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社会を切り取り、解釈する前に

自分の「正しさ」、疑う胆力を

初沢亜利 写真家

 自分の正しさを主張するために社会を解釈してはならない。

 間違っているのは私(私たち)かも知れない、からスタートしよう。

 いつしかこのような意識で現場に立つようになっている。

 これまでイラク、北朝鮮、被災地東北、沖縄をテーマにした5冊の写真集を出版してきた。東京に暮らし、メディアの情報に触れる中で蓄積された先入観を排除し、目の前にある事象を「ちゃんと見る」ことは容易ではない。地域の声に耳を傾けると、様々な立場の考え方に引っ張られ、いつしか多様性の海にのみ込まれてしまう。自分の立ち位置が揺らぐ感覚こそが、私にとって作品の制作過程において一つの醍醐味(だいごみ)だ。そこに暮らす人々は、私が眼差(まなざ)し、解釈するために存在しているわけではないのだから。

「眼差し」をみられている

嘉手納基地のフェスタにて2014嘉手納基地のフェスタにて2014
 写真集を見たフォトアートの関係者の多くは、時事的なテーマの選び方や写真集巻末の長い後書き、作品発表に伴う発言内容からこれはジャーナリズムだと感じるようだ。一方ジャーナリストからは、極めて個人的な写真表現として受け取られることが多い。朝鮮半島で使われる言葉にすると分かりやすい。「写真作家」か、それとも「写真記者」か。

 沖縄の写真集を例にとると、辺野古の海で抗議船に乗り、海上保安庁職員と揉(も)み合う中での写真もあれば、お盆の時期に沖縄独特の亀甲墓の上で居眠りをする2人の少女の写真もある。天皇陛下訪沖の際、平和祈念公園入り口で「天皇陛下万歳」と書かれた横断幕を掲げる沖縄右翼の整列写真もあれば、国際通りのスターバックスで勉強する黒いリクルートスーツを着た専門学校生の集合写真もある。日常を追えば政治が顔を出し、政治を追えば日常が見えてくる。目の前に繰り広げられる人間模様からファインダー越しにエッセンスを抽出していく過程で、ジャーナリスティックな問題設定そのものがむしろ変化を迫られることになる。

 2015年に「『周縁からの眼差し』~東北・北朝鮮・沖縄報告~」と題した写真展を開催した。別個の苦悩を抱える土地を並列することが、それぞれの被写体に対して不敬であることを重々考えてのことだった。

 コーナーを分けての展示は、観(み)るものにとって不思議な統一感があったようだ。一貫しているのは、哀れな被災地、非道の北朝鮮、南の楽園沖縄といった我々が期待する「らしさ」がどこにも写っていない、ということだった。

 言うまでもなく、写真は撮り手の眼差しの表現だ。しかし一方で被写体も撮影者を見ているのだ。カメラに向ける目線の有り無しのことではない。被災者も北の人民も沖縄人も、私がどこからやってきて、どのような態度で何を撮ろうとしているのかを見ていた。

 東京の写真展会場で作品を観る客を、被写体が写真の向こう側から眺め返す。「周縁からの眼差し」というタイトルの意味はそこにあった。自分の都合で我々を眼差さないでください。写真の中から声を発し、そう語りかけているようにさえ思えた。

「抑圧者」自覚した学生時代

 ジャーナリストが対象に選びそうな地域に、確信を持ち飛び込むようになったのは、35歳をすぎてからだった。しかし、そのきっかけは恐らく学生時代に遡(さかのぼ)る。時間を巻き戻して記したい。

 小学校の6年間、児童合唱団にいた名残で、大学生活前半はグリークラブ(男声合唱団)に所属していた。しかし、歌手を目指すわけでもなく趣味で歌っていても未来につながるとは思えず、紆余(うよ)曲折を経てサークルの写真部に入ることになった。お勉強の方では文学部社会学科でジェンダーのゼミに入った。

 当時はアラーキー(荒木経惟氏)全盛の時代であり、真似(まね)事のようにヌード写真の撮影にも憧れた。一方、男性による構造的、意識的女性差別について様々な本を読み小さな論文を書いたりした。欲望と理性が分裂し、並走することは不可能だった。フェミニズムを真面目に学ぶ男子学生として女性の指導教授に進学をそこそこ期待されたが、卒業式後の懇親会で「何の落とし前も付けずにやめるのね」と刺さる言葉をいただき、写真家の道へと歩み始めた。

 なぜジェンダーのゼミを取ったのか? 差別問題の入り口は被抑圧者の告発に始まるが、最終的には抑圧する側が意識を変えなければ解決に至らない。差別の問題を考えるならば、自分が抑圧者の側に身を置くテーマを選ぼう、と直感してのことだった。

デビュー、偶然のバグダッド

 写真家になるには、作品が評価されなければならない。大学卒業時に応募した、ドキュメンタリー系の「太陽賞」の最終選考に残った。雑誌「太陽」の誌面には審査員の一人だったアラーキーが「感性あり、感情あり、写真才あり、これかな?」と賞に推したことが分かるコメントが書かれていた。憧れの天才からいただく称賛は時に人生を大きく狂わせる(笑)。この道でいこう、と自信過剰になった。その後新宿3丁目の酒場で知り合った東京新聞記者から都内版での連載のページをもらうことができた。幸先のいいデビューだった。1年半写真と原稿の連載を150回続ける中、貸しスタジオでアシスタントとして働いた。サークルの写真部ではライティングを学ぶことはできない。重たい機材を抱え地下1階から3階まで駆け上がる肉体労働の日々だった。写真家を続けるには商業カメラマンとして生計を立てる必要があった。どんな注文がきても不安なく撮影をこなす技術を身につけたかった。

