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8年間追った生活者の闘争

「ヒーロー」不在の苦悩と挑戦、アスベスト訴訟とドキュメンタリー考

原一男 映画監督

 ドキュメンタリーを作るという生き方を選択して良かったと、その幸せをしみじみ噛み締めている。今回の新作ドキュメンタリー「ニッポン国VS泉南石綿村」が私にもたらしてくれたものが、それだけ大きいことを意味するが、その実感は易々と得られたものではない。製作の途中、つまり撮影の段階、編集の段階で悩んだ度合いは、これまでの作品の中では最高だった。

 作品を作る時の基本姿勢として、ドキュメンタリーはドラマ以上におもしろくなければ誰も観てくれない、テーマや素材が、どんなに悲劇的でシリアスなものを扱おうともエンターテインメントでなければならない、テーマが真面目で、誠実な作風でありさえすれば必ず人は観てくれるはず、というわけにはいかない。人の好みは千差万別であり、何をおもしろいと思うかという定型はない。だから作品ごとに、その作品に内在する固有のおもしろさを求めて、どう描けばいいのかと試行錯誤を繰り返す。作り手がおもしろいと思うものを、観る側もおもしろいと思うかどうかは、公開して観客の目に晒してみなければ分からない。まずは作り手である私が、おもしろいと信じて作っていくしかない。

「普通の人」は、おもしろいか

「ニッポン国VS泉南石綿村」から(記事中の写真はいずれも©疾走プロダクション )
 本作では、大阪・泉南地域の石綿(アスベスト)工場の元労働者とその家族らが、国に損害賠償を求める裁判闘争を追い続けた。同地域はかつて石綿産業で栄え「石綿村」と呼ばれていた。地方出身者や在日コリアンらが数多く働いていた。原告の元労働者は石綿を吸い込んで、中皮腫や肺がん発症という「静かな時限爆弾」におびえながら暮らしていた。長引く裁判の中で、石綿に体をむしばまれるのだった。

 私のこれまでの作品とは全く趣が違っていて、しんどかった。「普通の人を撮っておもしろい映画ができるんか?」という底なしの不安と疑問が終始、付きまとって離れなかったからだ。

 20代半ばの頃、私がドキュメンタリーを志した時点で、心の中で固く思い決めたことがある。「生活者」と呼ばれる人は撮らない、私が撮りたいのは「表現者」である、と。私の定義では、生活者とは、自分と自分の家族の幸せのために生きる人のこと。表現者とは、自分と家族の幸せのために生きるというよりも、世界中の多くの不幸な人々、例えば戦火に巻き込まれて否応無く故郷を追われた人たち、いわれなき差別に苦しむ人々、貧困の中にしか生きる術を持たない人たち、そんな様々な苦しみを一身に背負った人々の幸せのために生きようとする人のことをいう。この定義を他の人に押し付ける気はないし、定義自体が批判されるかもしれない。

 なぜ、そう固く思い決めたのか。

 私は強いコンプレックスを抱いていた。それなりの貧困の中で育ち、とりたてて頭脳優秀でもないし、一芸に秀でているわけでもない、人間関係上の有利な点もないし、どこにでもいるようなごく普通の田舎のあんちゃんだった。だから、何とか這い上がらなければと強く願ったのはごく自然なことだろ、と思っている。もう一点、自覚していたことがある。「弱い」ということだ。意志も強くないし、喧嘩も弱い。中学の時に腕力の強い奴がいて、そいつに目をつけられ、いつも殴られていた。ボクシングを習って強くなり思い切り殴り返してやりたい、刃物で刺し殺してやりたい、とまで妄想を抱いた。だが、怠惰で強い意志とてない私は、何も果たし得ないまま。そして、ドキュメンタリーを作ろうとするスタート時に考えたのは、ただただ強くなりたいということだった。以後の人生で「強くなりたい」が、私の最大のモティーフになっていく。ならば、強くなるにはどうすればいいか。強い人に出会って自分を鍛えてもらえばいい。

 その後、私(たち)が作った4作品をスーパーヒーローシリーズと名付けている。脳性麻痺(CP)という身体の障害ゆえに差別される彼らが、この身体でなぜ悪いと、逆に障害を武器に世の中に反抗する姿を追った「さようならCP」(1972年)の横田弘、横塚晃一。「極私的エロス・恋歌1974」(74年)では、私自身がかつて一緒に暮らし、子どもをなした武田美由紀を追って沖縄へ行き、彼女が自力出産を行なうまでをとらえた。「ゆきゆきて、神軍」(87年)では、アナーキスト・奥崎謙三が「神軍平等兵」の旗をなびかせた車に乗り、各地を疾駆する姿を追った。生き残った元兵士らの口から〝地獄の戦場ニューギニア戦線〟で起きた人肉事件の真実が明かされた。「全身小説家」(94年)は、小説家・井上光晴の実人生をも虚構化してしまう作家の業を描く長編ドキュメンタリーだ。彼らは私にとって「強い人」であり、憧れであり、目標であり、ゆえにスーパーヒーローにほかならないのである。つまり、表現者とは、私にとっては、イコール強い人でもあった。

