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人間の尊厳伝える災害取材

好奇心高め、質問する力を

李淼 香港フェニックステレビ(鳳凰衛視)東京支局長

 私は香港のフェニックステレビ(中国語名・鳳凰衛視)の東京支局長をしている。11年前に支局を立ち上げてから、日本の政治や経済、社会、国際問題などを取材し、中国を軸に世界へ発信している。同テレビには六つのチャンネルがあり、ニュースチャンネルは中華圏で2億人以上が視聴しているとされている。国際報道に力を入れていて、9・11同時多発テロを中華圏でいち早くリアルタイムで報道し、中国で一躍有名になった。中国の指導者が集まる中南海やエリート層の情報源とも言われている。

 私がジャーナリストを志した理由やこれまでの取材活動を紹介することで、若い人たちにやりがいや使命感、特に外国の出来事を自国に伝える特派員記者の仕事の魅力と厳しさが伝わればと思い、原稿執筆を引き受けた。もちろん、中国と日本では政治体制や言論・メディア環境が大きく異なる。だが、ジャーナリストの精神に国境は関係ないことを感じ取ってもらえれば嬉しい。

建前より真実に迫りたい

 もともと、ジャーナリストを志望していたわけではない。子どもの頃は、外交官になるのが夢だった。猛勉強をして、16歳で中国の大学に入学。卒業後、北京で2年間、対日外交に関する仕事に携わっていた。その後、日本への留学の機会に恵まれ、慶應義塾大学大学院の修士と博士課程で国際関係論を学んだ。

 日本での8年間の留学生活で、中国で学んだ日本と、本当の日本には大きなギャップがあると感じた。日中は「近くて遠い国」であり、「相互理解を深めましょう」という建前も虚しく聞こえた。

「これから何をやりたいのか」と悩んでいた時、たまたまフェニックステレビから仕事の打診があった。まず何度か生出演をした後、正式に東京支局を立ち上げてほしいとの話がきた。

 原点に立ち戻って考えた。大学時代は放送部に所属し、ラジオやテレビに大学生キャスターとして出演したこともあった。日本に留学してからもNHK国際放送の中国語放送でアナウンサーの仕事をした。多くの人の役に立つ正しい情報をわかりやすく伝える仕事に、やりがいを感じた。外交官でなくても、「本当の日本、本当の中国を伝える」ことで「近くて遠い」両国の架け橋となる仕事ができるのではないか。留学中に出会った夫の後押しもあり、決心は固まった。

生放送の涙、人々どう見た

東日本大震災では、東京発の緊急ニュースを伝えた=2011年3月東日本大震災では、東京発の緊急ニュースを伝えた=2011年3月
 2011年3月11日。この仕事を始めて4年目だった私にとって、その後のジャーナリスト人生の中でも忘れられない日となる。

 当時、民主党政権の菅直人首相に外国人献金問題が発覚し、注意深く取材、報道していた。午前中の取材を終え、午後の番組でこの問題を中継リポートする予定が入り、昼食もとらずに原稿に没頭していた。その時だった。経験したことのない大きな衝撃。狭い事務所にある本棚やスタジオの天井に吊るした照明器具が揺れ出した。すぐに生後半年の娘と自宅で留守番中の母に電話した。そして、揺れの収まらない中で中国のミニブログ、微博(ウェイボー)で発信した。

「东京又地震了!!不是狼来了(東京でまた地震が起きた!!今回は『オオカミが来た』のではない)」

 この文章が、中国語で発信された最初の地震情報と言われている。

 重大な事件・事故の第一報をどう伝えるか。地震大国である日本で特派員をする以上、いつか大地震に遭うだろうと覚悟はしていた。最も大事なことは、第一報をいかに1分でも1秒でも早く中国に伝えるかだ。会社のモットーは「大事件が起きた場合、フェニックスが現場にいる」。イラク戦争が勃発した当時も、いち早く記者を戦場に送り込んだ。

 中国にとって、日本は重要な隣国だ。大災害が発生した時、他社よりも早く報道しなければならない。時々、頭の中でシミュレーションもしていた。しかし、いざ大地震が起きると、困難にぶつかった。案の定、香港の本社に電話はつながらない。インターネットはつながったが、まだLINEもWeChatもない時代で、MSNメッセンジャーでオンラインしていた本社の同僚に「日本で大地震が起きた。すぐに緊急ニュース(Breaking News)に切り替えてほしい。いつでも東京からリポートできる。大至急、ニュースの責任者に伝えてほしい」と言い、やっと本社に第一報を知らせることができた。