 20代後半に独立し依頼仕事をこなす日々はそれなりに充実していた。働くほどお金が入ってくる感覚は悪くなかった。いつしか作品制作からは離れていった。依頼された条件下で最大限結果を残すことと、自発的にテーマを決め撮影し発表することの両立は極めて難しい。使う脳が違うのだ。ライターと作家の違いに例えると分かりやすいかも知れない。

 20代最後の年、通い慣れた新宿ゴールデン街の店で焼酎の牛乳割りを飲んでいると、時折挨拶(あいさつ)する新右翼団体「一水会」の木村三浩代表が入ってきた。2002年12月のことだ。「来年2月に30人を連れてイラクのバグダッドに反戦運動に行く。カメラマンも一人連れて行きたいが、よかったら行くか?」と唐突に誘われた。滞在中に戦争が始まってしまうかも知れない。そんな危険な場所での撮影を考えたこともなかった。いったんは躊躇(ちゅうちょ)したが、依頼仕事に追われる日々から抜け出したかったこともあり、参加を決めた。

 滞在時期から3週間後にイラク戦争は勃発し、その3週間後にフセイン像が倒され大規模な戦闘は終わった。10日ほどの滞在で関わったイラク人がどうしているのか気になり、戦闘終結から2カ月後に今度は一人で行くことになった。

 帰国後、ある出版社の社長から写真集にしよう、と提案をいただき、その年の冬に『Baghdad2003』を出版した。反戦カメラマンという扱いでメディアの取材を受けることになった。人生初の写真集を出すことができ、多少は浮かれてみたが、徐々に気持ちが落ち込んでいった。自分の行いがあまりに安易に思えたからだ。対象との関わりも単なる偶然で、滞在期間も短く、何より動機が不明確だった。自分自身の軽率さと軽薄さに耐えられなくなった。

午前5時、東京で人を撮る

写真展 東京午前5時、200人のポートレイトのポスター写真展 東京午前5時、200人のポートレイトのポスター
 そんな時期にある月刊誌から巻頭グラビアの撮影依頼がきた。東京がテーマであれば何でもいいという。しばらく考えて午前5時のポートレイトを撮りたい、と提案し承諾を得た。新宿で明け方まで飲んだ後、帰宅途中に出くわす人間模様に以前から興味を抱いていたから
だ。

 ひと月ほど撮影を重ね、写真8点を納品したが、撮影は骨の折れるものだった。仕事が終わり家路につく者、急ぎ足で仕事に向かう者、変わらずしゃがみ込んでいる路上生活者。「写真を撮らせてください」と頼み込んでもほとんどは断られた。ティッシュ配りが無視をされるのと同じ扱いを受けた。昼間はスタジオでカッコよくアイドルを撮っている自分との落差から自尊心が傷ついた。

 しかし、人の写真を撮る、とは本来こういうことではないか?という気付きも得た。バグダッド写真集の挫折から立ち直るためにも、必要な苦労だと感じた。「東京午前5時、200人のポートレイト」を2007年に個展で発表するまでに、断られた数は千人を超えた。それでも3年間、自分が住む街で被写体一人一人と向き合ったことで、次の段階に進んでもいいような気がした。

「全否定される国」へ

地方からの見学者たち。平壌市内。写真集『隣人、それから。38度線の北』から地方からの見学者たち。平壌市内。写真集『隣人、それから。38度線の北』から
 バグダッドで私が見たものは独裁国家がアメリカの一方的な攻撃を受け滅びる姿だった。日本のすぐ隣にある北朝鮮のことが気にならないわけがなかった。

 拉致問題と核・ミサイル問題で日本政府、メディア、国民から全否定されているこの国を自分の目で見たい、という欲求が膨らんでいった。イラク渡航は成り行きだったが、北朝鮮については様々な本も読み、一定の考察を経て、2009年に朝鮮総連中央本部に企画書を提出することから始まった。

 その後7回訪朝し、今年2冊目の写真集を出版するほどまで執着することは予測しなかったが。

 2010年に初訪朝し、11年から撮影を開始する予定だったが、そのさなかに東日本大震災が起きてしまった。

 宮城県名取市に入ったのは翌日だった。どの写真家や映像作家よりも早かっただろう。フリーランスは上司に行け、と命じられることはない。従って自分がそこに行く意味があるのかを決断しなければならない。何を撮りどう伝えるかを考える以前にまずは行くことを選んだ。

「桜に希望」、よそ者の感覚

2011年4月末に咲いた気仙沼の桜。写真集『True Feelings』から2011年4月末に咲いた気仙沼の桜。写真集『True Feelings』から
 夜明けを待ち、水の引いた名取市閖上(ゆりあげ)に消防団と共に入った。瓦礫(がれき)に覆い尽くされた一帯には道路がなく、足元に注意しながら歩くと100メートル進むのに5分かかった。建物が流されたことで5キロ先の海岸を見渡すことができた。そして何より印象に残っているのは静寂さだった。核戦争が起き、地球全土が消滅した後は、こんな感じなのだろうか、と冷静に想像した。不思議と悲しみの感情は湧き上がってこなかった。静けさだけが身に染みた。

 さて、ここからどうするか?

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