 ドキュメンタリーを撮るというスタート時において、私自らの出自が持つ意味を突き詰めていたかどうか? と問うと、ただただ貧困層から抜け出したい、ただただ強くなりたい、という思いに駆られていただけかもしれない。そのことに気付くのに四十数年という時間が必要だったのだ。

 そんな「弱い」私自身が身一つ、裸一貫で何かしらおもしろい生き方を求めた時、「生活者的生き方」は、どう考えても魅力が感じられなかった。イメージとしては、一匹オオカミのような「表現者」としての生き方に魅せられていた。そんな動機で報道写真家になろうと決め、20歳の時に上京。写真の専門学校に入学した。最初に出会い、向き合ったのが身体障害者の人たちだった。学校は半年で中退して、彼らの世界にのめり込んで4年。養護学校で介助職員として働きながら撮った子どもたちの写真を集め、東京・銀座のニコンサロンで個展をすることができた。その時に会場に来ていた小林佐智子と知り合ったことが転機となり、映像の世界へと方向チェンジすることになった。小林がプロデューサー、私が監督という役割分担でコンビを組んで作品を作ってきた。それがスーパーヒーローシリーズである。

自由、過激に生きられた

「ゆきゆきて、神軍」から
 その主人公たちは、私を鍛えてくれる生き方の先達である。それと同時に彼らを主人公に描いた作品は、私が属している「ニッポン国」という共同体の権力的構造を破壊せんとする「武器」でもあった。それぞれの主人公を取り巻いている倫理やモラルといったものを明らかにし、タブー化されているものを可視化するように意識的に描いていった。それこそが私(たち)の打倒すべき敵だったからだ。作品を作るスピードこそゆっくりであったが、意識としては一直線に作ってきたという実感がある。このスーパーヒーローシリーズは、もっと続くはずだった。続けたかった、というべきか。奥崎謙三、井上光晴に続く主人公を10年ほど意識的、無意識的に探し求めたが、どこを探してもいなかったのだ。なぜ、いないのだろうか? と考えた。これまた10年近く考えてやっと気づいた。そうか、時代が変わったからだ、と。「全身小説家」を仕上げた時には、昭和が終わって平成になっていたが、「さようならCP」「極私的エロス・恋歌1974」「ゆきゆきて、神軍」の最初の3本は、昭和に作ったものだ。昭和という時代だからこそ、主人公たちは過激に、そして自由に生きられたのだ。誤解を恐れずに言えば、時代の方が彼らの生き方をおもしろがって、受け入れる余裕があったのだと思う。だが、平成という時代になると様相は変質して、生きたいように生きることを受け入れる余裕がなくなり、生き難さを強く感じる世の中になっていった。それはひとえに醜悪な自己の利益のため、世の中を改悪せんとする権力者の野望ゆえである。

 権力者批判はさておき、作り手である私にとっては、カメラを向けたい主人公がいなくなってしまったわけだから、これは一大事だった。主人公が不在では、映画が撮れないではないか。焦った。スーパーヒーローシリーズで主人公たちを魅力的に描くための仕掛けの技を一作ごとに工夫して磨いていったつもりの私にとって、肝心のヒーローが不在ではなす術もなかった。悶々とした時間が過ぎていった。そんな時、関西テレビのプロデューサーから「原さん、アスベストをやってみませんか?」と声をかけられた。その時まで、恥ずかしながらアスベストなんて聞いたこともなかった。だが、一も二もなく「やってみますかね」と答えた。内容の吟味をしてから、という気持ちの余裕はなかった。素材やテーマは何でも良かった。とにかく作れれば良かった。それほど飢えていた。

 夕方のニュースの時間の中に10分くらいの小特集のコーナーがある。その枠で、3~4カ月に1本というペースで短いものを作って放送すれば多少の取材費も謝礼も出せる。その短いものを撮りためて長いものを作ったらどうか、という。

 10分という長さで何が描けるだろうか? と改めて考えてみた。見よう見まねでやってやれないことはない。しかし、

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