 ニュースチャンネルはただちに報道特番を編成し、私はカメラの前で余震を感じながら刻一刻と変化する状況を伝え続けた。NHKニュースの放送を横目に努めて冷静に伝えていたが、途中でヘリが撮影した映像が飛び込んできた。「襲ってくる巨大な津波に家や車、地上のありとあらゆるものが飲み込まれていっています……心が痛みます」。そう話しながら声が詰まり、涙が出てしまった。もちろん、こんなことは後にも先にもない。

 このシーンは中国で大きな話題となり、様々な議論を呼んだことは、後で知った。私の微博には視聴者からコメントが殺到していた。「日本のために涙するのが情けない」「許せない」との批判の声も少なくなかった。だが、日本の被災状況を自分の目で見て伝え続ける中で、徐々に「災害を前にして国境はない」「今こそ中国が日本に助けの手を伸ばす時だ」「日本の方々を全力で助けてあげましょう」といった書き込みが増え、同情的な声が圧倒的になっていった。

 その後、全世界を驚愕させた福島原発事故が発生し、昼夜問わず、長丁場の取材の試練が始まった。被災地に入り、平和な暮らしを失った被災者、津波で児童らが犠牲になった大川小学校、津波の爪痕が残った石巻の工場、中国人研修生を助けるため犠牲になった女川町の日本人、すべて深く心に刻まれた取材となった。涙の生放送シーンが、日本の震災にいかに向き合うべきか、中国の人々に考えるきっかけを与えたとするなら、私の使命を果たせたのではないかと思っている。

避難所に泊まり、感じた

 私が日本での災害取材の経験を語るのは、ジャーナリストの緊張感、緊迫感が端的に伝わるということだけでなく、そこに人間の尊厳を大切にする姿を見ることができ、そして、それを伝えることがジャーナリストの使命だと考えるからだ。だから、ジャーナリストを志す若い人たちの参考になるのではないか。

 東日本大震災を経験して、何が起きてもすぐに現場に行けるよう、時々、妄想の域に入ってしまうくらいシミュレーションをしている。バッグには、週末でも旅行中でも、常に録音マイク、十分なバッテリー、イヤホン2種類、携帯電話3台を入れている。災害の多い日本で、いつでも現場から伝える準備をしておくことは非常に大事なことだ。

熊本地震の避難所を取材=2016年4月熊本地震の避難所を取材=2016年4月
 16年の熊本地震でも、現地取材に行った。熊本市に着くと、まず避難所に直行した。小学校の校庭には、大勢の被災者が炊き出しをもらうため列を作っていた。あるおばあさんは、1時間待ってようやくお皿半分の食べ物をもらったという。「地震だから、仕方ないわね」と小さな声で言って静かに去って行った。その小学校の校長先生はかれた声で「もうすぐ備蓄した水や食べ物が半分になる。まだ何も支援物資が来ていない。行政から物資が届くことを信じる」と疲れ切った表情でインタビューに答えた。

 熊本では、1日平均10回ほど中継リポートをした。日本時間深夜に最後の中継をしてから4〜5時間後には、翌日早朝の中継の準備を始める、という具合だった。泊まるホテルはなく、レンタカーも狭かったので、迷惑をかけないことを前提にある避難所が泊まらせてくれた。

 それは中学校の体育館だった。お年寄りがほとんどで、全員疲れ切った表情をしていた。みんな静かで、隣同士でようやく聞こえる程度の小さな声で話をしていた。狭いところに人がたくさんいるため、少々騒がしいところだとイメージしていたが、全くそうではなかった。

 夜に震度5以上の余震が何度も起きた。携帯電話の緊急地震速報も何回か鳴り、そのたびにガシャガシャと音がして建物もひどく揺れ、不気味な夜だった。暗闇の中、「怖い! 怖い!」と何度も叫んでいる女性もいた。とても寒く、ほとんど寝られなかった。

 周りの被災者を観察すると、窓際には、20代の男性1人が夜中もずっと座っていた。あるおばあさんは、夜中に起きてひざまずいてお祈りをしていた。避難所の外には、赤ちゃんを抱っこしたお母さんが寒い風の中でじっと我慢していた。「赤ちゃんが泣くと迷惑だから、中には入れない」とのことだった。

 益城町の大きな避難所では、夕食の配給に千人ほど列をなしていたが、並んでいる人々の秩序の良さに驚いた。全員が避難所前の敷地に入れないため、列は自然と何回も曲がり、敷地の外まで続いた。その写真を微博に投稿したところ、3千回ほど転載され、コメントも1500件を超えた。「これが国民性だ。我々とはまだ何十年何百年もかけ離れている」「本当の光景なら、日本人は恐ろしい人たちだ」などと驚いた感想が多かった。

