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震災8年、忘却と無関心に抗うために

メディアはプレイヤーとして地域の中に

小松理虔 ローカルアクティビスト(地域活動家)

 朝6時半に目覚め、娘を起こして朝食をとり、妻と娘を送り出し、少し遅れて自分の事務所へと向かい、午後6時くらいまで仕事をする。帰宅したら家族と夕食を食べる。時には男の料理なんかもして、娘を風呂に入れて寝かしつけ、だいたいその時に寝てしまう。それが私の毎日。以前ほど東日本大震災直後の日々を思い出すことは減ったし、夢に見ることもほとんどなくなった。当たり前に福島県産の食材を食し、休みの日には近くの公園で子どもを遊ばせている。日々の暮らしは、これを読んでいる読者の大半と同じようなものだろう。

 しかし、日々の生活のふとしたところにこそ震災や原発事故は顔を出す。

 公園に設置されたモニタリングポスト。海沿いの眺望を遮る防潮堤。夕方、何気なく見ているテレビで取り上げられる空間放射線量。ニュースを見れば、同じ県内に「帰還困難区域」が存在することの不条理を感じずにはいられなくなるし、ふとフェイスブックを開けば、震災後に県外に移住した友人や、県外から福島第一原発が立地する双葉郡内に移住して華々しく活躍する知人、子どもの被曝を気にかける同級生の投稿を目にしない日はない。

 そんな時、自分が震災後の福島に生きていることを強く実感する。あの日、私たちの暮らしも、人間関係も、食に対する考えも、人生観も何もかもが変わってしまった。もう、震災前を生きることはできないのだと。そして、震災と原発事故が切り裂いたものに思いを馳せ、うろたえてしまうのだ。

 かつての日々を取り戻したように見えて、その実、暮らしは引き裂かれたまま、私たちは震災後の日常を生きている。

 被災地の内/外。食べる/食べない。賛成/反対。当事者/非当事者。多くの物事が二項対立化していき、そしてその語りにくさの外側では圧倒的な速さで「忘却」や「無関心」が広がっている。

 これからは震災を知らない世代が続々と生まれ、育っていく。端(はな)から知らないのだから「忘却」どころの話ではない。近い将来、震災や原発事故を語る人は、圧倒的なマイノリティになっていく。

 震災から8年になる。忘却や無関心、そして語りにくさという課題に、私たちはどのように立ち向かっていくべきなのだろうか。

 小さなコップのなかで嵐を巻き起こしたところで、事態を変えることは難しく、外側に情報を伝えられない。震災を生きた人とそうでない人の間の「伝わらなさ」の問題は、ますます大きくなっていくはずだ。では、私たちはいかにして空間的・時間的な「外部」へと情報や思いを届けていけばいいのか。これまでの実践を通して感じてきたものを中心に考えていきたい。

マジックワード「復興」

 まずはじめに考えたいのが「復興」の捉え方の問題だ。

 復興とはなんだろう。震災以後、この二文字が地元のメディアに躍らない日はない。誰もが復興を目指し、復興を語る。しかし、その復興が何を指すのかは、ほとんど誰も語らない。私は震災直後から、この「復興」という言葉に強烈なモヤモヤを感じながら生活してきた。

 誰もが復興を語る。自分も復興に動員される。それなのに誰もゴールを示してはくれない。ゴールなき復興は次第に「マジックワード」になり、具体的な中身などないのに、復興を語ると何かポジティブなことに取り組んでいるような気になれてしまう。高揚感や一体感もある。しかし復興は本当に進んだのだろうか。

 復興とは、かつての日常を取り戻すこと、すなわち「被災者ではなくなること」でもあると私は考えている。言い換えれば「復興」という言葉は、まだ復興していない人が使う言葉だ。被災者は、被災者でなくなるために「復興しよう!」と叫ぶ。しかし、復興を叫ぶほど自分が「復興が必要な人」=「被災者」であるという立場を固定化してしまう。とても矛盾に満ちた言葉なのである。

 これまでを振り返れば、復興という言葉は外側から押し付けられた言葉でもあっただろう。福島で起きることが、簡単に復興に結びつけられてしまうのだ。地元の高校生が合唱コンクールで金賞を取れば「復興の歌声」になり、子どもが生まれれば「復興の産声」になる。ランナーの快走も球児の活躍も「復興」という言葉とともに語られていく。そうして復興は、「聞こえの良さ」をまといながら、私たちを被災者の立場に固定していく。

 私個人の身にも覚えがある。震災直後の2011年5月。私は、友人とともに地元の商店街に空きテナントを借り、小さなコミュニティスペースをオープンした。震災後に計画が生まれたわけではなく、2010年くらいから温めていた企画で、実は2011年3月12日に海沿いの空き物件の契約書を取り交わす予定になっていたのだ。その物件が津波をまともに受けてしまい、それで仕方なく別の場所にあった物件を借りただけで、このコミュニティスペースは「震災がきっかけ」ではなかった。

