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取材して取材して、そしてヒント

ドキュメンタリーで歴史を検証

小口拓朗 NHKディレクター(大型企画開発センター)

 あるプロデューサーは、番組の制作が行き詰まってくると、こんな言葉を掛けてくれます。「せっかくディレクターという、みんなが憧れ、やってみたいなという仕事に幸運にも就くことができたわけですから、どんどん新しいことにチャレンジしよう」。ああ本当にそうだな、と思って番組に向き合うのですが、私がNHKに入ったのは、16年前です。果たして今はどうなんでしょうか、テレビのディレクターって……。できるだけ等身大にこの仕事について描いてみたいと思います。

「企画」と格闘の日々

 ディレクターは番組ごとに存在します。ドラマやエンターテインメント、スポーツなど、さまざまなジャンルがありますが、私は、主に「クローズアップ現代+」や「NHKスペシャル」といった報道番組を担当してきました。日々のニュースを入り口にして、政治や国際情勢、事件・事故などを題材に番組を作ります。NHKの外から見れば、紛れもなく「テレビジャーナリズム」の分野ですが、私の周りでは、自らを「ジャーナリスト」と名乗る人はあまりいませんでした。どちらかというと、「テレビマン」とか「テレビ屋」と自称する先輩ディレクターがいましたが、その本意は、メディアに携わる以上、「ジャーナリスト」は当然の責務であり、それ以上に「表現者」としてテレビの可能性を広げたいという思いが強かったのかもしれません。しかし、民主主義の根幹が揺るぎかねない事態が頻発する昨今は、多くのディレクターが「ジャーナリスト」の使命をより強く意識しています。

 ディレクターは、ディレクターであり続ける限り、番組の企画を書き続けます。企画を採択し、番組を統括するプロデューサーからは、「なぜいまその企画を放送するのか?」「その企画の新しさは何か?」という二つのことが問われます。この二つは、長尺の調査報道でも、ヒューマンドキュメンタリーでも、番組の形式に限らず、同じように問われます。

 番組を制作するときに基本となるのは、取材です。一次資料や新証言を求めて、飛び回ります。その発掘や出会いが企画のタイミングや新しさに繋(つな)がり、採択のハードルを越えることが多いです。

 いざ取材に出ると相手からは、よく「記者」に間違われます。実際に、取材は「記者」に同行してもらったり、「記者」と分担したりすることがあるため、取材相手からすれば、ディレクターと「記者」の見分けはつかないかもしれません。「記者」は取材から原稿を書き、ニュースを出します。ディレクターは、取材から番組の構成を立て、カメラマンとともに、誰をどのように撮影するのかを判断し、編集マンと一緒に、映像をどのような順番で切り取るかを設計します。

 こうやって書くと、ディレクターは常に俯瞰(ふかん)に立って、番組の着地点を見定めているように見えますが、それは理想像であって、私の場合は、取材した際の状況や先入観にとらわれ、着地点どころか現在地も見失います。しかし、ゴールを誰かに決めてもらうことはありません。番組の構成も撮り方にもマニュアルはありません。取材して取材して取材して、取材の中からヒントを見つけて、一つ一つ構築していきます。意識するのは、この取材対象から何を感じたのか、ということです。何も思いつかないときは、感性のなさを嘆くのではなく、取材によるファクトが足りないからだと考えます。特段、プロデューサーから「一にも二にも取材だ!」とたたき込まれることはなかったのですが、番組づくりのピンチを救ってくれたのは、いつも取材でした。クリエーティブな引き出しが空っぽでも、取材で得たことは、カメラマンも編集マンもプロデューサーも必ず耳を傾けてくれました。

齋藤元少尉は最後に登場した

齋藤博圀元少尉が登場するラストシーン。放送後に永眠された「戦慄の記録 インパール」から
 例えば、昨夏、私は「戦慄の記録 インパール」という番組を担当しました。太平洋戦争で最も無謀と言われ、7万人もの死傷者を出したインパール作戦。番組では、冷静な分析よりも、組織内の人間関係を優先した日本軍上層部の意思決定や、飢えや疫病で命を奪われていく兵士の姿を、90歳を超える元兵士の証言やイギリスに残されていた資料を軸に描きました。

