メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

矛盾、一貫性欠く言動なぜ

精神の解離でなく、学習か

和田秀樹 精神科医、映画監督

第1次安倍内閣の支持率と政権の不祥事
 自民党総裁3選が確実視され、戦後、もっとも長期間政権の座につくとされている安倍晋三首相であるが、発言の一貫性のなさについては、マスメディアも野党も識者も問題にすることは多い。確かに一国の首相の言うことがころころと変わることは大きな問題と言えるだろうし、政治そのものの信頼を揺るがす事態である。

 しかしながら、総裁選を控えているというのに、この言動の一貫性のなさや矛盾についての批判の声は与党自民党からも、ほとんど上がらないし、それ以上に、支持率は低迷しているとはいえ、野党を圧倒し、少なくとも自民党の更なる長期政権は確実と言っていい勢いだ。

 私自身は、かつては海外で精神分析学(これも世間が考えるような他人の心理を分析するものではなく、心の治療法なのだが)を学び、その後も、臨床心理学を学び続けてきて、現在は大学の心理学教官の立場にいるが、言行録から他人の心理を決めつけることが危険なのは十分承知している(なので、最近はテレビでのコメントはなるべく差し控えている)。

 ただ、一方で、日本では(とくに安倍氏のブレーンとされる人において)行動経済学と言って、心理学を勘案して、経済動向を分析する経済学がさっぱり広まらないし、企業経営のブレーンなどにも心理学者が利用されることがほとんどないなど、心理学の軽視に頭を痛めている一人でもある。

 それ以上に、現在の政権の選択肢のなさや不誠実な説明のまま、重要法案が次々と採決される現状に、一国民として非常な不安を感じている。本誌は、ジャーナリストの方々や研究者の方が読者対象ということで、安倍理解の一助となればと思い、原稿を書かせていただくことにした。自説が正しいと主張するつもりはなく、考え方の一つと受け止めていただければ幸いである。

精神医学から考えてみた

 この30年ほどの精神医学の世界のトピックワードに解離という言葉がある。

 もともとはフロイトと同時代人の精神科医ピエール・ジャネが心的外傷(トラウマ)という言葉とセットで生み出した術語である。忌まわしい体験をしたとき、フロイトは無意識の世界にそれを押し込み、原則的に意識に上らないようにする「抑圧」というモデルを提起したが、ジャネは、別の意識の部屋のようなものに、その記憶を押しやる「解離」というモデルを提唱した。

 抑圧モデルでは無意識の中にあるものは原則的に意識化されず、精神症状や身体症状のもとになる。解離モデルでは、別の意識状態になった際にその記憶が現れるが、普段の意識状態ではその記憶は意識されない。1970年前後、つまりベトナム戦争の帰還兵がトラウマ症状を抱えるという問題を精神医学が扱うようになって以来、トラウマ研究が盛んになったが、80年代からこの解離が様々なトラウマの後遺症の説明に役立つと考えられるようになった。

 たとえば、多重人格という症状は、幼児期に虐待を受けた人に多いとされているが、この解離によって、一人の人間がいくつかの意識状態をもち、その一つ一つの意識状態が別のパーソナリティをもっているということで説明されることが多い。虐待された子供のままの人格とか、その恨みを抱える凶暴な人格とかが普段の人格と解離しているのである。

 この解離には軽いものも、重いものもあり、たとえば映画に没入して、普段の意識状態と違った感覚になっているような場合も正常な解離と考えられている。解離性障害という心の病をもつ人は、別の意識状態にいるときにあったことを覚えていないので、嘘つきだとか一貫性のない人間のように扱われることが多い。

 これについて、解離の本質は、時間や空間の連続性が破壊される心の病なのだという論者もいるし、臨床的にみるとそれは言い得て妙だと思う。

 ここまで長々と精神医学の説明をされてうっとうしく思った方も、私がなぜこの話を持ち出すのかを察した人もいるだろう。

 察してくださった方の想像通りと言っていいのだろうが、安倍氏というのはある種の解離性障害を患っているのかと疑ったことがあった。過去に言ったことをろくに覚えていないから、恥ずかしくなったり、自分の首尾一貫性のなさに気が滅入ったりしないのもよく理解できる。

 ただ、私は、安倍氏の発言の一貫性のなさは、この解離によるものではなく、ある種の学習によるものと考えている。一つには第1次内閣で安倍氏が突然辞職した際に、我々、精神科医から見ると、うつ病を患っていた可能性がある。現在の精神科の診断基準では、不眠、体重減少、抑うつ気分(外から見ての涙目も含む)、気力の減退、思考力や集中力の減退などの症状が五つ以上、2週間以上続けば、うつ病(大うつ病性障害)と診断される。会見時の涙目や見た目にもわかる体重減少、その時期の安倍氏が不眠に苦しんでいるなどの報道を見る限り、確かに機能性の胃腸障害もあるのだろうが、この診断基準にあてはまる。

 さて、解離というのはある種の心理的なストレスに対応するための防衛と考えられている。忌まわしい記憶を、解離を通じて意識しないで済むということである。もちろん、解離性障害の人がうつ病を患うことはあるが、たとえば、あの時期のように閣僚の不祥事や、それにまつわる内閣バッシングも上手に意識の外におくことができ、うつ病にはなりにくい。

公約違反でも選挙勝てる

 私の見るところ、現在の安倍氏の首尾一貫性を欠く言動は「学習」によるものである。心理学でいうところの「学習」とは、有斐閣の『心理学辞典』によると、「経験により比較的永続的な行動変化がもたらされること」とされている。「経験により」というのは、むしろ遺伝の制約を受ける「成熟」と区別するためとのことである。私は、安倍氏の一貫性のない、精神科医から見れば、解離でもあるのではないかと思えるような、あるいは、一般の人から見ても嘘つきと思われかねないような、言動は、まさに経験によってもたらされたものだと考えている。

