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「何も聞かない」検察の記者会見

取材プロセスを質問で示す時代に

鎌田靖 フリージャーナリスト

東京佐川急便からの献金事件で、自民党元副総裁の金丸信氏が罰金20万円だった反発から検察庁の看板に黄色いペンキが投げつけられた=1992年9月、東京・霞が関

 官房長官会見での東京新聞記者の質問をきっかけに、記者会見のあり方が問われているようだ。教科書的にいえば、記者会見は「人びとの『知る権利』に依拠して初めて成り立つ。ジャーナリズムが自由な言論・報道活動を通じて果たすべき重要な役割は公権力をチェック(監視・抑制)することであるが、権力に対し鋭く切り込めるのも人びとの負託を受けているからこそである」(注1)。少なくともこうした前提に立てば東京新聞記者の質問を官邸側が制限するということはあってはならない。

 ただその一方で自身の記者経験を振り返って、この問題を見直すと、こんな思いにもかられる。「この記者かっこいいなあ。でも自分が経験した記者会見とはだいぶ違うなあ」というものだ。以下私がかつて司法記者として経験した記者会見を紹介しながら、あるべき記者会見について考えてみたい。いや高邁な提言などできるはずもない。あるべき記者会見について考えるための材料を提供してみたい。

 1981年NHKに入局し、主に社会部記者として取材を続けた。このうち1989年から92年と2001年から03年の間、司法記者クラブに所属した。司法記者の仕事は二つにわかれる。日々の裁判を担当する記者と検察の動きをカバーする記者だ。私は一貫して検察担当だった。当時、東京地検特捜部はリクルート事件をはじめ国会議員の汚職事件や大型経済事件を嫌になるくらい相次いで摘発していた。そこで検察担当記者の最大の取材テーマは、次に特捜部がどんな事件を手がけるか、これに尽きた。

(注1) 『新 現場からみた新聞学』天野勝文、橋場義之編著 学文社 p36

沈黙の次席会見

 司法記者クラブには新聞、テレビ、通信社合わせて十数社が加盟していたが、当時は平日の夕方東京地検次席検事が毎日定例会見を開いていた。各社一人ずつ会議室に集まって始まるのだが、まず沈黙が続く。この後、事件とは関係ない季節の話題とかプロ野球の話になって、終わる。内偵中の事件について聞くことはほぼない。この繰り返しだ。もちろんその日特捜部が誰かを逮捕した(事件が弾けたといっていた)時には、活発な質問が飛ぶ。例えば逮捕の発表文を見て、より詳しい説明を求めたり、隠している点はないか問いただしたり。ただこうした機会はいつもあるわけではない。そしてふたたび沈黙の会見が続く。

 なぜこうなるのか。記者経験のある人はわかると思うが、それぞれの社は競合関係にある。特捜部の動きをいち早くキャッチしてスクープするのが検察担当の最終目標だ。少なくとも私はそう思っていた。人々の知る権利に奉仕するという意識は残念ながらこれっぽっちもなかった。他社に打ち克つためには、こちらの手の内を明かすわけにはいかないのだ。質問のニュアンスでどこまで知っているか判ってしまう。他社の記者も同じように考えるのだろう。だから誰も質問しない。

 そもそも検察担当になった時、上司から「記者会見では余計な質問をするな。他社が何を聞くかだけ聞いておけ」と指示されているのだから。次席会見は主な取材対象ではない。取材はあくまでも密行だ。今もそうだと思うが、特捜部では取材先は副部長以上というルールがある。一線の特捜検事や検察事務官を取材したことが当局にばれると、特捜部「出入り禁止」というペナルティーを受ける。しかしこんなルールを守っていては情報は取れない。検察内部の取材先を開拓するため、いわゆる夜討ち朝駆けに励むのだ。私のような凡庸な記者でも回数をこなせば何とか情報を入手できるようになる。会見に頼る必要はない。こうして記者会見は事実上形骸化してゆく。

 当時次席検事の中に怒りっぽい人がいた。ある時しびれを切らしたのか「お前ら何も聞かないんだったら、もうやめるぞ。こっちはサービスでやってやってるんだから」という趣旨のことを言った。傲慢な物言いだが、一面の真理を突いていたのかもしれない。

「官房長官会見とは性質が違う」

 当時の記者会見について、他の記者はどう受け止めていたのだろう。NHK社会部時代の先輩で特ダネ記者としてならしたノンフィクション作家の小俣一平氏に聞いてみた。ロッキード事件の主任検事だった吉永祐介元検事総長に最も食い込んだ記者として知られ検察記者として私の目標だった。その小俣氏は開口一番「

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