メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

国民が「共感」できる言葉を

政治家の劣化が招く無関心

東照二 米ユタ大学教授

 「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め……」

 これは誰の言葉だろうか。4月1日に記者会見で読み上げられた新元号「令和」に関する安倍首相の談話である。希望に胸を躍らせるような会見は、様々な素晴らしい言葉で溢れかえっている。「悠久」「薫り高き」「美しい」「見事」「咲き誇る」「願い」などなど、どれも肯定的で未来に向けて光り輝いている言葉だ。後に続く「心からの感謝の念を抱きながら、希望に満ちあふれた新しい時代を国民の皆様と共に切り開いていく」という言葉にも異論を唱える人はいないだろう。時間にして約4分20秒あまり。熱意や心情、新時代への幕開けを象徴するかのような言葉がちりばめられている。

 しかし、である。言葉の表層的な豪華さ、華麗さ、きらびやかさとは裏腹に、「薫り高き」「美しい」など、その実態は一体どういうものなのか、中身は全く見えてこない。かつて、「美しい国」という言葉を盛んに繰り返していた人だが、歴史的な枠組み、世界的な視野で俯瞰しながら語りかけ、深遠な議論を呼び起こすようなものは、今回の言葉からもほとんど感じられなかった。

なぜ、聞き手に響かない

新元号「令和」について記者会見する安倍晋三首相=2019年4月1日、首相官邸

 安倍氏は首相になる前、これという目立った政治的実績がなく、その点で「凡庸」な政治家といえるだろう。それにもかかわらず、どうして、このように長年にわたって日本政治の頂点に君臨しているのだろうか。国民は彼や彼の言葉の何を信じ、どこに惹き付けられているのか。

 2006年には「美しい国、日本」という言葉を用い、「活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた美しい国」を訴えた。「戦後レジームからの脱却」を唱え、先の戦争への「痛切な反省、お詫び」も含めて、「先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と主張した首相でもある。そのほかにも様々な主義・主張をしてきている。しかし、おしなべて、国民にとってわかりやすく、確固たる説得力のある主張をほとんどしてこなかった政治家だと言えないだろうか。

 政治家の言葉が人々の心に響き、「信じる」ことにつながっているか。それを測るうえで一つの参考になる考え方がある。主にビジネスの世界で、言葉の研究を重ねてきたアメリカ人のバート・デッカーが提唱しているシャープ(SHARP)モデルだ。これは五つの単語の頭文字をとったもので、次の通りである。Stories, Humor, Analogies, References, Pictures. つまり、発言には、必ず分かりやすい物語(たとえ)を入れて、面白み、ユーモアを込める。また、話の中身を推量できるもの、なんらかの例や参照になるものがあり、特に、目に見える、視覚化できる要素を必ず入れるというものだ。

 こういった要素があると、相手は話を聞き、説得されて、さらにもっと聞こうという気になるという。逆に言うと、こういった要素がない演説や話というのは、話し手がどんなに熱意を持って、根気強く語りかけたとしても、相手は聞こうとしない、聞いているように見えても実はあまり本気で聞いていない、つまり信用されない、ということになる。これを言い換えると、情報や事実、具体的、客観的データだけでなく、情緒、主観、経験、共感的な要素を入れないといけないということだ。つまり、情報にもとづいた「リポートトーク(report talk)」だけではなく、共感を中心にした「ラポート(信頼、親密なつながり)トーク(rapport talk)」が必要不可欠な要素になるということだ。簡単に言うと、安倍首相の言葉、そして、多くの政治家たちの言葉は、話し手を核とする情報中心の言葉、つまりリポートトークであり、聞き手とのつながりを求める共感中心のラポートトークが欠如しているということになる。多くの政治家は、もちろんそんなことは分かっている、いつも心がけていると言うかもしれない。しかし、では、実際、この二つのトークの形をいつも意識してやっているかというと、実は、往々にして、リポートトークだけに終始し、それがまるで政治家の道であるかのように勘違いしている人が案外、多いのではないだろうか。

小泉元首相の「言語力」

小泉純一郎首相(当時)の街頭演説に聴き入る人たち=2005年8月、相模原市

 かつての小泉純一郎首相は、数ある政策の中でも、特に「構造改革路線」を堅持して、「民間」に、そして「地方」にやる気を出してもらうべきだなどと主張し、空前の人気を集めた。国会を解散して選挙に勝利を収め、「郵政民営化」を成し遂げた政治家でもある。野党はもちろん、自分が総裁を務める自民党の中でも反対が強かった主張だ。

