、かねてこの手の集会を取材しており、そのワンパターンな内容に頭を悩ませていた。なんの波乱も曲折もない。そのまま書いても記事にならない。そこで、漢籍からの引用で文章を修飾し、変化をつけようとした。

 だが、その工夫が災いした。寺内内閣の意を体し、大朝への攻撃の機会を探っていた大阪府警察部は、目ざとくこの記事を見つけた。漢籍によれば、戦国時代の刺客である聶政(じょうせい)や荊軻(けいか)がことをなすにあたって「白虹が日を貫いた」という。つまりこれは兵乱や君主殺害の兆しだ。不穏きわまりない―。

 同部新聞検閲係長の山下文助は、ただちに専用回線で東京の内務省警保局に連絡した。すると「すぐやれ!」とのお達し。さっそく問題の夕刊は発禁処分(発売頒布禁止処分)となった。

 当時の新聞紙法では、「安寧秩序ヲ紊(みだ)シ又ハ風俗ヲ害スル」場合、内務大臣の権限で当該の新聞を発禁処分にすることができた。さらに悪質な場合は、裁判所検事局に告発して、司法処分を求めることもできた。この場合、発行人や編集人が罰金刑や禁錮刑に処せられたり、新聞それ自体が発行禁止処分を受けたりする可能性があった。

 発行禁止処分は、特定の月日の号のみ制限する発禁処分と異なり、今後永久にその新聞が発行できなくなることを意味する。つまり事実上の廃刊命令だ。「死刑処分」と恐れられた、たいへん強力な処分だった。

 警察当局は、ここで一気に畳み掛けた。大朝を廃刊に追い込もうと、執筆者の大西と、編集人兼発行人の山口信雄のふたりを新聞紙法違反で大阪区裁判所検事局に告発したのである。

 これに呼応するように、検察でも異例の態勢を取った。通常、新聞紙法違反は区裁検事局の検事が取り調べにあたる。ところが、今回は地裁検事局の古参検事である岡上晴重があたり、立ち会いの書記もよほどの大事件でなければ立ち会わない秀徳茂次郎があたった。

 警察も、検察も、本気だった。9月9日、大西と山口が在宅起訴され、同月25日、大阪区裁で第一回公判が開かれた。裁判は傍聴禁止とされたため、詳しい内容はわからない。ただ、立ち会い検事の岡上は、大朝の発行禁止を求めるつもりだと、「武士の情」で同紙の司法係記者、鈴木常吉に明かした。

 寺内内閣は米騒動などの責任を取って同月29日に退陣するが、裁判は止まらなかった。検事側は、様々な大朝の記事を持ち出し、同紙の言論自体を問題としてきた。

 大朝はついに判決を待たずに屈した。10月15日、社長を村山龍平(りょうへい)から上野理一に代え、16日以降、社内で寺内批判の論陣を張っていた鳥居素川(そせん)らを次々に退社させた。

 さらに11月15日付で「朝日新聞編集綱領」を発表し、12月1日付で長文の「本領宣明」を掲げて、事件の概要を説明するとともに、政府に対する恭順を示したのである。

 その文面を読んだ大阪控訴院検事長の小林芳郎は、岡上検事にたいしてこう述べたという。

 「アゝ、朝日はこれによつてその非を天下に謝したな。改悛の情顕著なるものがあるではないか。朝日ともあろうものが、よくも断々乎(だんだんこ)としてこれだけのことをきつぱりと書いたものだ。これによつて朝日本来の面目が取返されたわけだ。もうこれ以上追求するには及ぶまい。発行禁止の必要もなかろう。これで万事は一段落ついたわけだ。貴公も御苦労さんであつた」

 はたして12月4日の一審判決では、大西利夫と山口信雄にそれぞれ禁錮2カ月が言い渡されたものの、大朝の責任は問われなかった。同月8日、上野社長が原敬首相に面会してことの経緯を説明した。被告人、検察とも控訴せず、ここで判決が確定した。

 新聞紙法による威圧。これはまさに国家権力による言論の自由にたいする弾圧だった。だが、白虹事件はこれだけでは説明できない。

後藤新平の巧みなメディア操縦術

大阪朝日新聞は白虹事件について3600字を超える長文の社告「本領宣明」を掲載した=1918年12月1日付朝刊大阪朝日新聞は白虹事件について3600字を超える長文の社告「本領宣明」を掲載した=1918年12月1日付朝刊
 寺内内閣は、実はかねてメディア対策を熱心に行っていた。その中心となったのが、内務大臣として入閣した後藤新平である。すでに述べたとおり、内務大臣は新聞取り締まりの職権者だった。

