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若手記者体験記《同級生と被害者》

「ありがとう」胸に 取材に自問自答

玉木祥子 朝日新聞岡山総局記者

 朝日新聞社に入社して2カ月が経った今年5月末、岡山県津山市で2004年に起きた女児殺害事件の容疑者が逮捕された。被害者は当時小学3年生の筒塩侑子(ゆきこ)さん。学校から帰宅した侑子さんが胸などを刃物で刺されて倒れているのを家族が見つけた。14年間、有力な証拠や情報がなく、捜査は難航していたが、別の事件で服役中だった男が犯行をほのめかす供述をし、事件は急展開を迎えた。

 侑子さんがもし生きていたら、今の自分と同じくらいの年齢になっていただろう。とてもひとごとには思えなかった。津山市内で侑子さんの関係者取材をする中で、事件当日に一緒に下校したという同級生の女性を取材することになった。

 すでに他社の取材を受けていた女性は「精神的につらい」と言いながら、取材に応じてくれた。侑子さんと最後に別れた横断歩道、よく遊んだ神社、小学校への通学路。思い出の場所を一緒にたどりながら話を聞かせてもらった。

自らを責め続ける同級生

紙面 2018年6月4日付、朝日新聞朝刊社会面(大阪本社版)紙面 2018年6月4日付、朝日新聞朝刊社会面(大阪本社版)
 14年ぶりに訪れたという横断歩道。着いてすぐ、女性は「事件以来ずっと避けてきた場所なんです」と打ち明けた。ぽつりぽつりと話し始めた女性は、あの日はいつもと変わらずケラケラ2人で歩き、横断歩道で「じゃあね、バイバイ」と手を振ったこと、またすぐに会えると思って別れたことを話してくれた。

 神社には、女性が侑子さんと一緒に遊んだ鉄棒やブランコが残っていた。「手はこう(逆手で)持ってな、脇は締めて」と言って侑子さんが逆上がりのお手本を見せてくれたこと。ブランコで立ちこぎをして、高いところまで上がる侑子さんを隣のブランコに座って見上げていたこと。まるで昨日のことのように詳細に思い出を語ってくれた。

 通学路を一緒に歩きながら、少しでもフランクに胸の内を話してもらえればと思い、当時はやった「とっとこハム太郎」や「プリキュア」などアニメの話題を会話の取っかかりにした。小学生の時、私が泥団子作りに熱中していたことを伝えると、「あ、思い出した」と言って侑子さんと泥団子を作って遊んだことを話し出す場面もあった。きゃっきゃと声をあげて楽しそうに遊ぶ2人の姿が目の前に浮かんでくるかのようだった。

 ただ、女性は侑子さんへの謝罪の言葉を何度も口にした。「最後までいたのになぜ助けられなかったのか。助けてあげられなくてごめんねっていう気持ちはこれからもずっと持ち続けると思います」。14年経った今でも、自らを責め続ける女性の心の痛みを感じた。

 取材を受けることは彼女にとって、とてもつらいことのはずだ。取材の終わりに「なぜ取材を受けてくれたんですか」と質問した。女性はこう答えた。「本当は取材を受けたくないんです。でも、自分が侑子ちゃんと最後までいたから、ちゃんと話す必要があると思って、取材を受けています」。強い覚悟を感じた。

 女性への取材をもとにした記事が6月4日の朝刊社会面(大阪本社版)に掲載された(紙面)。女性に記事を送り、取材のお礼を伝えると、「もう連絡はしないでほしいです」と頼まれた。今後も連絡を取りたいと思っていたため、ショックだった。侑子さんとの思い出や事件当日のことを深く聞きすぎたことで、つらい記憶を思い出させてしまったのではないか。自分はあの記事を書いてよかったのだろうか。そんな思いにとらわれた。記事を書くためには取材先に深く話を聞く必要があるが、それが相手につらい思いをさせることにもなりうる。記者の仕事の難しさを感じた。

