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自分で人生計画できる環境を 出産奨励の前に考えてほしいこと

福田和子 #なんでないのプロジェクト代表

 出生動向基本調査等の結果によると、未婚者の9割弱には結婚願望があり、既婚者及び結婚願望のある未婚者の希望子ども数の平均は、男性女性ともに2人。しかし現実はというと、2018年の合計特殊出生率は1.42人(厚生労働省)。

 読者の皆さんは、この希望する子どもの数と実際の合計特殊出生率の大きな乖離を前に、①少子化という危機にこの乖離は問題だ!と思うだろうか。それとも、②産みたいという個人の希望がかなえられない社会は問題だ!と思うだろうか。

 「産む機械、装置の数が決まっちゃったと」(2007年 柳澤伯夫厚生労働相、自民県議の集会で)

 「子どもを4人以上産んだ女性を厚生労働省で表彰することを検討してはどうか」(2017年 山東昭子参院議員、自民党役員連絡会で)

 「子どもをたくさん産んで、そして、国も栄えていく」(2018年 二階俊博自民党幹事長、講演で)

 「子どもを産まなかったほうが問題なんだ」(2019年 麻生太郎副総理兼財務相、国政報告会で)

 「お子さんやお孫さんにぜひ、子どもを最低3人くらい産むようにお願いしてもらいたい」(2019年 桜田義孝元五輪相、自民党議員のパーティーで)

 「(6年間政治家を務める女性候補に向かって)一番大きな功績はですね、子どもを作ったこと」(201年 三ツ矢憲生衆院議員、参院選の応援演説で)

 こういった発言を見るにつけ、私はこの国に生きる一人の出産適齢期にある女性として、この国のリーダーを務める人たちの視線は、圧倒的に「国家の危機」に向いており、私たち「個々人の意思」には向けられていないことを痛感してきた。先の質問でいえば、②の視点ではなく、あくまで①が重視されている状況だ。

 果たして、このような「生殖」に関する問題は、「国家」の視点から捉えられるべきなのか、それとも「個人」の視点から捉えられるべきなのか。実はこの議論は、25年も前に、はっきりと決着がついている。

国家の問題から変化

 今から約25年前、ちょうど私が生まれた頃のこと。国際人口・開発会議(1994年、カイロ)と第4回国連世界女性会議(1995年、北京)のふたつの会議を通して、世界は大きな変化を迎えた。

 それまで、「生殖」や「出産」は、あくまで国家にとっての人口や経済に関する問題としてしか扱われてこなかった。それが、この二つの会議を契機に、個々人の生活の質、選択、尊厳、権利の話へと変化を遂げた。

 すなわち、「すべての個人とカップルが、子どもを産むか産まないか、産むならいつ産むか、何人産むかを自分自身で決めることができること」。そのためにも、「誰もが妊娠・出産、家族計画、性感染症、不妊、疾病の予防・診断・治療などの必要なサービスを必要な時に受けられること」。これらが権利として広く認識されるようになったのである。この権利は「セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス・ライツ(性と生殖に関する健康と権利、SRHR)」と呼ばれ、今ではSDGs(持続可能な開発目標)にもしっかり明記され、世界的に重要な権利だ。

 2019年11月には、ケニアのナイロビで、カイロ会議から25周年を記念した国際人口・開発会議が開催された。テーマは「残された課題」。私はIPPF(国際家族計画連盟)のユースとして参加させていただいた。会場で私は、課題が山積していることを認識しつつ、先人たちがこの25年間積み重ねてきたSRHR実現のための労苦と、それによる進歩を思い、涙が止まらなくなった。

 しかし、日本では「残された課題」どころか、SRHRという概念がそもそも浸透すらしていない。いくつかのSRHRに関わる世界会議に参加し、日本の現状を外から見る機会を得てきた私の率直な現状認識である。そして、このSRHRという概念こそが、少子化問題を考える際のカギになると考えている。

タブー視が生むこと

 私は普段、スウェーデンの大学院で公衆衛生を学ぶ傍ら、「#なんでないのプロジェクト」というムーブメントを通じ、日本でこのSRHRが守られるように訴えている。なかでも避妊へのアクセス改善については、「日本の避妊はないものだらけ」「自分を大切にというなら自分を大切にできる環境をください」等をスローガンに掲げて力を入れている。

 読者の方の中には、「日頃避妊を語っている人間が、少子化問題を語る」ことに違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれない。しかしSRHRの観点をもってすれば、

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