 ところが、取材にやってくる地元のテレビ局の記者は「被災者同士の交流の場」というストーリーを持ち込んでくる。私が「震災とは関係ない」と言っても、「とはいえ震災で感じたこととはつながってますよね」と食い下がってくる。「そうですね、地元が傷ついたからこそ大切さを…」などと語れば、そのセリフが切り取られることは目に見えている。せめて、コミュニティスペースの効果を考えたり、具体的な運営の仕方を紹介してもらえたら地域活性の役に立てるのに、ただ単に「復興の美談」として消費していくだけ。その物事が持つ本来の意味や価値ではなく、復興のストーリーに合致するか否かで取材対象が決められている。震災後の報道は、そういうものが多かった。

 メディアのなかの復興は、なんとなくの一体感を醸成はするが、物事の本質を伝えきることができない。むしろ、その聞こえの良さゆえに、本当に復興を必要としている弱者の姿を見えなくさせてしまったり、価値が認められていないものに過剰にそれらしい価値を「添加」してしまうことにもなる。復興を叫ぶことが、物事の本質や真価、課題を見えなくさせてしまうのだ。

 震災後、福島県内ではさまざまな食のプロジェクトが生まれた。風評打破のためにさまざまな新商品も誕生した。「福島の産品はすばらしい」というような言葉がメディアに並んだ。確かに風評で傷ついた土地に自信を取り戻すための言葉は必要だったと思うし、実際に高い評価を受けた商品もある。しかし、そうした前向きにすぎるマジックワードは時に批評性を排除し、福島県内の復興ストーリーのなかでしか通用しないものを生み出してしまう。復興を掲げているとなんとなくメディアで紹介され、盛り上がっているように見えるからだ。

 評価されているのはどのポイントなのか。他県の取り組みはどうなのか。改善の余地はどこにあるのか。本当に必要だったのは、多角的に事象を捉え、自分たちの宝物を虎視眈々と育てていくヒントになるような報道ではなかったか。

大義脱ぎ捨てた報道を

 もちろん、この「復興」の問題はメディアだけが悪いわけではない。復興という文脈を、私たちが自ら望んでしまう構造にも問題がある。

 震災復興の助成金ひとつとってもそうだ。「被災地復興のため」「双葉郡内からの移住者との交流を促進するため」「防災のため」「コミュニティの再生のため」を掲げないと、地域づくりの予算が出ない。本当は「賑わい創出」が目的なのに、企画書には「被災者同士のコミュニティ創出」と書かなければならない。復興予算を求めるたびに「私たちはまだ復興していない」ということを宣言しなければならないのだ。そのような助成金のシステム、予算執行のシステムもまた、復興の文脈に過度に依拠するものだった。

 だから、普段の地域づくりのプロジェクトがメディアに紹介されると、「被災地のコミュニティを再生するために企画された」とか、「双葉郡からの移住者との絆を再生するために」とか、そういう大義名分ばかりが取り上げられてしまう。「実は復興なんてどうでもよくて、自分たちがこの地域での暮らしを楽しみたいだけなんです」なんて本音を言ってしまったら復興の美談から外れてしまうというわけだ。そして、復興のために頑張る福島県民が再生産されていく。

 これからは、敢えて「復興に水を差す」ように見える企画や、復興のストーリーから漏れ落ちてしまうような小さな固有の事象を取り上げた発信が増えてくれればと思う。震災から時間が経ったからこそ話せること、検証できるものもある。たとえそれが「後出しジャンケン」のように見えても、その検証や考察が他県の防災に役に立てば、それは希望になる。時間が経過したからこそ、復興という大義を一旦脱ぎ捨て、マジックワードを因数分解しながら、逆に課題の中に深く潜っていくような報道に期待したい。

ローカル化する中央メディア

 前項では、復興の文脈に依拠しがちなローカルメディアについて紹介したが、中央のメディアについても言及しておきたい。キーワードは「東京ローカル化」である。東京中心主義と言い換えても良いこの問題もまた、福島とメディアの問題を語るうえで欠かすことができないテーマだと思う。

 東京ローカル化問題というのは、テレビを例に取るならば、キー局がキー局としての役割を果たさずに、東京というローカルから捉えたニュースとして処理してしまう、というような問題のことを指す。

 例えばこうだ。福島県内の魚介類の放射線量が激減し、国の基準値を上回るような検体が年間を通じて1尾も見つからなかったことが調査の結果わかったとする。あれほど汚染が懸念され、かつてはしきりに報道もされていた福島の水産品について、その安全性が確認されたことは全国ニュースで伝えるべき価値がある。

 福島の魚は全国に流通しているわけだし、福島県産の海産物に対するイメージの悪化が問題視されるなかで、こうした正しい情報の伝達は、キー局にこそ担ってもらいたい大事な役割である。つまりこの調査結果は、ニュース性から言ってもキー局の存在意義から言っても、取り上げられるべき重大ニュースのはずだ。

