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特ダネの記憶 NHKスペシャル㊤「日本海軍400時間の証言」

時代がその時を待っていた よみがえった音声テープ

右田千代 日本放送協会エグゼクティブディレクター

 なぜその資料が日の目を見ることになったのか。今なお、不思議な縁を感じる。

 本来、歴史の闇に葬られていた資料であった。それは「なぜ太平洋戦争を始めたのか」、そして「なぜ負けたのか」を語り合ったある会議の録音テープと議事録である。

 この会議を特別なものとしているのは、参加者の多くが戦争を遂行した当事者であり、責任の一端を負う立場にある者たちだったからだ。つまり、日本人だけでも310万人が犠牲となった戦争について、自らの過ちを問い、責任に向き合う会議であった。

歴史の闇の中から現れた資料

戦後、海軍中枢にいた元軍人たちが開いた「反省会」の音声テープ。門外不出とされた当事者たちの膨大な肉声が記録されていた。開戦に向けて海軍の指導者たちはどんな決断をしたのか。現代の日本人が知っておかなければならない歴史の空白を埋める貴重な資料だった(NHKスペシャル「日本海軍400時間の証言」から)

 彼らは、その中で、知ることを包み隠さず語ることを互いに課していた。だからこそ、そこで語られる内容は「門外不出」と決められていた。

 月に1回のペースで、彼ら以外の誰にも知られることなく、粛々と会議は続き、歳月の経過とともに参加者が高齢化する中、130回を超えて以降、記録は途絶えた。そして、全ての会話を記録した音声テープ225本と膨大な資料が残った。

 参加者同士の約束事として、発言者が存命中は封印されるはずだった。しかし、そこには現代との接点となる人物がたまたま関わっていた。この「人の縁」が、時代を超えて、資料を伝えていくことになる。
会議の名前は「海軍反省会」。

 私たちがこの資料を目にした時は、会議が終わってから15年たっていた。それまで「海軍反省会」の名を聞いたことすらなかった。資料を前にした時、「特ダネ」という言葉は思い浮かばなかった。むしろ、歴史の闇の向こう側から忽然と立ち現れてきた資料に、一体そこで何が語られているのだろうという恐れと緊張感を抱きながら、取材は始まった。

 結果的に、それは私たちが知るべき歴史の空白を埋める資料だった。本稿では、海軍反省会の音声テープが世に出るまでの過程を中心にお伝えする。

 時代を超えて人類が共有すべき歴史の記録が、人と人とのつながりによって、かろうじて伝えられていく、奇跡のような実情があった。

人の偶然のつながりが残した資料

 「海軍反省会」の資料が、公の場に姿を現すきっかけを作ったのは、現在、広島県の呉市海事歴史科学館館長を務める戸髙一成さんである。

 私たちが出会った時は、東京にある昭和館の図書情報部長だった。太平洋戦争や海上自衛隊などに関する番組を取材してきたメンバーが、戦争の歴史、特に日本海軍について大変詳しい戸髙さんに、定期的に勉強会をお願いするようになっていた。

 戸髙さんは、歴史の研究者ではない。多摩美術大学で彫刻を学び、卒業後は司書の資格を取ったという。1948年と戦後生まれである。しかし、その口からは、歴史の教科書には載っていない、海軍の幹部から直接聞いたという生々しい話が次々と語られた。

 そのわけを尋ねると、若い頃から軍関係の歴史に興味があり、古本屋を巡って資料を収集する一方、元海軍士官の集まりにも顔を出していたという。その中で、軍令部参謀などを務めた元海軍中佐・土肥一夫さんと出会う。土肥さんが主管を務めていた縁で、財団法人・史料調査会に通うようになったのだという。

 史料調査会とは、戦後、海軍の歴史を研究するために設立された組織で、焼却や紛失を免れた貴重な資料が集められていた。そのメンバーは、戦争中は最前線に立っていた海軍の幹部たちだった。

 目黒にあった史料調査会に戸髙さんは時間をつくっては通った。当時、わざわざ足を運んで海軍の資料を熱心に読む若い人は、とても珍しかった。その戸髙さんに話しかけてきた人がいた。当時史料調査会の会長だった元海軍中佐・関野英夫さん。昭和4(1929)年海軍兵学校を卒業して以来、連合艦隊参謀などを務め、昭和の海軍の全てを見てきた人物である。

 海軍に大きな関心を持ち、敬意を持って元海軍士官の話に耳を傾ける戸髙さんに関野さんは、史料調査会の「主任司書」になるよう依頼した。こうして戸髙さんは、史料調査会で、唯一の戦後生まれの職員になり、その後

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