 後藤は、台湾総督府民政局長のときに、既存の二紙を統合して、御用新聞「台湾日日新報」を発足させ、また満鉄総裁のときに、同社の機関紙「満洲日日新聞」を創刊させた。植民地統治に長く携わった後藤は、政情の安定にメディア対策が欠かせないと見抜いていた。

 その才覚はいかんなく発揮された。内務大臣に就任するや、後藤は、さっそく国内のメディア対策に乗り出したのである。

 最初にその餌食となったのは報知新聞だった。

 1916年12月、報知新聞は、大隈重信前首相の退任にさいして、元老の山県有朋が大正天皇の招請を待たずに参内(さんだい)したと追及、これを「宮中闖入(ちんにゅう)事件」と呼んで批判キャンペーンを張った。

 これにたいし、後藤は二度にわたる発禁処分を加え、さらに記事の執筆者と編集発行人を新聞紙法違反で告発して、禁錮刑と罰金刑に追い込んだ。後藤は、力技で批判報道をねじ伏せた。

 つづいて外務省の記者クラブ・霞倶楽部がその標的となった。

 1918年5月、後藤が外務大臣に横滑りして約1カ月後のこと。地方長官会議の参加者たちを集めた席上で、後藤が「管下の言論機関を指導せられんことを切望す」と発言した。これに霞倶楽部が猛反発して撤回を求めた。この一連の騒動を霞倶楽部事件という。

 後藤は、ここで老練な手腕を見せた。霞倶楽部にたいしては、記者室の使用禁止や幹部の会見停止を行って厳しく対処するいっぽうで、都下の新聞社・雑誌社・通信社の首脳でつくる組織、春秋会に働きかけて、経営陣と現場記者の分断を図った。

 この結果、政府との揉めごとを嫌う春秋会の仲介で、霞倶楽部は何の成果もないまま後藤と和解することになってしまった。

 このように、後藤は、硬軟織り交ぜてメディアの懐柔を行い、成果を収めていった。そんな後藤がつぎに狙いを定めたのが、寺内内閣批判を繰り返す大朝だったのである。

御用記者の大朝叩きキャンペーン

 大朝で寺内批判の急先鋒は、編集局長の鳥居素川だった。そんなことは百も承知の後藤は、鳥居を懐柔するため、鳥居と昵懇(じっこん)だった大阪府知事の林市蔵と、大阪控訴院検事長の小林芳郎(前出)を介して、鳥居を丸め込もうと図った。林と小林は、親友として鳥居の身の上を心配したという。ただ、鳥居は折れず、これはうまくいかなかった。

 それならばと後藤は、こんどは親交があるジャーナリストの杉中種吉を介して、大朝叩きのキャンペーンをしかけた。

 杉中は、さっそく自身が事実上主宰する雑誌『新時代』の1918年7月号に「新聞界の羅馬法王大阪朝日新聞」という署名記事を寄せ、大朝にたいする批判の矢を放った。

 「近来の朝日新聞の行り方は、己れの欲せず、己れに便ならざる人物及び事業に対しては、讒誣(ざんぶ)中傷到らざるなく、而して其の報道の神聖の保たれざる可からざる、雑報欄に於てすら、無を有とし、有を無として、有られもなき虚構、捏造の記事を書き立て、果ては他人の談話を迄麗々しく捏造し、会(たまた)ま此等の記事に対し、抗議若くは取消正誤を申込む者あれば、却つて之に一種の威嚇を加ふるが如き、暴虐を恣(ほしいまま)にして居る」

 中傷、虚構、捏造。メディア批判の決まり文句は、いつの時代も同じらしい。やや古めかしい表現を改めれば、今日でもそのまま出回っていそうな内容だ。

 似ているのはここだけではない。つづく箇所では、「中国人の反感を煽って国益を損なっている」「首相の発言を都合よく切り貼りして、読者を誤導している」という趣旨の批判を行い、「売国的言論」と断ずるなどしている。さらに同紙が野党に肩入れしているとして「憲政会の機関」と呼び、社会主義や共産主義に共鳴しているとして「危険思想の鼓吹」と難じた。

 杉中はまた、翌8月号にも「人道の公敵危険思想の権化大阪朝日新聞」という記事を寄せ、執拗に大朝を攻撃しつづけた。

 いわく、

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