 自分の主義主張を押し通した小泉の「言語力」の特徴とは何か。ここでは日本記者クラブで語った「原発ゼロ」をテーマとする演説(2013年11月12日)を少し見てみよう。

 既に政界を引退していた小泉だが、東日本大震災以降、原発が抱える根本的な問題、つまり、膨大な核のゴミを最終処分する施設が、実は日本はおろか、世界にもないという現実に直面し、原発ゼロ運動を推進するに至ったという。会場はジャーナリストらで満員盛況であったという。毎日新聞専門編集委員の山田孝男氏は次のように記している。

 〈毎週、新聞コラムを書いて六年になるが、「小泉純一郎の『原発ゼロ』」ほど反響のあった回はなかった。新聞の読者はもとより、雑誌、テレビ、書籍編集者から多くのお便り、問い合わせをいただいた。元首相の発信が民心をとらえ、力強い底流を生み出していると考えるゆえんである〉(「文藝春秋」2013年12月号)

 何がそんなに多くの人を魅了したのだろうか? そこにいくつかの話術の特徴が見えてくる。

 第1に、話し手の本気度である。普通はあらかじめ用意された原稿を、ときにプロンプターを見ながら読んでいくだろう。超満員の日本記者クラブが会場なら、緊張も高まる。しかしながら、小泉の手元にはメモ程度のものがあるだけで、実際は聴衆を見つめながら、即興で、自分の言いたいことをずっと話し続けるのである。第2に、話す際のスピードに実に緩急があり、リズムを大切にしているという点も興味深い。少し長くなるが、具体的に見てみよう。句点はポーズを示している。

 「もう一つ、これが一番の、原発、ゼロ、批判、の中心だと思うんですけれども、どう言っているかというと、原発、必要論者推進論者は、ゴミの処分法は、いわゆる、核の廃棄物ですね、まあゴミと言いましょう通称、核廃棄物の処分法は技術的に決着しているんだと。問題は、処分場が見つからない、ことなんだと。ここまでは私と一緒なんですよ、ここからが必要論者と私の持論、違うところなんです。こっから必要論者はどう言っているか、処分場の目処がつかないという、それは、目処をつけるのが、政治の責任ではないかと、つけないのがいけないんだと。これが必要論者の、私は、中心だと思うんです。私は結論から言うと、(4秒の沈黙)、これから、日本においてですよ、核のゴミの最終処分場目処をつけれると思う方がよっぽど楽観的で無責任すぎると思いますよ」

 ポーズを機械的に一定間隔に入れて話しているのでは決してない。例えば、冒頭を見てみよう。ポイントは、一つ一つの言葉についてポーズをゆっくりと挟みながら、話しているところだ。よく聞くと、それぞれの言葉が、話し手の主張をそのままメリハリを利かせて繰り返されている。「もう一つ」、「これが一番の」、「原発」、「ゼロ」、「批判」、「の中心だ」という言い方である。普通はポーズもなく、一気にさっと話していいところだ。しかし、小泉はポーズを使うことによって、それぞれの言葉を独立させ、強調を与え、際立たせることに成功している。そして、ポイントは、そのそれぞれの言葉がまさに主張したい点を、そのまま象徴しているというところだ。

 さらに注目したいのは、このポーズを使うというスタイルがいつもそうではなく、全くポーズのない、流れるような流暢さで言葉が続くこともあるという点である。最後になると、「私は結論から言うと」で始まる言葉の後、約4秒もの沈黙(ポーズ)が始まる。そして、それから一気に、結論が述べられていく。「核のゴミの最終処分場目処をつけれると思う方がよっぽど楽観的で無責任すぎると思いますよ」である。結論が一気に崖を降りるかのように、表現されていく。ポーズと流暢さ、この二つを実に効果的に使い、聞き手の興味、関心を盛り上げていることがわかってくる。

聞き手巻き込む臨場感

 次の例では、世界で唯一、核のゴミの貯蔵庫を地下深くに作っていると言われているフィンランドのオンカロを訪問したときの言葉だ。ここは、岩盤でできたような地形で、そのさらに奥深く、400メートル降りたところに縦横2キロメートルの広場を作り、核のゴミを入れた筒を埋め込むのだ。ここで注目したいのは、

・・・ログインして読む
(残り:約4258文字/本文:約8123文字)