 番組のラストシーンでは、戦地で日記を書き続けた齋藤博圀・元少尉(当時23歳)が、96歳となった現在の姿で登場します。このラストシーンまでは、齋藤少尉の場面は当時の顔写真と日記の朗読だけで構成し、ご本人は一切登場しません。さらに日記では、マラリアにかかり、軍に見放された揚げ句、飢えに苦しむ様子をクローズアップしました。視聴者には、「齋藤少尉は戦死したのかもしれない」と想像してもらうことで、番組の最後に、齋藤少尉が生きて帰ってきたことを知る、という構成にしました。私は、全体構成と編集を担当したのですが、齋藤さんのラッシュを見たときから、齋藤さんの登場はこの構成でいきたいと強く思いました。結果的に、劇的なラストシーンに映りましたが、この構成も取材がきっかけでした。

 齋藤元少尉のインタビューを実施し、日記を発掘してきたのは、10年近くインパール作戦の取材を続けてきたディレクターの笠井清史です。何度も取材を重ねた末に齋藤さんにたどり着き、貴重な証言と戦地の日記によって、現地軍の指揮系統や飢えに倒れていく兵士の姿を明らかにしました。こうした重要な証言が撮れたときの制作のパターンとしては、伝えたい証言をメモ紙にひとつひとつ抜き出し、それらを眺めながら、これぞという証言を導くためにコメントやシーンを逆算して構成を立てます。今回は、齋藤さんの渾身の言葉が、編集室の壁という壁に張り出されました。本来であれば、齋藤さんの証言は番組の骨子として、番組冒頭から余すことなく構成します。編集室でも当初はそうした案が上がりました。

牟田口中将の独断か

 一方、私は、齋藤少尉らを死の淵に追いやった陸軍上層部の取材を担当しました。中でも、インパール作戦を強力に推し進めた牟田口廉也中将のご遺族には、資料や手記を提供していただきました。牟田口中将は、戦後、多くの批判が集中的に浴びせられた人物で、戦記物では「無謀な神がかりの将軍」として描かれ、「インパール作戦が惨敗に終わったのは全く牟田口の無謀なる作戦のためである」などと非難されてきました。しかし、牟田口中将は、戦後に綴(つづ)った手記で、こんな文章を残していました。

 「私は決して、南方総軍および方面軍河辺将軍の意図に背いて、作戦構想を変更し、我を通した考えはみじんもないことを、ここに明言する」

 あくまでも上司の意図通りに動いた結果に過ぎず、自らの独断によって作戦を実行したわけではない、との強い思いが記されていました。取材を進めると、牟田口中将はその強気の作戦指導によって、インパール作戦を決行し、泥沼化させた張本人であることは明らかな事実でした。ただし、その背景には、当時の陸軍の複雑で曖昧(あいまい)な意思決定があり、同じように、責任を負わなければならない指揮官たちが他にも複数いたことは確かで、牟田口中将をスケープゴートにして、幕引きを図ろうとした上層部の思惑が垣間見られました。

 齋藤さんの証言には、牟田口中将を非難するものが多数ありました。前線で補給に苦しむ兵士をよそに、牟田口中将がいた司令部では、芸者を集めて宴会を開いていたという証言もありました。それは涙ながらの重い告発でしたが、この証言の矛先を、牟田口中将に向けるだけでいいのだろうか、と考えました。陸軍という組織を動かしたひとりひとりの責任を追及すべきではないのか。その結果、番組の軸には、齋藤さんの証言ではなく、無謀な作戦の実態が淡々と記された日記を据えました。そして、その作戦を強行した陸軍の組織的な問題が浮き彫りになったラストに、地獄を見てきた齋藤さんの怒りを爆発させる、という構成にしたのです。

反響と遺族との相克

 放送後、取材による構成の意図が視聴者に伝わったのか、こんな反響がありました。ツイッターに、「あなたの周りのインパール作戦」というハッシュタグが登場し、「インパール作戦」が無謀な組織や無責任な人物を追及する代名詞となって、現代にあふれる杜撰(ずさん)な事象を次々にあぶり出していきました。

 一方、放送をご覧になった牟田口中将のご遺族から、「作戦を認めた国家の責任に目を向けるべきだったのでは」「インパール作戦に至る時代状況の説明が十分ではない」など厳しいお言葉を受けました。ご遺族にとっては、作戦の責任が牟田口中将に集中し過ぎていると感じられたのだと思います。史実として牟田口中将の責任が免れることはありません。つまり、損得で言えば、ご遺族が番組に協力して、得をすることはありません。制作者も、取材先の皆様に礼儀を尽くしても、彼らを満足させることをゴールにしていません。

