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海越え息づく「盆唄」巡る旅

福島と沖縄、命と営み見つめ

中江裕司 映画監督

 ハイサイ、グスーヨー、今日拝ナビラ、我ネー、ウチナーヌ映画チュクヤーヌ、中江裕司ヤイビーン。ユタシク御願イサビラ。皆さん、こんにちは。私は沖縄で映画を作っている中江裕司です。よろしくお願いいたします。いきなり、私の住む沖縄の言葉、ウチナーグチであいさつをさせていただきました。

 京都出身の私が沖縄に来たのは1980年、琉球大学への入学のため。家賃9千円で間借りした貸家の床下には米軍の不発弾が眠っていて、私は7年間不発弾の上で寝起きした。沖縄での一番の衝撃は、ウチナンチュ(沖縄人)は、沖縄戦で家族の1人は亡くしているという事実。ウチナンチュを救わなかった日本軍とヤマトンチュ(本土人)の姿が重なり、厳しい言葉が私にとんできた。「クヌ、腐レナイチャーグワーヤ、ヤマトへケーレ(この腐った日本人は、本土へ帰れ)」。最近でこそ聞かなくなったが、当時の沖縄では普通に聞かれた言葉だ。私は人生をやり直すしかなかった。厳しいウチナーおじさんに鍛えられ、情け深いウチナーアンマー(沖縄のお母さん)に育てられた。

双葉に魂おいたまま

福島県いわき市の仮設住宅で、双葉町の人たちによる「やぐらの共演」が始まる前に撮影。カメラを中心に円を描くように人が並ぶと、みなが1枚の写真に収まる

双葉町にある破壊された自宅前に立つ横山久勝さん。周囲は草木が生い茂っていた。上の2枚はいずれも、戦前にハワイで使われていたという360度回転しながら撮影できるサーカットカメラを使ったパノラマ写真で、写真家の岩根愛さんが撮影

 始まりは6年ほど前、写真家の岩根愛さんから「福島の双葉町の盆踊りメンバーとハワイの日系移民の交流を撮らないか」と誘われた。ハワイにも、福島にも知り合いのいなかった私は「ご縁がないので」と断った。

 双葉町は福島第一原発が事故を起こした町。多くのジャーナリストや映像作家たちが、震災後、福島に入り、題材の宝庫だと言うことに嫌悪を感じた。何のご縁もない私は福島で撮影をすることはないと思っていた。

 その後、偶然に沖縄系ハワイ移民たちのドキュメンタリーを、NHKで2本連続撮影。ハワイ日系移民の人たちにご縁ができた。あきらめない岩根さんは「中江さん、ハワイの日系人に縁ができたじゃないですか。そろそろ、私の企画をいっしょにやりましょう」と言われ、具体的な話を聞くことにした。

 まずは双葉町の太鼓集団「標葉(しねは)せんだん太鼓」の会長、横山久勝さんと会った。カメラマンを同行させたが、撮影をするかはわからなかった。横山さんはぼくとつな人柄で、自分のことを語りたいようには見えない。なのに双葉町のことを聞くと、堰を切ったように話し続けた。「双葉の家に行くと、用事はないけれど帰りたくない。何か理由をつけて家にいたくなる。現在、自宅のある本宮(福島県本宮市)に戻る時、どうして自分は逆に向かっているのかと思う」。この人は魂を双葉においたまま、本宮で生活をしている。横山さんを撮りたいと思い、映画「盆唄」の撮影に取りかかった。

 横山さんは双葉町の電器屋を営む60代のフツーのオヤジ。木が大好きで大木を見ると抱きついてしまう。木目を愛しすぎて、独学で太鼓を作った人。ただの田舎のオヤジだが、太鼓を打つと突然カッコイイ。腰が入り、全身を使って太鼓を打つ。人なんだけど、動物的な匂いがする。私も人から熊だとか、パンダだとか言われるので、似たようなものなのだろう。横山さんと私、2匹の動物が匂いを嗅ぎ合って、コイツとはいっしょにいてもいいと思ったのかもしれない。