 救出した赤ちゃんを、レスキュー隊の隊員が一人一人、両手で丁寧に次の人に渡し、救急隊員がやはり両手で毛布を持って慎重に赤ちゃんを受け取るシーンも忘れられない。自衛隊員がおにぎりを被災者に配る時、どのような人であれ、同じように尊重されているように見えた。私が熊本地震の現場で見たものは、被災者一人一人の尊厳だった。

現場主義を持ち続ける

 当事者に直接アクセスし、一次資料を読み、現場主義に徹する、これが私のモットーだ。好奇心旺盛で根掘り葉掘り物事を調べる性格の人にとって、ジャーナリストはまさに天職だ。「道端で拾った日本の石一つでも、見る視点によって中国にとってはニュース性や面白みを感じる」と上司に言われたことがある。好奇心と発見力、加えて実行力は、良いジャーナリストになる前提条件だと思う。

 日々のニュース取材だけでなく、日本での暮らしから様々な問題意識を抱き、いろんな可能性を想定し、想像力を膨らませ、一つ一つ調べて取材することは、私の一番の趣味といえる。小さなテーマでも、調べていくうちに、必ず楽しい発見がある。

 例えば、家庭ごみの油をどう捨てるか、捨て方が何種類あるかを調べると、外国では考えられないほど日本のごみ分別への意識が高いことが分かる。レストランで隣に座っていた母娘が会計の時に割り勘をしていたのを見て、日本人の家族同士のお金の感覚はどんなものかと考える。夫が娘の保護者会に参加した時、「お母様の皆さん」と先生が話すのは、なぜなのか。毎朝見るごみ収集車があんなに綺麗なボディを保つために、どんなメンテナンスをしているか、保育士不足の原因は何か、等々。調べたいテーマが多すぎて疲れてしまうのではないかと思われるかもしれないが、私にとって電話をかけ、「根掘り葉掘り」細かい質問をしてメモを取ることは、むしろストレス発散になる。見つけた「発見」をブログで中国語で発信すると、様々な反応が戻ってくるので、それらを読むのも楽しい。

 実際の取材活動では、当然のことながら発見力だけでは足りない。現場に行く実行力がもっと大事だ。どんなに年齢を重ねてベテラン記者になっても、現場主義が最も大切なことだと私は思う。民主主義の国の日本では、記者証と熱意、そして努力さえあれば、基本的にどんな人・場所にでも自由にアクセスできる。

 私は、日中関係が悪化していた時期に日本の首相に両国関係を問う単独インタビューをしたし、空母化が検討されている日本の護衛艦「いずも」の乗船取材も、中国で大きな注目を集めた殺人事件の被疑者の面会取材(東京拘置所)も、毎年8月15日の靖国神社でのリポートもした。いずれも、ちっとも躊躇しなかった。いや、誤解を恐れずに言えば、むしろワクワクしながら取材をしていた。かけがえのないチャンスが与えられていると思っているから。そして、報道では、現場で見聞きして感じたことこそ一番説得力があると思っているから。

国会前から安保法反対デモをリポート=2015年9月国会前から安保法反対デモをリポート=2015年9月
 安保法が国会で可決直前、国会前のデモを何日間も取材し、身動きが取れないほどの中で何度も中継リポートした。その場にいた人たちの雰囲気、演壇から降りた「SEALDs」の若者の顔、沈黙しながらプラカードを掲げ続ける人、警察の警備、デモ隊とのにらみ合い。中継中、スタジオにいるキャスターの質問がイヤホンで聞こえないくらい、現場は大混乱だったが、ありのままの姿を伝えた。

他人の誤報も放置しない

 東日本大震災翌年の12年、いわゆる〝尖閣国有化〟によって、ギクシャクしていた日中関係がさらに冷え込んだ。私が仕事を始めた07〜08年ころの日中関係とは様変わりしてしまった。温家宝首相(当時)が来日して日本の国会で演説し、日本の総理大臣とキャッチボールするなんて、遠い昔の出来事のようだった。日中両国の報道も批判的なトーン、ネガティブな情報で覆われるようになっていた。

 そんな中でも、私は自分の意見や論評はなるべく控え、冷静に確実な事実を正確に伝える方針に徹してきた。特に領土などの両国の国民感情を刺激する敏感な問題は、慎重のうえにも慎重に取材し、言葉を選んできた。

 ある日曜日の午後のこと。突然、本社から電話がかかってきた。「日本が宮古島でミサイルを配備した模様。中国各紙サイトでトップニュースとして出ている。夜のニュース番組で中継リポートしてくれ」というのだ。日本のメディアではそうした報道が一切出ていなかった。事実関係をまず直接取材しなければならないので、私は防衛省関係者や、宮古島の役所、配備に反対の市民団体にも電話取材した。結局、ミサイルが配備された事実はないことが分かった。

 では、なぜ中国でそのような情報が出回ったのか。出所は

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