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多様なジャーナリズムのために 意思決定の場に「面」で女性を

与那嶺一枝 沖縄タイムス編集局長

 新聞記者の仕事に興味を持っている学生でさえ、就職先へ具体的に抱く不安は、今現在の業界のありようにあることを度々聞いてきた。学生たちの不安はある面では合っているが、マイナスポイントは大きく、プラス面は最小限に受け止めていると感じることも少なくない。

 入社前から既に落ちこぼれだった私が、ストレスを抱えながらも30年余りにわたって働き続けられたのは、何といっても他に代えがたい面白い仕事だからだ。利益の追求ではなく沖縄社会のためになる仕事がしたいという初心はくぎを刺されなくても、常に意識させられる職場環境であることも大きい。

 大学4年生だった1988年の最初の入社試験では、記者職は憧れの職業でしかなく、到底受かるはずはないと思いながら受験した。期せずして最終面接まで残ったが、結局落ちたときには信じられないくらいに悔しさが込み上げてきた。就職活動をするまでは男女平等だと思っていたのに、女性は1人しか採用されないといううわさがあったことも影響した(実際には、女性は89年に2人、90年は4人が入社した)。男子は就職先が次々と決まったが、女子は苦戦していたことも悔しさに拍車を掛けた。

 両親にもうそをついて就職浪人したが、89年も不合格。3度目の90年の中途採用試験で、ようやく入社できた。その年、沖縄タイムス社は2、4、8、9月に新入社員が入ってくる大量採用の時代。バブル期でなかったら私は採用されなかった。意地の粘り勝ちだったのである。

悩み多かった警察担当

 校閲部を経て入社2年目は社会部フリー(遊軍)に配置されたものの、取材力が足りず、まったく仕事はできなかった。このままでは、さらに落ちこぼれてしまうと焦って手を挙げたのが「記者の基本の基」と男性の先輩たちから何度も教えられてきた警察担当。社内で女性が担当するのは初めてだった。自ら望み、小さなスクープを放ったこともあるが、男社会にどっぷりと漬かり、悩みが最も多かった時期でもある。

 毎日のように警察官らとお酒を飲んで家に帰るのは午前2時、3時。競合他紙の印刷工場から朝刊をもらって帰宅することも度々あった。3カ月ぐらいたって、父が怒って口を利いてくれないことを、母に耳打ちされて気付くほど仕事に必死だった。20歳代だったので体力的にはあまり問題はなかったが、警察官と夜中まで飲んで苦労して断片的に得た情報をつないで裏を取り、警察情報で他紙よりも半日早く書くことへの違和感を、心にしまいながら仕事をするのは苦しかった。

 広報担当の次席へ毎朝、雑談をしに出向くのもいつまでも慣れなかった。会話の糸口を探す難しさよりも、母親ほどの年齢の女性が毎朝、お茶を出してくれることに恐縮し、いたたまれない気持ちになった。南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)下で日本人が「名誉白人」として扱われたように「私は名誉男性みたいなものだ」と自らを皮肉っていた。

 確かに、男性記者に比べて女性は極端に少なく顔も名前もすぐに覚えてもらえる利点はあった。が、男性ならスルーしてしまうかもしれない疑問や悩み、不必要な親切心があちらこちらに転がっていて、言い訳がましく言えば仕事に集中できなかった。それでも辞めようとは思わなかった。

 理由は二つある。この頃には、違和感を持ちつつも、苦労して人間関係をつくって世間が知らない情報を真っ先に知って報じる面白さが、少しずつだがやっと分かってきたからだ。そして最も大きかったのは、同期や先輩の女性たちと、とことん愚痴って紙面や企画、ジャーナリズムを熱く語り、千鳥足で帰る頃にはもう少し頑張ってみようと明るい気持ちになれたことだ。何でも言い合える女性の仲間たちとは、苦しいときほど支え合っていた。

 ただ、生じた疑問や違和感は根本的に解消されずに、ことあるごとにそれが顔を出しては考え込み、答えを見つけようとフェミニストや記者が書いた本を買い求めた。真っすぐにすんなりと前に進めない不器用さに、自らのことを面倒くさいヤツだと嫌気が差すこともあったが、あのときに悩んだからこそ、見えてきたことがあると今は思っている。

 警察頼りの情報で半日早く報じるニュース価値については意見が分かれるだろう。今は県警の居室にさえ容易に入れず取材は一段と難しくなっているが、断片情報を集めて裏を取る作業は、なんといっても重要な取材のいろは、訓練である。警察権力を監視する意味もあり、重要な仕事であることに変わりはない。

悩んだセクハラ

 他に悩んできたものの一つにセクハラがある。2000年初頭ぐらいまで、スナックなどでカラオケに合わせてチークダンスを踊るという奇妙な「文化」があった。ときどき誘われたが「下手なので足を踏んでしまいます」と拒んでいた。あるとき某企業の取締役にしつこく誘われた。私以外に、店内に居たのは、その取締役の男性部下。無言の圧力を感じ、負けてしまった。

 そのときの光景と踊ってしまったことへの後悔を鮮明に覚えている。この頃のマスコミは、女性記者に対して「〝女〟を使ってネタを取る」とやゆする風潮もあった。だからよけいに、OKしてしまったことで自己嫌悪に陥った。やがて自分で自分を傷つけてしまう行為は今後はやらないし、後輩にもやらせたくないと思うようになった。

 セクハラを我慢しなければならないと思ってしまうのは、取材相手という側面が大きい。しかし、取材先は

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