思い出つまった故郷

 震災から5年後、2016年。横山さんと親友の今泉春雄さんの案内で双葉町に入った。双葉で通った小学校に行くと、2人は童心に戻っていた。ザリガニを捕まえて煮て食べたとか、カエルに草の汁で作った毒薬を飲ませたとか、おかしくて面白い話ばかり。あまりの面白さに、ここは放射線量が高く帰還困難区域であることを忘れる。小学生たちが作った空き缶の恐竜が、蔓に覆い尽くされている。双葉の風景が現実に呼び戻す。

 山沿いにある横山さんの小屋に行く。太鼓の練習や障がいのある子どもたちに太鼓を教えていた場所だ。植物に覆い尽くされた扉を開くと、太鼓が一つ転がっていた。横山さんは「音なんかするのかな」と、言いながらバチを握り、太鼓を打った。その太鼓の音は波のように寄せては返し、私の魂をうった。横山さんも「震災以来、はじめて帰還困難区域で太鼓を打ちました」と、興奮気味だった。双葉の町や動物や植物たちは、太鼓の音を待っていた。人だけがそこにいない。

 海に行くと、今泉さんが「フツーだ。フツーなんだけどな」とつぶやいた。横山さんは海ばかり見て「沖縄の海に負けてないでしょ。昔はこの海に潜って貝を獲ったり、魚を捕ったりした」と、海の自慢ばかりするので私は「今度の取材の時、いっしょに双葉の海に潜りましょう。横山さんは貝や魚を捕ってください。私はそれを撮ります」と、言った。横山さんはいいよと言った。それからが大変。双葉の海は、事故を起こした原発のすぐ近く。スタッフは誰が放射能の海に入るのかと、検討を重ねていた。私は1人で撮ってもいいやと思っていた。海に入る撮影の数日前、横山さんから電話があった。「監督、やっぱり海には入れない。俺は入ってもいいけど、俺が海に入ることで他の避難者に迷惑がかかる。それはできない」と。「わかりました、やめましょう」と私。

 横山さんは20年以上続けてきた太鼓作りを、避難先ではやめていた。「作る時に音が大きく、近所迷惑になるのでできない。自分だけでなく、避難者みんなに迷惑をかける。だから避難者は……と言われたくない」。工夫をして作った太鼓作りの道具も友達にあげてしまった。もう太鼓作りはできないしすることはないと、自分に言い聞かせないとやめられないのだろう。その顔は悲しそうだった。

 沖縄は戦争ですべてを失った。金持ちも、貧乏人も、士族も庶民も、何もない状態から立ち上がったから、みんなで心を合わせて復興できた。しかし、福島の人たちはお金によって分断されている。お金が、嫉妬、やっかみ、憎悪を増幅している。「避難者はお金をもらって遊んでいるのか」。その声によって双葉の人たちは盆踊りすらできない。困った時はお互い様、という日本人らしさはどこへ行ったのか。福島の人たちの心は、お金によって引き裂かれている。嫉妬する人、憎悪する人も、したくてしているのではない。お金と原発事故処理政策が、そうさせている。横山さんは「原発事故の補償金は終わりにした方がいい」と言う。そうしないと分断がずっと続くと。何かがおかしい。私の気持ちがうずく。日本人で原発事故に責任のない人はいない。私は何をすべきなのか。

「ナビィの恋」への批判

 かつて、沖縄県名護市辺野古で「ホテル・ハイビスカス」という劇映画を撮影した。すでに辺野古は米軍基地の移設問題でホットな場所。沖縄の地元の新聞は、辺野古でお気楽な娯楽映画「ホテル・ハイビスカス」を撮るなんてけしからんという論調で書いた。スタッフや俳優たちは傷ついた。娯楽映画であるのは間違いないが、私にとっての沖縄戦を撮ろうと思った映画だった。