 たとえば、2018年になってからだけでも、1月に茂木敏充経済再生担当相の秘書が有権者に線香を配布して、公職選挙法違反に当たるのではないかと追及され、5月には、加藤寛治衆院議員が結婚披露宴で子どもを3人以上産み育てるよう呼び掛けていると発言したことが明らかにされた。さらに、6月には、穴見陽一衆院議員が、国会で意見陳述中の参考人のがん患者にやじを飛ばしたことが問題になった。7月に入っても事態は収まらず、杉田水脈、谷川とむ両衆院議員がLGBT(性的少数者)に差別的な寄稿や発言を行った。ここで安倍氏の態度は一貫して、実質不問にし、表立った戒告や、要職にある人を更迭したりはしていない。これにしても、第1次安倍内閣時代の対応とは別のものだ。当時の経験から学び、疑惑のある者を辞任させると、かえって人気が落ちるという学習によるものだろう。

 さて、言動の一貫性のなさがもたらすものも安倍氏は学習する。

 14年の11月に、本来15年10月に10%に引き上げられる予定だった消費税の増税を17年4月までに1年半の延期を断行した。この際に、テレビカメラの前でも、「再び延期することはない。ここで皆さんにはっきりとそう断言いたします。平成29年4月の引き上げについては、景気判断条項を付すことなく確実に実施いたします」と明言した。

 ところが、16年の6月に「今回、再延期するという私の判断は、これまでの約束とは異なる新しい判断」と主張して、17年4月に予定されていた消費税の10%への増税を19年10月に延期を表明する。この際には「公約違反との批判は真摯に受けとめる」と公約違反であるという認識を示しながら、国民に信を問うという形をとって、参議院選挙を6月22日に公示し、7月10日に投票することを発表する(衆議院選挙と違って、参議院選挙はもともと日程が決まっているのだが)。そして、その参議院選挙で、圧勝した前回並みの議席を獲得して、参議院において、与党と改憲勢力を合わせると3分の2に届くという圧勝を収める。

 要するに、前言を翻したり、明らかな公約違反をしても、大衆に受けさえすれば(誰だって増税は望まないが、それを責任と感じるかということだが)選挙で勝てるという学習をここで積むのである。

嘘つき呼ばわり、気にせず

第1次内閣で首相辞任会見を終える安倍首相=2007年9月12日、首相官邸
 その後の安倍氏の発言の一貫性のなさは、モリカケ問題といわれる不祥事に対する答弁でも、さんざん問題になったが、その中で、最大の問題発言は、なんと言っても、「私や妻が関係していたとすれば、これはもう、まさに、私は総理大臣も、間違いなく、総理大臣も国会議員も辞めるということは、はっきり申し上げておきたい」という答弁だろう。すでに安倍昭恵夫人が辞退したとはいえ、名誉校長を引き受けたことが明らかになっている時点での発言である。

 その後、何度も昭恵夫人が私人であることを強調しているのだから、「私や妻が」というところを「私が」で済ませていれば大問題にならなかっただろうし、「妻がなんらかの形で関与していたとしても、それは籠池という人物のことをよく知らないで、子どもたちの姿を見てつい応援しようと思ったようだ」とでも言っていれば、ここまで事態は混乱することはなかっただろう。しかし、この発言のために、夫人の関与の証拠隠滅のために、財務省が文書改ざんを行ったとされているし、それを気に病んだとされる職員の一人が自殺した。

 前言とまったく違う発言をしても気にしないところもこの首相の特徴と言えるだろう。

 前述の16年の参議院選挙において、憲法改正について問われた際に「憲法のどこを変えるか集約していない。この選挙では問いようがない」と明言していたのだが、開票後には「憲法改正するとはずっと申し上げています。(略)前文からすべて変えたい」と堂々と言明する。ところが、翌17年5月3日の憲法記念日でのビデオメッセージでは、これまでの自民党案を変えて、9条2項を残したまま自衛隊を明記するとか、高等教育を全ての国民に真に開かれたものにするとか(その直前に普通教育の無償化に言及しているので、高等教育の無償化を意図しているように受け取られた)、耳障りのいい改憲案を表明する。

 前言と矛盾した発言がもっとも目立ったのは、何といっても東京オリンピックの招致に向けての13年9月7日のIOC総会での発言であろう。汚染水はブロックされているとして「The situation is under control.(状況はコントロールされている)」と語ったのだが、その後の答弁では「われわれは決して〝収束した〟とは言っていない」と平然と答えている。

 そして、このIOC総会での発言から2週間も経たない9月19日に原発を視察した安倍首相の防護服の厳重さは、むしろ世界中に原発の危険な状態をアピールしていると言われてもおかしくないものだった。もう少し軽装で見学(私は原発の廃炉作業の従事者のメンタルヘルスのボランティアを7年以上毎月続けているが、当時の作業員の防護服ははるかに軽装だったはずだ)するくらいのパフォーマンスができないものかとあきれたものだ。

 あるいは、同じIOC総会の演説の中で東京を世界で一番安全な都市のひとつと言って、治安のよさを強調しておきながら、組織犯罪処罰法改正案(いわゆる共謀罪法案)が成立しないと「東京オリンピック・パラリンピックを開けないと言っても過言ではありません」と明言したりもしている。

 そのほかにも何度となく、以前の発言と矛盾する発言を繰り返しているようだが、それを恥じることはないようだ。一時的に嘘つき呼ばわりされても、

・・・ログインして読む
(残り:約4270文字/本文:約9089文字)