 今回は、「歴史の検証」という大義に、ご遺族が応じてくださったのですが、番組のテーマにメリットを感じる方ばかりではありません。では、どのように番組に協力していただくか、その交渉は常に困難で、放送を迎える際には、取材先がどのような反応をされるのか、不安でいっぱいになりますが、番組を作る以上、この不安を取り除くことはできないと割り切っています。番組を支えるのは、取材した事実を表現したい、という制作者の欲求に尽きると感じています。

岐阜刑務所からの手紙

 取材は、番組を大きく躍動させます。この夏に担当したシリーズ「未解決事件File.07 警察庁長官狙撃事件」という番組では、得がたい経験をしました。このシリーズのテーマは、日本中に大きな衝撃を与えた事件を徹底検証し、未来への教訓を探るというものです。

 今回は、1995年3月30日に発生した「警察庁長官狙撃事件」を検証しました。オウム真理教による地下鉄サリン事件の10日後、國松孝次警察庁長官(当時)が自宅マンションの敷地内で発砲され、全治1年6カ月という瀕死の重傷を負いました。警察は、オウム真理教の犯行とみて捜査を実施。延べ48万の捜査員を投入しましたが、未解決に終わりました。しかし、捜査を主導した警視庁公安部は、犯人を特定できなかったにもかかわらず、時効の際に異例の会見を開き、「犯行はオウムの組織テロ」と断定したのです。警視庁は、オウムの後継団体「アレフ」に裁判を起こされ、名誉毀損で賠償を命じられるという、前代未聞の展開を見せました。

 番組のきっかけは、「未解決事件」の番組班宛てに、真犯人を名乗る男から、手紙が届いたことでした。差出人の名前は、中村泰(ひろし)。2002年に名古屋で起こした現金輸送車襲撃事件などで無期懲役に処され、岐阜刑務所に収監されていました。書き出しは、こんな挑戦な文章でした。

 「私が公共報道機関の代表とも目されている貴局に期待していますのは、国家的大事件の真相が隠ぺいされて未解決のまま闇に葬られるのを座視することなく、広く社会に訴えてもらうことですから、私としてもそのためにできる限りのご協力をするつもりでいます」

 さらに、こう綴られていました。

 「捜査段階でも秘めておいた、二、三の新事実を用意しています」

 ディレクターとしては、思わず飛びつきたくなる誘いです。同時に、〝利用されるのではないか〟〝だまされているのではないか〟という警戒心が募りました。

真犯人か「なりすまし」か

警察が押収した中村泰の証拠品。運転免許証などを偽造するための証明写真「未解決事件File.07警察庁長官狙撃事件」から
 中村泰の存在は、書籍や民放の特番で、何度か取り上げられていました。その容疑性を高く評価するものもあれば、真犯人になりたいだけの〝なりすまし〟とするメディアもありました。NHKでも、中村が浮上した直後の2004年からマークしていましたが、その名前が長官狙撃事件の容疑者として、ニュースになることは一度もありませんでした。なお、時効の際に、長官狙撃事件の取材を担当した社会部の清水將裕は、「中村の容疑性は検証する必要がある」と記者としての嗅覚を働かせていました。

 清水に背中を押された私は、この事件を番組にするのであれば、決定版を作りたいと思いました。笑われるかもしれませんが、当局の捜査情報を超えて、NHKの取材によって、犯人を特定したいと考えたのです。

 こうして、真犯人だと主張する奇妙な男、中村泰とのやりとりが始まりました。中村は、警察に押収された4千点を超える証拠品やアジトの所在を明示し、自らの犯行を裏付けるために会うべき人物まで羅列してきました。

 中村の情報を吟味し、ひとつひとつ裏付けをとるために、事件発生時は、まだ8歳で、長官が撃たれたことも記憶になかったディレクターの笹川陽一朗が番組に参加しました。笹川は中村の家族や関係者を割り出して、精力的に取材を進めました。中村が、「少年時代には5・15事件に参加した『愛郷塾』という右翼団体にいた」と手紙に書いてくれば、95歳の最年長の塾生を探し出して、中村が在籍したことを確認しました。東京大学に入学したという中村の学歴を調べるため、東大の教務課で在学証明書も発行しました。

 中村に対しては、オウムの捜査を進めた警視庁公安部とは別に、警視庁刑事部が捜査を行っていました。その中心人物で、200日以上にわたり中村の調べを行った捜査一課の元捜査員、原雄一氏に取材に応じてもらいました。原氏は、「中村は限りなく黒に近い」とその容疑性を確証しながら、

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