 1980年に沖縄に移住した私にとって、ウチナンチュは沖縄戦で家族の誰かを失っていた。この事実は当時の私には衝撃だった。未来を生きるはずだった子どもたちも、沖縄戦でたくさん亡くなっていた。沖縄戦で亡くなった子どもたちのためにこの映画を作ろうと私は思った。撮影前だったので、書いた新聞記者は映画の内容を理解していなかっただろう。前作「ナビィの恋」がお気楽な南島の恋物語だったから、きっと同じだと思ったに違いない。「ナビィの恋」が沖縄で大ヒットして、NHKがそれを受けて朝ドラで「ちゅらさん」を作り話題となり、大ブームとなった。その現象を、沖縄の知識人たちは、沖縄の基地の問題をお気楽なパラダイス的沖縄像にすり替えたと批判した。「ナビィの恋」を作ったヤマトンチュが、沖縄をおかしくしようとしている。「ナビィの恋」はウチナンチュに向けて作った映画だったので、私にとっては悲しい現実だった。沖縄と日本の間には深い溝がある。沖縄戦、日本復帰、海洋博と、日本人が沖縄人のことを下に見て、だまし続けたことが私にはねかえる。沖縄の文化人、知識人たちから批判され続けた「ナビィの恋」。映画が元気を無くし、私も映画も下を向いて歩いていたら、カマボコ屋のおばちゃんに怒られた。「監督さん、下向いて歩いてたら、みんな心配するよ。道は顔を上げて歩きなさい」。市場のおばちゃんたちは口々に「あんたの映画は面白かったよ。笑ったし、泣いたさー」と、言ってくれた。情け深くて、したたかに稼いで、冗談やエッチな話ばかりしている沖縄のおばちゃんたち。映画を作るとは、一般大衆、庶民の側に身を置くことだよと強く教えられた気がした。

「つらい顔」より希望を

 福島の報道にも似たことを感じる。沖縄でも、福島でも、地元の人は、被害者であることが求められる。避難者はつらい顔をして、自分たちの被害を訴えなければならぬ。基地の街に住む者は、常に基地被害を訴えねばならぬ。そういう報道が続けば続くほど、そこにいる人の営みが見えなくなる。

 沖縄の基地問題をいろんな本土のマスコミが取り上げる時、違和感をもつことがある。基地は米軍の犯罪も生む。事故の危険性もある。米軍機の騒音の問題もある。でも大きな問題が見過ごされているような気がしてならない。ウチナンチュは、沖縄戦によって誰かしら家族を失っている。その行き場のない悲しみを抱えているからこそ、戦争につながる基地に反対する。沖縄戦で、家族を失った悲劇は、子に、孫に、ひ孫に伝えられていく。戦争体験を決して語らない年寄りからは、聞いてはいけないという悲しみの大きさが伝えられていく。沖縄の基地問題は、イデオロギーの問題ではなく、日本の社会問題でもなく、身近な家族の命の問題なのだ。

 現在、私が代表をつとめる「桜坂劇場」の建物は、1950年に作られた。最初は「珊瑚座」というお芝居の劇場だった。その後、映画館となり、私たちが運営する「桜坂劇場」も一貫して沖縄の娯楽を支えてきたと自負している。沖縄戦直後の45年のクリスマス、小学校のグラウンドで演じられた「花売の縁」という組踊り(沖縄の音楽劇)には、数万人の観客が集まった。「桜坂劇場」のある桜坂周辺にも、テントの芝居小屋が立ち並び、人々は芝居や音楽に夢中になった。食べ物もない時代、お腹はひもじくても、人々は娯楽を求めた。その観客たちの強き欲望が私たちを育ててくれた。映画にできることは観客を楽しませること。私は映画に鍛えられた。映画は常に大衆の側に身を置く。それが娯楽という意味だ。

 映画は、イデオロギーや社会を糾弾するものではない。結果的に、そうなることはある。それはそれでいい。作り手は、観客にとって面白い映画を作らねばならないという使命と責任を負っている。この「盆唄」も娯楽でなくてはならない。大衆は大変厳しい。面白いものしか見ない。どうすれば

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