 しかし、東京を一つのローカルとして考えれば、この調査結果は「福島のローカルニュース」の価値しかなくなってしまう。福島のニュースなのだから福島県内で伝えられていれば良いという判断になってしまうのだ。

 震災直後に雑誌「アエラ」が見出しに使った「東京に放射能がくる」など東京ローカルの最たるものではないだろうか。

 放射能が「くる」のは「東京に」である。原発事故を国全体の問題として考えれば、福島の痛みは他人事ではないはず。東京目線だから放射能が「くる」になってしまうのだろう。

 中央のメディアなのだから、「福島の問題をいかに普遍的なものとし、全国の人たちに知らせるのか」「福島の問題を全国の視聴者と考えるにはどういう切り口があるか」を考えて欲しいと強く思う。

 福島第一原発で問題になっている「トリチウム水」の問題もまた、東京ローカル化に影響を受けている。

 この問題の最も大きなポイントは、「流すか流さないかの選択を漁業者に押し付けている」ことにある。現場の漁師に聞くと「そんな大きな問題をおれたちだけで決められるはずがない」、「国民全員で考えてもらいたい」という声をよく聞く。ところが、原子力規制委員会も政府も「漁業者に対して丁寧に説明しろ」というだけ。トリチウム水の海洋放出で最も懸念されるのは風評の再来なのだから、本来はメディアが、トリチウム水とは何かや、そもそも全国の原発でどのように放出されているのかなど、原発を多数抱える日本の国民として知っておくべき基礎的な情報をしっかりと報じて欲しい。

 あるいはこのような切り口もあるだろう。福島県沖は、原発事故後の試験操業が功を奏し、魚の個体数が劇的に増えている。全国の海域で漁業資源の減少が叫ばれるなか、福島県の漁業はサステナブルな漁業を考える上で大事なモデルケースになりつつある。福島の海は、もはや汚染された海ではなく、驚異的な資源増加を見せている海なのだ。その意味で、福島の漁業をいかに再生するかは日本の漁業の未来を占う大きな問題になりつつある。キー局や全国紙にこそ、そのようなスケールで、この問題の切り口を提示してもらいたい。

 また、東京ローカルは「政治」に結びつけるのも特徴だ。福島の現場の訴えよりも、あるニュースを「イデオロギー」や「政治」のフィルターを通して報じようとしてしまう。原発をどうするのか、どう廃炉まで導くのかは当然政治と結びつけて考えられるべきことだし、それもまた中央メディアの大事な役割であることは承知している。しかし現場の声より、メディアの主義主張の方が重要視されてしまうような報道のあり方が、被災地の社会の分断を進めているのではないかと感じることも多い。

 それは、「主語の大きさ」や「当事者の限定」として表出される。自分の都合のいい主張を「福島の声」として声高に叫んだり、自分の主義主張に沿うものを「現場の声」として拾い上げ、その当事者性の高さを利用して自分たちの主張をより補強しようとするような動きだ。そこに分断の芽が生まれる。小さな声に政治性を付与して膨らませるのではなく、小さく多様な声を届けるような伝え方のほうが、逆に読者に「考えること」を促すのではないか。結論ありきの報道だから「あいつらを許さん」という感情を刺激してしまうのではないだろうか。感情の時代、メディアが果たすべき役割は、ますます大きくなっていると思う。

厄介を押し付ける東京目線

東京電力福島第一原発沖で釣った魚の放射性物質濃度を測定するうみラボのメンバー=2015年7月

 少し感情的になってしまったが、現状のような「東京ローカル」の目線が続けば、厄介な問題を、その当地に永く押し付けることになる。トリチウム水はおろか、これから問題になるであろう高レベル放射性廃棄物の「最終処分場」の問題をクリアすることもできないだろう。これは沖縄の基地の問題にも言えるかもしれない。つまり東京ローカルの目線は、すなわち「NIMBY」(Not In My Back Yard=うちの裏庭にはやめてくれ)の目線そのものなのだ。その目線は、一つの地域に大きな負担を押し付けているのに「それは私には関係がない」という無関係・無関心を作り出す。そしてその一方で政治に結びつけられることでさらなる分断も生み出す。いま求めたいのは、「それは東京の、いや全国の問題でもあるのだ」という視点を提示してもらうことである。

 そのような社会においてメディアに改めて求められるのは、多様な声を伝えていくこと、そして、より現実的な合意を形成していくための「媒介役」を担うことではないだろうか。特に震災後の福島県においては、それは「専門知と現場」を結びつける役割と感じる。

 一つ例に出したいのは、私が2013年の秋に、同志とともに始めた「うみラボ」という海洋調査のプロジェクトだ。私たちは自分たちで船をチャーターし、魚を釣り、地元の水族館の協力のもと、5年間で300近くの検体を測定し、その放射線量をブログなどで発信してきた。当時は東電や国、県のモニタリングしかなく、

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