がれきの中から母の遺品を探す男性

 それから約1カ月後、西日本豪雨で岡山県は甚大な被害を受けた。私は豪雨の犠牲になった人たちの取材にあたった。

 最初に取材したのは、井原市の40代の女性の遺族だった。自宅が土砂崩れに巻き込まれ、女性と息子2人が生き埋めになった。息子2人は助かったが、女性は命を落とした。20代の次男が取材に応じてくれ、1階部分が大きく壊れた自宅の前で話を聞いた。

 がれきの中から母親との思い出の品を探す男性。男性も自分と同世代、亡くなった母親も自分の母親と同年代だ。「もし自分の母親だったら」と想像すると胸が痛んだ。誕生日に母親に贈ったクッションを見つけた男性は「渡した時、うれしそうでしたよ」と一言。言葉に詰まりながら「母との思い出、次々出てくるなあ」とつぶやいた。母とのありふれた日常をぽろぽろと話しては、止まって、また話して、止まって。「なんて言えばいいんだろう」。そう口ごもった時は、次に話し出すのをゆっくり待った。自然とあふれ出てくる母親への思いに耳を傾けた。「自分はその場に居合わせてもらっている身だ」と自分に言い聞かせ、根掘り葉掘り聞くことはやめた。

 がれきの中からコーヒーの袋を見つけると、男性は「あの日も家族で食後にコーヒーを飲もうとしていたところだったんですよ」。その日も仏壇にコーヒーを供えてきた、と教えてくれた。男性の母親へのあふれる思いを、多くの人に伝えたいという一心で記事にした。

夫を亡くした真備町の女性

 次に取材したのは広範囲に浸水した倉敷市真備町から市内の小学校に避難していた70代の女性だった。約15年前、夫婦の「終(つい)のすみか」として2階建てから平屋に建て替えた自宅が被災し、夫が行方不明になっていた。「旦那さんのお話聞かせてもらってもいいですか」と頼むと、取材に応じてくれた。

 真備町を流れる小田川の支流・末政川が決壊し、末政川のすぐ近くにある自宅がどんどん浸水していったこと、隣家に避難するために水の中を潜って玄関に向かった夫の姿が見えなくなったこと、自分をなんとか助けようと体の弱かった夫が無理をしたと思っていること。当時の様子を克明に話してくれた。

 初めて取材した日の数日後、夫の遺体が自宅玄関で見つかった。その後も取材を続けたいと思い、避難所に通ったが、「また来たの? 話すことないよ」と取材を断られることもあった。避難所暮らしが長期化し、疲れきった表情の女性を見て、「元気ですか? また来ますね」とあいさつだけして帰ったこともあった。

 夫を亡くし、ただでさえつらい気持ちでいる女性に「取材を続けていいのだろうか」と自問自答した。「こんな取材をしている自分は人の心を持っていないのではないか」と思ったこともあった。

 約1カ月間で計10回ほど通う中で、女性から夫の思い出話を語り出すこともあった。寡黙で気難し屋の夫だったが、被災した自宅を片付けに行った時に居間で見つけた夫の財布の中から新婚旅行の写真が出てきたという。うれしそうに話しながら、泥を払い、破れた場所をテープでとめた写真を見せてくれた。豪雨発生1カ月の紙面で、この夫婦の話を記事にした。女性に新聞を送って数日後、女性からはがきをもらった。はがきには「本当のことを書いてくれてありがとう。大変な仕事だと思いますが、頑張ってね」と書いてあった。胸の奥が熱くなった。

 入社約半年でこんなに多く、犠牲者の遺族や友人に取材をするとは思っていなかった。取材をする時は正直、申し訳ないという気持ちでいっぱいだったが、振り返ると、記者経験が少ないこともあってか、ひとりの記者としてというより、「まず、ひとりの人間として相手と向き合おう」と自分に言い聞かせていた。

 家族や親友を失い、かけがえのない日常が突然奪われてしまった。そんな深い悲しみを抱えた人たちの胸の内を聞くことは容易なことではない。何が正解なのかは分からないが、これからも悩み続けながら、出会う人ひとりひとりと向き合っていきたい。

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※本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』10月号から収録しています。同号の特集は「ジャーナリズムへの誘い」です。